やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 畑 裕
 東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科病態代謝解析学分野
 『医学のあゆみ』の読者諸先生におかれては“Hippo pathway”は聞き慣れない言葉かもしれない.表題をみただけであえて手に取ろうとされない向きも多いかと懸念される.だがまっていただきたい.Hippo pathwayは毎週のように主要な雑誌に研究成果が発表されるホットな研究対象であり,臨床応用に展開する潜在力を秘める,今が買い時の成長株だ.
 Hippo pathwayの“Hippo”とはカバのことである.カバと冠するシグナル伝達系が登場したのは,ショウジョウバエの研究に端を発する.器官の大きさに異常を示すショウジョウバエの変異体の解析から,原因遺伝子として蛋白リン酸化酵素が同定され,変異体の表現型がカバを連想させたため,Hippoと命名された.続いてHippoの上流・下流で働く一群の遺伝子が同定され,Hippo pathwayとして世の中に紹介された.2003年のことである.ヒトゲノム計画は終了していたので,Hippo pathwayの構成分子がヒトでも保存されていることはただちにわかり,腫瘍抑制シグナルとして癌研究の視点で研究が展開された.その後,組織幹細胞やES細胞における役割が注目され,再生医学の観点からも関心を集めた.最近では糖尿病など代謝疾患との関連も取り沙汰されている.この間,Hippo pathwayに関係する分子が続々とみつかり,他のシグナル伝達系とのクロストークも明らかとなり,Hippo pathwayの版図は拡大し国境線は曖昧になり全体像が把握しにくくなっている.Hippo pathwayの英文レビューは毎年多数発表されているが,和文総説は2011年に雑誌で特集されて以降,まとめられていない.そろそろ最近の進展を総括して,新しい関心をよび覚まし,幅広い研究展開に結びつける必要があるのでないかというのが,本特集を企画したきっかけである.本特集の狙いの詳細についてはWebサイトをご参照いただきたいが,複雑なHippo pathwayを百科事典的に網羅するよりも,研究の最先端の動向を紹介して,Hippo pathway研究の熱気を伝えることに主眼をおいた.
 Hippo pathwayの研究が急拡大したのは,もとより医学的・生物学的に重要だからであるけれども,Hippoという名前の効果もあずかっていそうだ.Hippo pathway関連の学会ではカバのイラストが頻出する.人がいかなる根拠で動物に先入観をもつのかわからないが,カバに悪感情をもつ人はいないだろう.大らかでコミカルなカバがHippo pathwayのイメージに貢献している.そんなことをとりとめなく思っていた矢先に,福岡伸一先生が,メトロポリタン美術館所蔵の古代エジプトのカバの像が来訪者の間で人気を集めていると紹介されている新聞記事に遭遇した.カバの魅力あってのHippo pathwayという自論を後押しされたように感じて,ご寄稿をお願いしたところ,ご快諾いただけた.福岡先生のお力も借りた本特集が,多くの方がHippo pathwayに馴染む糸口となれば幸いである.
 【巻頭エッセイ】カバのウイリアム(福岡伸一)
 はじめに(畑 裕)
 本特集の読み方(畑 裕)
基礎編
 1.細胞極性制御因子とHippoシグナルの接点(山下和成・大野茂男)
  ・進化的に保存された極性制御因子,PAR-aPKC複合体,Crumbs-Pals-Patj複合体,Basal polarity複合体
  ・PAR-aPKC複合体による細胞増殖の制御とHippoシグナルへのかかわり
  ・Kibra,Merlin複合体はPAR-aPKC複合体とHippoシグナル因子の両方に結合する
  ・AmotはApical polarity複合体とHippoシグナル因子の両方に結合する
  ・その他の極性制御因子,ASPP2,Lkb1(PAR4),PAR1,ScribbleとHippoシグナル
  ・細胞極性とHippoシグナルの接点とは? 今後この分野は何をめざすべきか
 2.Latsキナーゼによる細胞周期と細胞死の制御機構(藪田紀一・野島 博)
  ・LatsによるM期制御 ・Latsによる細胞死の制御
 3.哺乳類NDRキナーゼの細胞機能―もうひとつのHippo下流キナーゼ(永井友朗・水野健作)
  ・NDRの活性制御機構
  ・哺乳類以外の生物種におけるNDRの細胞機能
  ・哺乳類NDRの細胞機能
 4.Hippo-NDRキナーゼシグナル伝達経路による脳神経機能制御(大領悠介・他)
  ・NDRキナーゼファミリー ・Hippo-NDRシグナルと脳神経疾患
  ・Hippo-NDRシグナルと神経細胞制御
 5.Hippo pathwayによるmicroRNA生成制御(森 雅樹)
  ・miRNAは多彩な機能をもつ低分子RNAである
  ・miRNAの生成プロセス
  ・miRNAは癌組織で発現が抑制されている
  ・miRNAは発生や異なる細胞密度でも発現がグローバルに変動する
  ・Hippo pathwayはmiRNA生成を調節する
  ・Hippo pathwayはp72を介してmiRNAを調節する
  ・Hippo pathwayによるmiRNA制御の機能的意義
  ・考察・展望
 6.RASSFとHippo pathway(岩佐宏晃)
  ・ショウジョウバエdRASSFとHippo pathway ・RASSF6とHippo pathway
  ・RASSF1AとHippo pathway ・線虫RASSFホモログRSF-1
 7.細胞の協調と競合におけるHippo経路の役割(榎本将人・井垣達吏)
  ・細胞間の協調におけるHippo経路の役割 ・細胞競合におけるHippo経路の役割
 8.栄養・エネルギーセンサーシグナルとHippo pathway(平林 享)
  ・PI3K-mTORシグナル経路によるHippopathwayの制御
  ・HippopathwayによるPI3K-mTORシグナル経路の制御
  ・LKB1-AMPKシグナル経路によるHippopathwayの制御
  ・インスリン/IGF-Iシグナル経路とHippopathwayをつなげるSIK
発生
 9.肝形成および肝癌におけるHippo-YAPシグナル経路の役割(千葉恭敬・仁科博史)
  ・Hippo-YAPシグナル経路
  ・Hippo-YAPシグナル経路による成体マウスの肝サイズ制御と発癌抑制
  ・YAPによる発生期のマウス肝形成の制御
  ・Hippo-YAPシグナル経路によるヒト肝癌発症とヒト胆道形成の制御
 10.心臓発生における転写共役因子Yapの機能(福井 一・望月直樹)
  ・遺伝子改変マウスによるHippoシグナルの重要性の証明
  ・TEADを介した転写調節
  ・Yapによる心筋細胞の増殖促進
  ・Yapの転写を促進する上流シグナル
  ・心臓形成におけるS1PシグナルによるYap調節機構
 11.血球,血管内皮分化とHippo pathway(祢次金 進・高橋秀治)
  ・初期発生におけるYapの機能
  ・細胞分化とHippoシグナル
  ・ツメガエル胚におけるHippoシグナル分子の発現パターン
  ・ツメガエル胚の一次造血におけるMstの機能
  ・一次造血におけるMstの作用点
  ・血球・血管形成とHippoシグナル
疾病:癌
 12.悪性中皮腫とHippo pathway(関戸好孝)
  ・悪性中皮腫の病理
  ・悪性中皮腫におけるNF2遺伝子の異常
  ・悪性中皮腫におけるHippoシグナル伝達系の異常
  ・悪性中皮腫におけるYAP1の活性化
  ・悪性中皮腫細胞においてHippoシグナル伝達系とクロストークするシグナル伝達系
 13.Hippo経路と腫瘍―Hippo経路変異による癌モデルマウス(後藤裕樹・他)
  ・肝におけるHippo経路変異マウス ・皮膚におけるHippo経路変異マウス
  ・膵におけるHippo経路変異マウス ・T細胞におけるHippo経路変異マウス
  ・腸管におけるHippo経路変異マウス ・神経におけるHippo経路変異マウス
  ・肺におけるHippo経路変異マウス ・骨におけるHippo経路変異マウス
 14.Mst1下流分子Rab13による細胞遊走,増殖の制御(錦見昭彦・他)
  ・LFA-1によるリンパ球の接着活性の制御
  ・腸管上皮組織形成と維持に関与するシグナル
疾病:癌以外
 15.心臓とHippo pathway(佐渡島純一)
  ・心臓におけるHippo情報伝達経路の役割 ・YAPによる心臓の再生の促進
  ・心臓におけるYAPの制御 ・YAPによる細胞死の抑制,細胞増殖の促進,心肥大の促進のメカニズム
  ・胎生期心臓におけるYAPの機能
  ・マウスの心臓におけるYAPの機能 ・今後の課題
 16.神経変性疾患の細胞死とHippo pathway―神経変性はHippo pathwayで制御されるか(田村拓也・岡澤 均)
  ・神経変性疾患における細胞死は何か?
  ・TRIADの分子メカニズムにおけるHippo pathway
  ・神経変性疾患の細胞死はTRIADか?
 17.免疫細胞とHippo pathway(木梨達雄)
  ・Rap1シグナルによるMst1の活性化とLFA-1制御
  ・リンパ球動態とMst1
  ・胸腺選択とMst1
  ・制御性T細胞とMst1
 18.Hippo pathwayと不妊治療(河村和弘)
  ・卵胞発育 ・早発卵巣不全(POI)
  ・Hippoシグナルの卵胞発育への役割 ・IVA(in vitro activation)
 19.脂肪細胞分化とHippo pathway(角 朝信・戸邉一之)
  ・脂肪組織の分類
  ・脂肪細胞増殖と分化のシグナル
  ・Hippo pathwayによる脂肪細胞増殖と分化の制御
  ・Hippo pathwayとWnt pathwayに共通するメディエータとしてのTAZ
  ・Hippo pathway活性化とcanonical Wnt pathway活性化抑制により生じる不整脈原性右室心筋症
 20.低分子化合物によるHippo pathwayの機能解明と応用展開(中川健太郎・小高愛未)
  ・細胞内局在を利用したYAPを制御する化合物の探索
  ・細胞の浮遊性増殖を利用したTAZ活性化化合物の探索とその利用
  ・YAP,TAZを標的とする化合物開発の現状

 サイドメモ
  一次繊毛
  どのようにしてpri-miRNAのみがMicroprocessorに切断されるのか
  let-7の転写後調節
  遺伝的モザイク法
  細胞競合
  Hippo pathwayの低分子化合物による治療標的
  MCAT配列とTEAD
  トランスジェニックゼブラフィッシュとモルフォリーノ(MO)による蛋白発現抑制
  ナショナルバイオリソースプロジェクト―ネッタイツメガエル
  アスベスト(石綿)
  接触阻止現象(コンタクトインヒビション)
  心肥大を伴わない心拡大とは?
  心臓の壁張力と心肥大,アポトーシスの関係
  α-amanitin
  Ras-association domain family(RASSF)
  胸腺細胞分化とAIRE