やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 岡澤 均
 東京医科歯科大学難治疾患研究所神経病理学分野
 精神発達遅滞・自閉症に代表される発達障害は私たちにきわめて身近な疾患であり,大きな社会的問題ともなっている.発達障害には1884年のルドルフ・ベルリンによる読字障害,1943年のレオ・カナーの自閉症の記載から100年以上の臨床・研究の歴史がある.しかし,その根本的理解と真に有効な治療法確立にはいぜんとして距離があるというのが,臨床家・研究者そして社会の認識ではないであろうか.
 この遅れにはいくつかの原因が指摘されているが,以下のようにまとめることができるだろう.
 第1に,“発達障害”の概念そのものに混乱がある.ICD,DSMなどの国際的分類・診断基準,あるいは発達障害者支援法などの法令には相互にズレがある.歴史的に分類帰属がたびたび変更されていることもその証拠である.さらに,非医学部出身研究者が“発達障害”でイメージするものは脳組織・細胞の発達段階に生じる形態・機能異常であり,これらは分子的裏付けをもっている.これはかならずしも自閉症スペクトラムあるいは広汎性発達障害とイコールではない.言語・社会性などの選択的症候(中間表現型)の理解には,この間をつなぐもの,たとえば神経回路選択的障害の分子基盤解明が必要であろう.また,分子生物学という共通言語が多くの医学領域で遺伝学,生化学,生理学,病理学,臨床医学の相互理解を促進し急速な進歩をきたしたことを顧みると,発達障害においても立場を超えた共通認識・共通言語の形成が必要であろう.
 第2には,“発達障害”が均一な疾患ではないことにある.脳疾患研究においてはじめに分子生物学のアウトブレークが起こったのは神経変性疾患である.この場合,病理学的メルクマール(Alzheimer病の老人斑,Parkinson病のLewy小体など)が疾患の均一性担保に大きな役割を果たしてきた.それに対して,中間表現型により臨床診断される“発達障害”の分子遺伝学的・分子生物学的基盤は,当然ながら多様である.この不均一性に対してはGWAS(genome-wide association study),NGS(next generation sequencing)など新技術による共通性抽出が威力を発揮しつつあり,今後多量の原因遺伝子あるいはその候補が固定されるであろう.それらの特定遺伝子変異によるモデルケース的発達障害疾患の分子病態の掘り下げと中間表現型の対応が将来的に情報統合がなされることで,不均一性の解決が図られるであろう.
 第3には,環境と遺伝子のかかわりである.歴史的に,自閉症は“環境・教育”が強調された時期と“遺伝”が強調された時期を経てきた.しかし,エピゲノム研究の進歩により,遺伝子発現が環境によって変化することは常識となっている.遺伝子型による脆弱性と環境要因の相互作用によって表現型が現れるという認識のもとに,臨床・研究が整理されるべきであろう.
 本別冊では,このような将来展開に向けて,幅広い研究トピックについて第一線で活躍をされている方々にご執筆を依頼した.ご多忙のなか,すばらしい総説をお寄せいただいたことに感謝申し上げるとともに,本別冊が異分野の研究者間の相互理解と若手研究者・臨床家の刺激となり,精神発達遅滞・自閉症をはじめとする“発達障害”の解明と治療にすこしでも役立つことができれば望外の幸せである.
 はじめに(岡澤 均)
発達障害・自閉症の臨床病理
 1.発達障害における認知機能障害と神経生理学的所見(加我牧子・他)
  ・発達障害の概念
  ・発達障害における認知機能障害
  ・視覚認知
  ・聴覚認知
 2.発達障害の機能画像―自閉症をPETでみる(森 則夫)
  ・セロトニン系とドパミン系のPET
  ・コリン系のPET
 3.脳の微小形成不全と発達障害(新井信隆)
  ・てんかんにおける微小形成不全
  ・自閉症患者の微小形成不全
  ・Baileyらの6剖検例
  ・微小単位である皮質柱の変化
  ・最新の脳神経病理レポート
 4.発達障害の脳組織バンクの重要性と課題(嶋幸男・他)
  ・機能的脳病理の進歩
  ・発達障害の脳病理
  ・機能画像からの病巣と病理
  ・脳組織バンクの現状と課題
既知の遺伝子異常による発達障害・精神遅滞の分子医学
 5.脆弱X症候群の分子機構と治療(難波栄二)
  ・FXSのCGG繰返し配列異常
  ・動物モデル
  ・FMRPの機能とその異常
  ・FXSでのシナプス形態と可塑性の異常
  ・代謝型グルタミン酸受容体(mGluR)理論
  ・治療法の開発
 6.レット症候群の分子医学(三宅邦夫・久保田健夫)
  ・Rett症候群の臨床像
  ・MeCP2による遺伝子発現調節機構
  ・最新のRett症候群病態解明研究
 7.ATR-X(X連鎖αサラセミア・精神遅滞)症候群の分子遺伝学―エピジェネティクスの破綻により発症するクロマチン病(和田敬仁)
  ・ATR-X症候群
 8.PQBP1遺伝子異常による発達障害の分子医学(塩飽裕紀・岡澤 均)
  ・変性疾患関連分子PQBP1の発見
  ・精神発達遅滞原因遺伝子としてのPQBP1の再発見
  ・PQBP1病態モデルマウスの作成と治療
  ・PQBP1病態モデルショウジョウバエの作成とシナプス病態
  ・精神発達遅滞の分子病態と治療戦略
発達障害・自閉症の分子病態モデル
 9.Pax6変異ラット―発達障害モデルとしての可能性(大隅典子)
  ・発達障害の遺伝的要因と動物モデル
  ・脳の発生発達の鍵因子Pax6
  ・Pax6変異ラットの表現型解析
  ・発達障害のシグナルサリエンス仮説
  ・おわりに―Pax6とrare variantsのこと
 10.小脳発達の分子機構と小脳無形成モデルマウス“ セレベレス”(星野幹雄)
  ・セレベレス突然変異マウスの表現型
  ・セレベレスにおける病理
  ・セレベレスの原因遺伝子Ptf1a
  ・小脳神経細胞の発生機構
  ・Ptf1a遺伝子の変異とヒト疾患
 11.子の脳発達に影響を及ぼす母体環境―母子間バイオコミュニケーションの提唱(和田恵津子・和田圭司)
  ・母子間バイオコミュニケーション
  ・母体の栄養状態や生活環境が仔の脳発達に及ぼす影響
  ・母子間移行物質が仔の脳発達に及ぼす影響
 12.ミトコンドリア機能異常と発達障害(後藤雄一)
  ・ミトコンドリア機能障害と知的発達障害
  ・ミトコンドリア病の分子遺伝学
  ・Leigh脳症
 13.ゲノムワイドな転写,miRNA-標的RNAネットワーク,そしてCNV―脳神経疾患との関連(塩見春彦)
  ・RNAサイレンシング
  ・miRNA
  ・miRNAによる標的認識
  ・miRNA-標的RNAネットワーク
  ・CNV
 14.ウイルス感染症と自閉症(水口 雅)
  ・胎児,妊婦のウイルス感染と自閉症
  ・小児のウイルス感染と自閉症
  ・ウイルスが自閉症を起こす病態生理
  ・動物モデルと今後の展望
発達障害・自閉症のあらたなモデルマウスと分子病態
 15.自閉症感受性候補遺伝子CAPS2/CADPS2 における遺伝的多型とノックアウトマウスの行動障害(定方哲史・古市貞一)
  ・CAPS2とCAPS1の脳内発現分布
  ・CAPS2による分泌促進作用
  ・CAPS2ノックアウトマウスが示す脳発達異常
  ・CAPS2ノックアウトマウスの行動障害
  ・自閉症におけるCAPS2遺伝子
  ・CAPS2をめぐる最近の展開
 16.ヒト型自閉症マウスモデル(内匠 透)
  ・自閉症
  ・マウス作製
  ・遺伝子発現
  ・形態学的解析
  ・行動学的解析
  ・ヒト型モデルマウス
 17.CD38 分子機能低下とオキシトシン分泌低下―オキシトシン分泌障害による自閉症サブクラス(東田陽博・他)
  ・CD38の機能を知るためのCD38欠損マウスでの観察
  ・CD38の一塩基多型(single nucleotide polymorphism)の研究
  ・オキシトシンの自閉症者での使用例
発達障害・自閉症のゲノム研究
 18.自閉性障害・注意欠陥/多動性障害のゲノムワイド関連研究(GWAS)(治徳大介・吉川武男)
  ・自閉性障害(ASD)のGWAS
  ・注意欠陥/多動性障害(AD/HD)のGWAS
  ・自閉性障害(ASD)と注意欠陥/多動性障害(AD/HD)の遺伝的オーバーラップ
  ・今後の展望
 19.自閉症におけるコピー数異常研究(村上 翠・他)
  ・自閉症における染色体構造異常とその発生メカニズム
  ・コピー数異常の検出方法
  ・ASDに認められるコピー数異常と遺伝子
  ・エクソームシークエンスによるASD関連遺伝子の同定
 20.自閉症のイメージングジェネティクス(山末英典)
  ・自閉症と遺伝性―異種性と中間表現型研究の必要性
  ・自閉症の脳MRI研究所見と遺伝性
  ・自閉症の関連候補遺伝子と脳MRI研究

 ●サイドメモ目次
  “エンペティーバスケットなし”とは?
  クロマチン病
  有芯小胞(DCV)