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はじめに ―エピゲノムの医学への展開
 児玉龍彦
 東京大学先端科学技術研究センターシステム生物医学ラボラトリー
 21世紀に入り,ヒトゲノムが解読されるとともに,ゲノムは外界の刺激を受けてDNAやヒストンのメチル化などの修飾を受けることが明らかにされた.これらをエピゲノム情報というが,この情報は驚くべきことに,一代の間は細胞分裂で保持され,細胞の記憶を作る.しかし,大半のエピゲノム情報は受精卵の段階でリセットされ,親から子へは伝わらないものが多い.
 以前から,一部のエピゲノム情報は,母方DNAか父方DNAの一方だけに伝わる場合があり,インプリンティング(刷り込み)と呼ばれている.たとえば,精神発達遅滞のPrader-Willi症候群は,染色体15番のある領域では父方のDNAだけが働くため,父由来のDNAに変異があると発症する特異なエピゲノム遺伝を示すことが知られていた.ところが最近,母親の栄養状態による胎児のエピゲノムの変化を通じて,生活習慣病になりやすさを規定していることが報告され,がんや生活習慣病においてもエピゲノムが決定的な役割を果たしていることが注目され始めた.
 そのメカニズムとして,30億塩基対のヒトDNAが,ヒストン8量体に巻き付いてヌクレオソーム構造を作り,それぞれの働きがヒストンコードにより制御されていることが,次世代シークエンサーを駆使して解明され,一つのゲノムがニューロンや肝細胞,心筋細胞など200種類の細胞腫を作り,60兆個からなる個体を形成していくメカニズムが次々わかってきている.
 これまで,遺伝子配列がわかれば,個別化医療が可能になると誤解されていたのだが,遺伝子配列は,外界の刺激を元にしたエピゲノム修飾を受けて働きが決まっていることがわかってきた.たとえば,生活習慣病ではヒストン3の9番目のリジンのメチル化と脱メチル化が,低栄養,低酸素などの状況を反映して変化することがわかってきた.そこで,生活習慣病の治療とは,コレステロールや血糖の数値の是正だけでなく,これまで“体質”などと呼ばれていたエピゲノム情報を書き換える重要性が注目されている.そこで,世界で一斉にDNAのメチル化の診断応用や,ヒストン修飾酵素を標的とした抗がん剤の開発がスタートしている.
 本別冊では,エピゲノムというあらたな概念の基礎と,とりわけ,医学への応用が著しい分野を中心に紹介したいと思っている.21世紀の今まさにエピゲノムによる医学革命を迎えつつある息吹を感じていただければ幸いである.
 はじめに―エピゲノムの医学への展開(児玉龍彦)
エピゲノムとその制御因子
1.エピゲノムの医学(児玉龍彦)
 ・エピゲノムとはなにか:ゲノムの後天的修飾
 ・エピゲノムの基本:DNAのメチル化
 ・エピゲノムの基本:ヌクレオソーム構造とヒストン
 ・ヒストンコードが決める可塑性と臨界期
 ・生活習慣病とヒストンの脱メチル化
 ・癌とエピゲノム
 ・再生医学とエピゲノム
 ・エピゲノムとヒトの脳機能
 ・エピゲノム創薬
2.コヒーシンとインシュレーター機能(坂東優篤)
 ・コヒーシン,CTCFとその染色体上の局在
 ・コヒーシンとCTCFによるインシュレーター活性制御
 ・インシュレーター機能と疾病
3.エピゲノム血管生物学が解き明かす炎症特異的転写ファクトリーのしくみ(和田洋一郎)
 ・転写における“天動説と地動説”
 ・新しい実験手法が解き明かした染色体構造における3つの概念
 ・血管細胞の炎症性刺激で引き起こされる転写の波
 ・今後のエピゲノム研究の方向性
4.エピゲノム制御にかかわるヒストン修飾のイメージング(木村 宏・林 陽子)
 ・エピゲノム制御とヒストン修飾
 ・細胞周期に伴うエピゲノム修飾ダイナミクス
 ・初期胚発生に伴うエピゲノム修飾ダイナミクス
 ・エピゲノム修飾と癌
5.ヒストンメチル化修飾による転写,DNA修復,複製の制御機構とその破綻によるゲノム疾患(坪田智明)
 ・リジン残基のメチル化
 ・アルギニン残基のメチル化
6.哺乳類細胞におけるヒストン脱メチル化機構(立石敬介)
 ・脱メチル化酵素の発見
 ・脱メチル化酵素の基質特異性
 ・これまでの生物学的役割の報告
 ・今後の展開
7.明らかになってきたエピゲノム制御におけるRNAの役割(廣瀬哲郎)
 ・遺伝子間領域由来の長鎖非コードRNAの発見
 ・RNA自体に機能はあるのか?
 ・エピジェネティック制御部位の位置情報としての非コードRNA転写
 ・トランス方向に機能する非コードRNA
 ・今後の展望―明らかになっていない事象
疾患エピゲノム
8.生活習慣病とエピゲノム(酒井寿郎・稲垣 毅)
 ・遺伝素因と環境素因
 ・エピゲノムとは?
 ・エピゲノムは受精卵でリセットされ,生まれた後に環境により書き換えられる
 ・肥満生活習慣病発症におけるエピゲノムの関与―Barker仮説
 ・遺伝的素因がまったく同一な動物を用いた太りやすさの解析
 ・核内受容体PPARγのエピジェノミクスを介した脂肪細胞分化制御機構
 ・ChIP on ChipやChIPシーケンスを用いたエピゲノム解析
 ・PPARγの2つの標的,H3K9メチル化酵素(Setdb1)とH4K20モノメチル化酵素(Setd8)は脂肪細胞分化を制御する
 ・H3K9のエピゲノム修飾異常マウスは肥満になる
9.エピゲノム異常と癌(油谷浩幸)
 ・DNAメチル化異常と癌
 ・ヒストン修飾異常と癌
 ・癌幹細胞とエピゲノム
 ・エピゲノムを標的とした医薬
10.癌診断とエピゲノム(金田篤志)
 ・癌存在診断
 ・癌分類
 ・癌予後診断
 ・癌薬剤選択診断
 ・癌リスク診断
11.iPS細胞のエピゲノム―再生医療に向けたiPS細胞のクオリティコントロールにおけるエピゲノム解析の有用性(山田泰広・山中伸弥)
 ・ES細胞のエピゲノム
 ・DNAメチル化
 ・ヒストン修飾およびヒストンバリアント
 ・多能性幹細胞分化に伴うエピゲノムの変化
 ・iPS細胞の樹立とリプログラミングによるエピゲノムの変化
 ・iPS細胞とES細胞とのエピゲノム比較
 ・iPS細胞の由来による性質の違い
 ・再生医療に向けたiPS細胞のクオリティコントロールとエピゲノム
12.記憶・学習の形成と維持をつかさどるエピジェネティック制御メカニズム―記憶・学習のエピジェネティック制御(榎本和生)
 ・DNAメチル化と神経機能
 ・ヒストン修飾と神経機能
 ・精神疾患とエピジェネティック制御
13.エピゲノム制御を介したホルモン作用(加藤茂明)
 ・エピゲノムと染色体構造調節
 ・染色体の構造調節と転写制御
 ・ヒストンコード仮説
 ・ヒストン蛋白質修飾
 ・染色体構造調節複合体因子群は複合体を形成する
 ・エピゲノムと核内受容体による転写制御
14.脳のエピゲノムと精神疾患(加藤忠史)
 ・臓器としての脳
 ・脳機能とDNAメチル化
 ・精神疾患とエピゲノム
 ・死後脳の遺伝子発現変化におけるDNAメチル化の関与と精神疾患
 ・エピジェネティックプログラミングと精神疾患
 ・神経可塑性におけるエピジェネティクスの関与と精神疾患
 ・脳エピゲノム研究の課題
15.エピゲノムに基づく“後天性小児遺伝性疾患”概念の創設(久保田健夫)
 ・発達障害をめぐる遺伝と環境の要因
 ・環境と遺伝子をつなぐエピゲノム
 ・先天性のエピジェネティクス疾患
 ・後天性のエピゲノム異常
 ・エピゲノムの可逆性を利用した治療
 ・エピゲノム研究の展望
16.ストレスによるエピジェネティック変化は遺伝するか―ATF-2によるエピジェネティック制御(石井俊輔)
 ・ストレスによる遺伝子発現変化と遺伝
 ・ATF-2ファミリー転写因子とエピジェネティック制御
 ・マウスATF-2ファミリー転写因子の生理機能
 ・ショウジョウバエATF-2の生理機能とエピゲノム制御

・サイドメモ目次
 SETドメイン
 JmjCドメイン
 非コードRNA
 呼吸商
 CpGアイランド
 次世代シーケンサー
 疾患特異的iPS細胞
 エピゲノムの環境変化
 脳の可塑性とゲノムの可塑性
 ATF-2ファミリー転写因子