やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
東京大学大学院医学系研究科小児医学講座 五十嵐 隆

 平成12年(2000)のわが国の出生数は119万人,合計特殊出生率(一生涯に一人の女性が生む子どもの数)は1.36であり,少子化の波はここ数年間固定化している.子どもがこのように少なくなっているにもかかわらず,小児科医はいぜんとして不足している.小児科学会に所属している医師数は現在約17,000名であるが,小児科学会に属さない内科や耳鼻科などの医師も子どもを診療しており,その他の科の医師も各地で子どもの予防接種などを担当している.つまり現在のわが国では小児科医だけで小児医療や小児保健のすべてをカバーできていない.さらに,小児科医の分布にも地域によってわが国では大きな偏りがある.たとえば,入院施設のある複数の病院小児科の常勤小児科医数の平均が2人である地域も存在する.また,小児科医が少なくない地域であっても小児の救急医療体制が不十分な地域が存在する.従来,疾病対策が主であった小児医療は,わが国においても先進諸国同様に,育児相談,健診,予防接種などの予防医学を含む子育て支援の医療に変貌しつつあるが,夜間や休日の診療という基本的な医療サービスが低下してきていることは大きな問題である.
 このような状況にあるにもかかわらず,平成12年(2000)のわが国の乳児死亡率は1,000出生当り3.2であり,世界中でもっとも低値を誇っている.昭和25年(1950)のわが国の乳児死亡率が60.1であったことと比べ,50有余年でわが国の乳児死亡率が著しく減少したことがわかる.しかし不登校,孤食,小児虐待など,昨今広く叫ばれているように,子どもを取り巻く環境はけっして望ましい状況ではなく,むしろ望ましくない方向に事態が深刻化してきている感が強い.
 これらの社会環境問題は,敗戦と敗戦後に主流となった新しい文化あるいは価値観と深く関係があると思われる.子どもたちにみられる“こころの問題”のかなりの部分が,現在の社会が抱える社会環境問題の影響を強く受けていることは否定できないであろう.子どもの“こころの問題”の解決には,まず子どもを取り巻く親・家庭と社会の病理構造を明らかにし,教育を含めたさまざまな角度からの積極的なアプローチが必要である.医療現場で小児科医は“こころの問題”を抱える子どもたちに直接接する機会が多いが,真の解決のためには,小児科医を含めた関係する研究者の集学的な対応と,社会に向けた積極的な問いかけが必要である.これまで国全体の医療指標のひとつとして乳児死亡率が使用されてきた.低い乳児死亡率を今後も維持することはきわめて重要である.しかし,このような数字は先進諸国では子どもの健康状態を正しく示す指標にはならない.こころの健康度を正しく示す指標を見出すことは今後きわめて重要である.
 近年の女性医師の増加に伴い,小児科を職業として選択する女性医師が増加してきている.とくに30歳代の女性医師が仕事と子育てとを両立できる体制を早急につくり上げることも重要な課題である.
 中国などアジア諸国の小児科医の国際学会への出席が近年著しく増加してきている.一方,わが国から国際学会に参加する小児科医はむしろ減っているのではないかと心配している.とくにアジアで行われる学会へのわが国からの参加者がたいへんに少ない.国際小児科学会に参加する若手の小児科医の参加がきわめて少ないことも,実は問題である.国際小児科学会では発展途上国向けのテーマが多いことや小児科のサブスペシャリティの国際学会が増えていることなどが国際小児科学会に参加する若手小児科医の数を減らしていると思われる.
 毎年わが国から多数の小児科医が欧米の研究室に留学している.しかし,留学から帰国しても研究を続けることができないため,多くの小児科医はふたたび診療に携わる傾向が強い.欧米の研究室で立派な成果をあげてきても,日本の職場では研究の続行が難しい状況にあることは以前とあまり変わっていないのではないか.経済がかんばしくない現在のわが国の状況下で多くを望むことは難しいが,小児医学の研究環境を整備するための努力が今後もさらに必要と思われる.一方,以前に比べ文部科学省や厚生労働省の競争的研究費は大分増額されてきている.しかし,一部の研究領域を除いては分子生物学や遺伝子を用いた研究は比較的研究対象が似ていて,しかも層の厚い内科の研究者に独創性と研究成果の点において水をあけられているのが実情である.先天代謝異常症の研究ではわが国の小刮ネ医が疾患の原因遺伝子の解明に果たした功績はきわめて大きい.今後,オリジナルな研究を大事にする姿勢が小児科学会のなかでさらに強まることを期待している.
 わが国の小児科医は十分な症例数を対象とした治療研究を行うことがこれまで不得意であった.しかし,小児IgA腎症の治療ではすでに広範囲なコントロールスタディが実施され,優れた成果をあげている.また,乳児白血病の治療でもMLL遺伝子の解析結果を考慮した新しい治療プロトコールが開始されようとしている.このような動きはたいへんに喜ばしいことであり,海外からの批判に耐えることのできる立派な研究成果が出ることを期待している.狭量なセクト主義や自己顕示欲を越えた協調性が若い研究者の間に育ってきたことはたいへんに喜ばしい.
 本誌の企画“小児医療の最前線”では基礎編,臨床編,社会編の3つに分けて,わが国の小児医療の実状や小児医学の最新の研究成果について専門家,研究者あるいは実地医家の先生方に解説していただいた.お忙しいところを快く執筆をお引き受けいただいた先生方に深く感謝する.本特集号により小児医療あるいは小児医学の現状と問題点が明らかにされ,問題の解決に向けての一助となることを期待する.
はじめに
 五十嵐 隆

基礎編
 1.小児の発達薬理学 吉田一郎
 2.スーパー抗原と小児疾患 阿部 淳
 3.小児急性胃腸炎の原因ウイルス 沖津祥子・牛島廣治
 4.小児悪性腫瘍−疾患原因遺伝子の解明 滝田順子
 5.免疫不全症候群−疾患原因遺伝子の解明 近藤直実
 6.神経筋疾患−疾患原因遺伝子の解明 斎藤加代子
 7.細胞内小器官の形成異常と病因遺伝子の解明 鈴木康之・下澤伸行
 8.先天性心疾患の原因遺伝子の解明−22q11.2欠失症候群の分子遺伝学研究の進歩 山岸敬幸・仲澤麻紀
 9.内分泌疾患原因遺伝子の解明−成長にかかわる遺伝子とその異常 藤枝憲二
 10.腎疾患の原因遺伝子の解明 関根孝司
 11.小児消化器疾患における病因遺伝子研究の進歩 須磨崎 亮・長谷川 誠

臨床編
 12.わが国の新生児医療の進歩−多くの機器・薬剤の開発と体制整備による急速な進歩 高橋尚人
 13.新生児聴覚スクリーニング−難聴児早期発見・早期支援のために 三科 潤
 14.予防接種の現在と未来 渡辺 博
 15.PICUと小児集中治療の発達 渋谷和彦
 16.小児心原性失神の診断と治療 賀藤 均
 17.小児心血管カテーテル治療における心血管短絡孔閉鎖デバイスの臨床応用−切らずに先天性心疾患を治せる可能性が生まれた 磯田貴義
 18.先天性心疾患の手術療法の進歩−弁付き大伏在静脈,大腿静脈アログラフトを用いた新生児期重症先天性心疾患の外科治療 村上 新
 19.感染症の迅速診断キット 片岡 正
 20.インフルエンザの治療 横田俊平・河島尚志
 21.薬剤耐性菌の現状と対策−難治性中耳炎をどう治療すべきか 前田明彦・脇口 宏
 22.小児気管支喘息に対する吸入ステロイド療法 青柳正彦
 23.有機酸代謝異常の診断と治療−新生児マススクリーニングに向けた新しい動き 山口清次
 24.遺伝子解析による悪性腫瘍の予後判定 井田孔明
 25.造血幹細胞移植−HLA不一致移植におけるあらたなる展開 小島勢二
 26.小児における肝移植の現況−小児生体肝移植47例の経験 河原崎秀雄・水田耕一
 27.急性脳症の診断と治療 水口 雅
 28.注意欠陥/多動性障害の診断と治療 小枝達也
 29.慢性腎炎の早期発見と治療−小児IgA腎症の早期発見・早期治療 吉川徳茂
 30.身代りミュンヒハウゼン症候群の診断と治療−虐待としての医療行為 堀尾惠三

社会編
 31.成育医療センターのめざす医療の方向性 松尾宣武
 32.小児の事故は予防できる−目を離しても安全な環境の整備を 山中龍宏
 33.増えている小児の心の問題 平岩幹男
 34.小児虐待の現状と対策−早期診断と予防のために 生井良幸
 35.適応外使用と治験・臨床試験−よりよい薬物治療のために 中村秀文
 36.子育て支援と小児医療−小児の外来医療は子育て支援そのものである 横田俊一郎
 37.小児救急医療の現状と課題−このままでは子どもたちが危ない,小児救急医療の充実を! 市川光太郎
 38.小児看護に時間と人員を要する実態の検証 谷村雅子
 39.小児科医を確保・育成するために 鴨下重彦・松尾宣武
 40.医療経済における小児医療−小児医療費の現況と保険点数の動き 梅田 勝・高山 誠

サイドメモ
 NTEDを発症しない保菌者を探す
 NV感染とABH型血液型
 Allelic imbalance(アレル不均衡)
 SMN蛋白質の役割
 遺伝的相補性
 “Cre-loxPシステム”による相同染色体間組換え技術
 下垂体の発生・分化の機構
 尿酸は悪玉分子?
 トランスポーターと臨床医学
 わが国における新生児聴覚スクリーニングの現況
 勧奨接種と義務接種
 Pediatric intensivist
 起立性調節障害(OD)
 小児心血管カテーテル治療におけるトラブル解決のために
 アログラフトとバンク活動
 乳幼児に対する早期介入
 タンデムマス
 DNAチップを用いた発現解析
 アロ反応性NK細胞
 晩期胆道合併症の診断と治療
 小児救急の現場における急性脳症
 Asperger症候群/広汎性発達障害
 ミュンヒハウゼン症候群(Munchausen syndrome)
 子どもの事故の予防として頻用されているが,まったく無意味な言葉,標語
 心の問題を抱える小中学生の背景
 児童虐待防止法の法律上のポイントと問題点
 製薬企業の治験実施のためのインセンティブ
 アドボカシー
 小児救急医療の特徴とその改善策