やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 東京大学大学院医学系研究科糖尿病・代謝内科 門脇 孝

 酵母,線虫,ショウジョウバエに次いで,ついにヒトのゲノムプロジェクトもほぼ完了した.そのなかで明らかになってきたのは,情報伝達系の原型が驚くほど保たれていることである.しかし,つぎに気がつくのは,生物の進化とともに情報伝達系も進化を遂げてきたことである.例えば,単細胞生物である酵母には存在しなかったチロシンキナーゼ情報伝達系やアダプター蛋白群が多細胞生物である線虫ではじめて現れ,多細胞生物としての時間的・空間的制御を担う情報伝達系として機能しうるようになった.
 ゲノムプロジェクトが完了したということは,構造情報から機能情報を生み出す仕事が待っていることを意味する.情報伝達研究の分野でいえば,ゲノム構造情報のなかにその全貌を明らかにしつつある情報伝達分子が,情報伝達のカスケードとネットワークおよびクロストークのなかでどのように機能しているかを全面的に明らかにする必要がある.また,ひとつひとつの分子の立体構造,分子間相互の結合状態や情報の受け渡しのメカニズムを明らかにする高次構造解析,転写調節における蛋白間相互作用を明らかにするためのトランスクリプトゾームの解析などにより,情報伝達の精妙な調節メカニズムの詳細が明らかになるであろう.また,情報伝達分子の機能を個体レベルで明らかにし,情報伝達の階層性,特異性や重複性を解明する発生工学的な手法も駆使されるであろう.さらに,すべての遺伝子や遺伝子産物の発現の変動を網羅的・系統的に解析しうるプロテオミックス,DNAチップテクノロジーも情報伝達研究に必須の道具となりつつある.これらのポストゲノム科学のテクノロジーを駆使することにより,情報伝達のメカニズムはまさに分子レベルから個体レベルまでその神秘に包まれた全体像を現してくることが期待される.
 情報伝達研究は最初はインスリンやアドレナリンなどのホルモンや上皮成長因子(EGF)などの細胞増殖因子の作用メカニズムの研究からはじまった.しかし本来,情報伝達はすべての生命現象を統御する中心的コンセプトであり,本特集でも明らかなように,その対象が生命や死,発生・分化や形づくり,運動,極性などすべての生命現象に拡大されてきたのは当然のことといえる.ヒトにおいても出生,成長,成熟,老化,死に至るすべての生命現象は情報伝達により制御され,例えば,心臓の左右から“中年太り“に至るまで情報伝達の面から理解できるようになってきた.実際,いまやすべての疾病は情報伝達の障害や破綻として理解することができる.“Anything can go wrong”という言葉があるように,すべての情報伝達系に対応してひとつひとつの疾病が存在しうるといっても過言ではない.
 このようにゲノムが解明され,情報伝達の役者が明らかとなり,すべての生命現象での基本情報伝達経路の普遍的重要性が明らかになってきた現況を踏まえて,本特集ではまずG蛋白質,受容体型チロシンキナーゼ以下10項目にわたり情報伝達の基本経路のしくみと普遍的重要性について御解説いただいた.その後,各生命現象における情報伝達の特異性や多様性に重点をおいて“細胞増殖・生存・アポトーシス““発生・分化・形態形成”“細胞骨格・細胞接着制御““神経系”“免疫・炎症・造血““内分泌・代謝など生体のホメオスタシス”“心臓血管系““感染症”の各分野における情報伝達について解説いただいた.
 このように,本特集では「情報伝達研究の最前線」と題し,情報伝達についてもっとも重要な経路や生命現象を中心に,疾病との関連も含め,最新の知見を第一線の先生方にわかりやすく解説していただいた.多忙なスケジュ ールのなかを御脱稿いただいた執筆者の方々に心より感謝申し上げるとともに,本特集が新しいミレニアムの情報伝達研究を担う若い研究者にとって役に立つものとなることを望む.
 はじめに 門脇孝

■情報伝達の基本経路
 1.G蛋白質共役型受容体―最近のトピックス 清水孝雄
 2.受容体型チロシンキナーゼ 藤元次郎・山本雅
 3.サイトカイン受容体(JAK/STAT) 審良静男
 4.アポトーシス関連受容体とdeath signal伝達機構―Fas-FasリガンドおよびTNF-TNF受容体システム 三浦俊郎
 5.TGF-βスーパーファミリーのシグナル伝達 加藤光保
 6.核内レセプターによる転写制御の分子メカニズム 加藤茂明
 7.低分子量G蛋白質を介したシグナル伝達の時・空間制御とクロストーク 安田武生・他
 8.MAPキナーゼファミリー 足立誠・西田栄介
 9.ホスファチジルイノシトール3キナーゼの活性化と癌の悪性化 小林道元・福井泰久
 10.一酸化窒素,一酸化炭素の産生と生理作用 宮本泰豪・谷口直之

■細胞増殖・生存・アポトーシスに関する情報伝達
 11.細胞周期開始の制御にかかわるシグナル伝達 神野茂樹
 12.Gp130による細胞増殖,分化の制御機構 白銀隆宏・平野俊夫
 13.Wntシグナルと細胞癌化 秋山徹
 14.Bcl-2ファミリー蛋白によるアポトーシスの制御 辻本賀英
 15.セリン・スレオニンキナーゼを介したアポトーシス制御機構―ストレス活性化MAPキナーゼ系による制御 森田圭一・一條秀憲

■発生・分化・形態形成に関する情報伝達
 16.Hox遺伝子による四肢骨パターン形成の調節 黒岩厚
 17.前後肢,心臓左右心室決定にかかわるTbx遺伝子 小柴和子・他
 18.FGFと形態形成 大林典彦・伊藤信行
 19.器官形成過程におけるHGFの役割 高橋寿明・中村敏一

■細胞骨格・細胞接着制御に関する情報伝達
 20.WASPファミリー蛋白質によるアクチン重合制御 山口英樹
 21.p130Casのシグナル伝達とアクチンストレス線維制御 中元哲也
 22.Rhoシグナル伝達系と細胞運動・接着 石崎敏理・成宮周
 23.細胞間をシールする分子機構―タイトジャンクションの接着分子オクルディンとクローディンの構造と機能 園田紀之・他

■神経系の機能調節に関する情報伝達
 24.Eph受容体と軸索ガイダンス 田中英明
 25.神経突起成長におけるNotchシグナリング 郷正博
 26.ポリグルタミン病と神経細胞死 五十嵐修一・辻省次
 27.グルタミン酸受容体と記憶のシグナル伝達 真鍋俊也

■免疫・炎症・造血に関する情報伝達
 28.Tリンパ球の分化・シグナル伝達異常と自己免疫疾患 竹内勤・津坂憲政
 29.B細胞のシグナル伝達におけるPI3キナーゼおよびBtkの機能 鈴木春巳
 30.転写因子を介するシグナル伝達異常と白血病 平井久丸
 31.サイトカインのシグナルを制御するCISファミリー 吉村昭彦
 32.臓器線維症におけるTGF-βの役割と抗TGF-β療法の展望 上野光
 33.免疫系の負の制御機構 齊藤隆・山崎晶

■内分泌代謝など生体のホメオスタシスに関する情報伝達
 34.インスリン受容体基質を介するシグナル伝達異常とインスリン抵抗性 戸辺一之・門脇孝
 35.レプチンのシグナル伝達異常と肥満 西村治男・他
 36.G蛋白質病 飯利太朗
 37.BMPのシグナル伝達と骨疾患 今村健志
 38.レニン-アンジオテンシン系のシグナル伝達と高血圧 安東克之・藤田敏郎

■心臓血管に関する情報伝達
 39.血管平滑筋細胞の転写因子と情報伝達 永井良三
 40.心肥大形成のシグナル伝達機構 小室一成
 41.VEGFの血管新生・透過性亢進における役割 佐藤靖史
 42.造血発生と血管新生におけるアンジオポエチンの機能 須田年生・高倉伸幸

■感染症に関する情報伝達
 43.HIV感染とケモカイン受容体 長澤丘司
 44.膜結合型細胞増殖因子HB-EGF 目加田英輔
 45.Tollファミリー分子によるエンドトキシン(LPS)の認識,シグナル伝達 長井良憲・三宅健介

■サイドメモ
 アポトーシスとミトコンドリア
 I型受容体とSMADの同義語
 核内レセプターを用いた転写制御研究の潮流
 Pim-1
 Wntシグナル伝達経路
 阻害薬の有用性と危険性
 Tbx遺伝子
 Wiskott-Aldrich症候群
 タイトジャンクションの構造
 軸索ガイダンス
 活性化Notch
 全身性エリテマトーデス
 伴性無γ-グロブリン血症(XLA)
 TGF-βシグナル伝達系
 TGF-βにかかわる分子群
 肥満関連遺伝子の発見
 肥大型心筋症とカルシニューリン
 esiculo-vacuolar organelle(VVO)
 ジャクスタクライン
 ロイシンリッチリピート(LRR)蛋白