やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社


 人類の歴史で,いわゆるむち打ち症が発生したのは,随分早い時代に遡れるのではないかと想像される.馬や牛を動力にして戦車や荷車を走らせ,衝突や追突を起こして頸部損傷を起こすことは古代ローマや古代中国文明の時代からあったであろうし,それより以前の樹上生活を営んでいた時代にも,木の上から誤って落下して頸部に外傷を負うことがあったであろうことは想像に難くない.人類の医療史において,頸部の外傷治療が文明の早期から行われてきたという事実にいつの日か辿り着くかもしれない.
 さて,頸部外傷の人類史はさておき,1900年代から車が走行するようになってから,わが国においても自動車事故が原因の現代型のむち打ち症が発生することになり,以降,今日までの120年間にわが国の外科や整形外科,鍼灸・柔整分野では,本症に対するさまざまな治療が試みられてきた.特に,戦後の高度経済成長期に自動車の数は急増し,それに伴ってむち打ち症の発生数もうなぎ上りとなり,医療分野だけでなくメディアを筆頭に社会全体がその対策に乗り出し,改善策を模索した.しかし,その後,交通事故件数は大幅には減少しておらず,むち打ち症に悩む人は現在でも数10万人以上が毎年発生し続けていると考えられる.
 むち打ち症の傷害が存在する頸部は,人間の生存に非常に重要な役割を果たしながら,華奢な構造をしているという特殊な部位である.むち打ち症は,頸部に生じた筋骨格系の傷害であるだけでなく,自律神経症状や精神症状など多彩な症状を呈し,関連する医療領域が多岐にわたるという特徴がある.
 ところで,戦後の鍼灸治療は痛みを中心とした運動器疾患に対する治療が中心であった.日本の鍼灸外来施設の患者の6〜8割は,運動器疾患を対象とした臨床を行っていると,これまでのいくつかの調査でも報告されてきた.そのため,一般の国民には鍼灸は痛みに有効な療法であると認識され,多くの鍼灸師は,痛みや筋骨格系愁訴に対する治療を主体とした臨床を行っている.しかし,社会保険である療養費払いに,むち打ち症(頸椎捻挫後遺症)が6番目の疾患として認められたのは1996年のことであり,鍼灸がむち打ち症の治療法として保険制度のうえで活用されはじめたのは遅く,鍼灸がむち打ち症に有用であるという認識もまだまだ浅いというのが現状である.
 本書は,そのむち打ち症に対する鍼灸治療についてまとめたものである.
 おおよそ2000年前に誕生した鍼灸の分野ではむち打ち症が示す諸症状は当時すでに把握され,その原因も理論的にまとめられて,治療も行われていた.しかし先に述べたように,わが国では本症に対する治療法として,鍼灸はまだ十分には活用されていないのが現状である.
 本書は,むち打ち症の医学的な概念や定義,実際などを述べたうえで,鍼灸治療に必要な診察,カルテのまとめ方,頸肩背部に表れる所見を触診で捉える方法,その所見を臨床に即して,局所のみでなく,遠隔部の手足の鍼灸でいかに改善させるか,などを具体的に示した.また,むち打ち症患者に対する鍼灸治療効果について,155例の症例集積で臨床効果や患者の愁訴内容の変遷,一例報告などを提示し,さらに,鍼灸刺激が生体にどのような生理的変化を生じるのか,そのメカニズムに迫るべく臨床現場において研究が可能な検討を試みた.その他,自動車保険の具体的な申請方法や鍼灸の療養費払いなどについても,書類の記載方法の具体例を示して,分かりやすく解説した.
 本書をお読みいただき,むち打ち症で困っている患者にとって鍼灸は試みるべき治療法の一つであると理解し,患者の治療に活かしていただきたい.
 2019年9月
 筑波技術大学名誉教授
 洞峰パーク鍼灸院院長
 形井秀一
 序
I 外傷性頸部症候群(むち打ち症,TCS)について
 1 TCSの名称(形井秀一)
 2 TCSの定義(形井秀一)
 3 TCSの症状(WAD)(形井秀一)
 4 TCSの分類(形井秀一)
 5 整形外科での治療(形井秀一)
 6 WADに対する保存療法の有効性─ケベック治療ガイドラインを踏まえて(形井秀一)
 7 TCSと関連しているとみなされる症候(形井秀一,小井土善彦,福田文彦,石橋徹)
II TCSの受傷機転,病理,病像
 (形井秀一)
 1 交通事故によるTCSの受傷機転
 2 TCSによる損傷の主体
 3 TCSにより損傷を受けやすい頸部の筋肉
III 東洋医学における外傷概念とその歴史
 (形井秀一)
IV TCSの鍼灸治療の進め方
 (形井秀一)
V TCSの鍼灸治療のための触診
 (形井秀一)
VI TCSに対する鍼灸治療─遠隔治療と局所治療
 (形井秀一)
VII 上下肢刺鍼が体幹の所見改善に奏効するメカニズムの臨床的検討
 1 愁訴部位に対する遠隔鍼治療の影響(形井秀一,室仁見,前田尚子,他)
VIII TCSに対する鍼灸治療の効果について
 1 交通事故等による後遺症患者155例に対する鍼灸治療の効果について(形井秀一,松本毅,中村威佐雄,岡野克紀)
 2 TCSの事故直後・事故後3日間・鍼灸初診時の自覚症状について(松本毅,形井秀一)
 3 TCSの鍼灸治療後の患者に対するアンケート調査(松本毅,形井秀一)
 4 整形外科治療と鍼治療を併用して改善がみられたTCSの一症例(箕輪政博,形井秀一)
IX 国内の自動車事情の変遷と交通事故について
 (形井秀一)
 1 国内における交通インフラ
 2 自動車交通状況の変遷
X 保険を使用してTCSの鍼灸治療を行う方法について
 1 自動車保険の概要(山岸純子,形井秀一)
 2 自動車保険の仕組みと対応(山岸純子,形井秀一)
 3 TCSの鍼灸治療の療養費払い(形井秀一)

 付録 むち打ち損傷カルテ
  初診施術報告書
  施術経過報告書
 索引