まえがき
1998年(平成10年)に『わたし糖尿病なの』(医歯薬出版発行)を出版して約20年の月日が経たちました.同時に南昌江内科クリニック開業から20年となります.
この20年間,私なりにできることを精一杯やってきましたが,ひとつだけ「いつかやろう,そのうちやろう」と思いながら,積み残してきたものがありました.
私が『わたし糖尿病なの』を執筆するきっかけとなったのは,医師になって1年目,25歳のとき,恩師平田幸正先生(東京女子医科大学名誉教授)からいただいたお言葉でした.
「あなたは貴重な体験をしているのですよ.同じように苦しむ子どもたちのために,自分の経験を本にまとめてみてはどうですか」その当時の私は,まだ若くて未熟であり,糖尿病のコントロールも決して良好とは言えませんでした.研修医生活はとても不規則で忙しく,睡眠不足も毎日のことでしたので,すぐに「わかりました」とお引き受けできるような気持ちの余裕が,まったくありませんでした.
研修医として東京女子医科大学で多忙をきわめ,3年目に急性肝炎にかかり,入院生活を余儀なくされました.14歳で糖尿病を発症して以来の入院でした.
退院後に職場復帰できましたが,種々の事情が重なり,福岡に帰ることにしました.勤務医として,九州大学医学部第二内科,九州厚生年金病院,福岡赤十字病院で診療経験を積むなかで,自分の体力も回復し,少しずつ自信がついてきました.そしてやっと,平田先生からいただいた「宿題」に取りかかる気持ちになり,執筆をし始め,35歳のときに出版することができました.
できたての新刊本を父に手渡したとき,父から言われた言葉があります.
「35歳で自分の人生を本にして,人さまに読んでいただくのはまだまだ早い.35年で人生成功したと思うな.おまえが50歳を過ぎたときにどんな生き方をしているか,自分に恥ずかしくない生き方をしていたら,本当の意味でこの本を書いた価値がある」
小さいときから,父からほめらることはあまりありませんでした.
母からあとでこっそり,
「本当はお父さんが一番喜んでいるのよ」
と言われましたが,父から言われた言葉は,まったくその通りだと思いました.
「よし,次の自分の目標にしよう」と思いました.この気持ちはずっと私の心のなかにありました.
父から言われたその50歳になったとき,自分の姿を父と母に見てもらいたいと思っていましたが,父は私が37歳のとき,母は私が49歳のときに天国に逝ってしまいました.
55歳になったいま,ようやく父との約束が果たせそうな気持ちになりました.
開業してこの20年間,いろいろなことがありました.
「人生には三つの坂がある.上り坂,下り坂,そしてまさかの坂」
これも父が残してくれた言葉です.
いろいろな「坂」を経験して登ってきましたが,すべての「坂」が私にとって意味のある貴重な「坂」でした.
現在の私は,人生の折り返し点を過ぎたところでしょうか.フルマラソン(42・195km)にたとえると30kmを越したあたりでしょうか.これからまだまだたくさんの「坂」に直面することと思いますが,20年の節目として,医師として,経営者として,女性として,患者として,そして一人の人間として私が経験したことをつづってみました.
1型糖尿病を発症して41年,この間の医学の進歩は目を見張るものがあります.治療法の「進化」はすさまじいばかりですが,私が恩師から学んだ大切なことは,次の世代へと伝えていく義務があると感じるようにもなりました.
本書を,糖尿病とともに歩んでいる多くの患者さん,ご家族,医療関係者,そして私を愛し育ててくれた天国の父と母,恩師である平田幸正先生,仲村吉弘先生(元福岡赤十字病院内科部長)に,感謝とともにお届けしたいと思います.
推せんの言葉
公益社団法人 日本エアロビック連盟 理事 大村詠一
楽しみにしていた本
私の主治医である南昌江先生が,20年前に出版された『わたし糖尿病なの』の続編を出版されると聞き,今回も多くの患者・家族の方や関係者の励みになるんだろうな,ととても楽しみにしていました.先生に出会って読ませていただいた先生の著書は,「糖尿病だってなんにでも挑戦できる」ことを実体験で示されており,私自身,勇気づけられました.そして,この考えは私のモットーになりました.
1型糖尿病との出会い
そんな私は,今から25年前の8歳のときに1型糖尿病を発症しました.いまではどんな年齢でも発症することが認知されていますが,昔は「子どもの糖尿病」だと考えられ,小児糖尿病という診断をくだされました.風邪ぐらいしか知らなかった自分にとって,一生治らず,一生注射を打ち続けなければならない,という現実はなかなか受け入れられないものでした.
1型糖尿病への偏見と無理解
それでも自分で注射ができるようになり学校生活に戻ると,私を待っていたのは糖尿病に対する偏見と無理解でした.インスリン注射をうつたびに「痛そう」「可愛そう」と同情されました.そして,血糖値が下がって力が入らなくなり,糖分補給をすると「ずるい」「学校でお菓子を食べたらだめだよ」などと言われる日々でした.そして,「あの家は食事が悪い」「しつけが悪い」「呪われている」そんな言葉を両親は浴びせられながら生活していたことを,私は成人になってはじめて知り,衝撃を受けました.
1型糖尿病への反発
そんな小学校時代に「運動している人は注射をうたなくても糖尿病が治る」という噂を耳にしました.その噂をしている人,治ったという人に私は会ったこともないのに,自分も治るんじゃないかと昼食前のインスリンを抜いていました.
母が異変に気付いてくれなかったら,HbA1cが12%を超えていた私は昏睡に陥っていたかもしれません.即入院させられ,いろんな人に「なんでそんなことをしたの」と泣かれ,これまで糖尿病と1人で闘っていたわけではないことに気付くことができました.
南先生との出会い
病気への反発も終えて心機一転,治療に向き合うも,当時の食事制限やインスリンの注入量をなるべく少なくしようという当時の治療法は私には合わず,4歳から始め,10歳から競技に転向したエアロビック競技では思うような成績が出せずにいました.
そんなときに当時の「さかえ」編集者だった田辺靖始さんに南先生の開業を教えてもらいました.セカンドオピニオンなんて言葉が認知されていなかった当時,転院を決めるのは思ったよりも簡単なことではありませんでした.しかし,お会いしてみるとご自身も1型糖尿病であり,いろんな製剤の特徴を次から次へと自身の経験も交えて説明してくださる南先生の言葉には説得力があり,すぐに転院を決め,笑顔でクリニックをあとにすることができました.
エアロビック競技での挑戦
南先生の診察を受けたときに私は「エアロビックで世界一になりたい」と言いました.そして,そんな夢を先生は「血糖値をコントロールしながら練習をがんばればきっとなれるよ」と励まし,体を大きくするために食事量を見直したり,それに伴うインスリン量やその種類を検討してくださいました.
そして,ライフスタイルにあわせた先生の治療のおかげで,私は過酷な練習に耐えられる身体をつくることができ,エアロビック競技のジュニア世界チャンピオンになることができました.
それまで周りに笑われていた夢を否定されず,実現のための前向きな提案をしてくだった先生に,いまも感謝の気持ちでいっぱいです.
1型糖尿病を治る病気へ
2016年,熊本地震が起こった年に私はエアロビック競技選手を引退しました.今は2023年佐賀国体での公開スポーツ化に備えて後進の指導や普及に励んでいます.
そして,認定NPO法人日本IDDMネットワークで,1型糖尿病をはじめインスリン補充を必須とする患者とその家族の支援をしています.その活動のなかには,1型糖尿病の根絶をめざした治療,予防の分野に関する研究助成があります.
私は南先生のように医師となり治療で貢献するという道には進めませんでしたが,主治医に負けないよう私も相談対応や講演,そして,研究の応援という形で糖尿病で悩む方々のために活動を続けていきたいと思います.
糖尿病に関わるすべての人へ
1型糖尿病を患いながらも医師になり,開業され,ホノルルマラソンを今年までに16回完走するなど挑戦を続ける南昌江先生は,糖尿病とともに歩む私の人生を変えてくださった恩人であり,私の目標です.
本書では,苦労知らずのスーパーウーマンのように思われてしまうこともある南先生が,乗り越えてきた逆境やその乗り越え方,そして,南先生を長く支えてこられたご家族への思いも紹介されています.
糖尿病に向き合おうとしている人はもちろん,向き合えずにいる人,そしてサポートされているそのご家族や医療従事者など周りの方々にも,ぜひともこの本を読んでいただきたく思います.
1998年(平成10年)に『わたし糖尿病なの』(医歯薬出版発行)を出版して約20年の月日が経たちました.同時に南昌江内科クリニック開業から20年となります.
この20年間,私なりにできることを精一杯やってきましたが,ひとつだけ「いつかやろう,そのうちやろう」と思いながら,積み残してきたものがありました.
私が『わたし糖尿病なの』を執筆するきっかけとなったのは,医師になって1年目,25歳のとき,恩師平田幸正先生(東京女子医科大学名誉教授)からいただいたお言葉でした.
「あなたは貴重な体験をしているのですよ.同じように苦しむ子どもたちのために,自分の経験を本にまとめてみてはどうですか」その当時の私は,まだ若くて未熟であり,糖尿病のコントロールも決して良好とは言えませんでした.研修医生活はとても不規則で忙しく,睡眠不足も毎日のことでしたので,すぐに「わかりました」とお引き受けできるような気持ちの余裕が,まったくありませんでした.
研修医として東京女子医科大学で多忙をきわめ,3年目に急性肝炎にかかり,入院生活を余儀なくされました.14歳で糖尿病を発症して以来の入院でした.
退院後に職場復帰できましたが,種々の事情が重なり,福岡に帰ることにしました.勤務医として,九州大学医学部第二内科,九州厚生年金病院,福岡赤十字病院で診療経験を積むなかで,自分の体力も回復し,少しずつ自信がついてきました.そしてやっと,平田先生からいただいた「宿題」に取りかかる気持ちになり,執筆をし始め,35歳のときに出版することができました.
できたての新刊本を父に手渡したとき,父から言われた言葉があります.
「35歳で自分の人生を本にして,人さまに読んでいただくのはまだまだ早い.35年で人生成功したと思うな.おまえが50歳を過ぎたときにどんな生き方をしているか,自分に恥ずかしくない生き方をしていたら,本当の意味でこの本を書いた価値がある」
小さいときから,父からほめらることはあまりありませんでした.
母からあとでこっそり,
「本当はお父さんが一番喜んでいるのよ」
と言われましたが,父から言われた言葉は,まったくその通りだと思いました.
「よし,次の自分の目標にしよう」と思いました.この気持ちはずっと私の心のなかにありました.
父から言われたその50歳になったとき,自分の姿を父と母に見てもらいたいと思っていましたが,父は私が37歳のとき,母は私が49歳のときに天国に逝ってしまいました.
55歳になったいま,ようやく父との約束が果たせそうな気持ちになりました.
開業してこの20年間,いろいろなことがありました.
「人生には三つの坂がある.上り坂,下り坂,そしてまさかの坂」
これも父が残してくれた言葉です.
いろいろな「坂」を経験して登ってきましたが,すべての「坂」が私にとって意味のある貴重な「坂」でした.
現在の私は,人生の折り返し点を過ぎたところでしょうか.フルマラソン(42・195km)にたとえると30kmを越したあたりでしょうか.これからまだまだたくさんの「坂」に直面することと思いますが,20年の節目として,医師として,経営者として,女性として,患者として,そして一人の人間として私が経験したことをつづってみました.
1型糖尿病を発症して41年,この間の医学の進歩は目を見張るものがあります.治療法の「進化」はすさまじいばかりですが,私が恩師から学んだ大切なことは,次の世代へと伝えていく義務があると感じるようにもなりました.
本書を,糖尿病とともに歩んでいる多くの患者さん,ご家族,医療関係者,そして私を愛し育ててくれた天国の父と母,恩師である平田幸正先生,仲村吉弘先生(元福岡赤十字病院内科部長)に,感謝とともにお届けしたいと思います.
推せんの言葉
公益社団法人 日本エアロビック連盟 理事 大村詠一
楽しみにしていた本
私の主治医である南昌江先生が,20年前に出版された『わたし糖尿病なの』の続編を出版されると聞き,今回も多くの患者・家族の方や関係者の励みになるんだろうな,ととても楽しみにしていました.先生に出会って読ませていただいた先生の著書は,「糖尿病だってなんにでも挑戦できる」ことを実体験で示されており,私自身,勇気づけられました.そして,この考えは私のモットーになりました.
1型糖尿病との出会い
そんな私は,今から25年前の8歳のときに1型糖尿病を発症しました.いまではどんな年齢でも発症することが認知されていますが,昔は「子どもの糖尿病」だと考えられ,小児糖尿病という診断をくだされました.風邪ぐらいしか知らなかった自分にとって,一生治らず,一生注射を打ち続けなければならない,という現実はなかなか受け入れられないものでした.
1型糖尿病への偏見と無理解
それでも自分で注射ができるようになり学校生活に戻ると,私を待っていたのは糖尿病に対する偏見と無理解でした.インスリン注射をうつたびに「痛そう」「可愛そう」と同情されました.そして,血糖値が下がって力が入らなくなり,糖分補給をすると「ずるい」「学校でお菓子を食べたらだめだよ」などと言われる日々でした.そして,「あの家は食事が悪い」「しつけが悪い」「呪われている」そんな言葉を両親は浴びせられながら生活していたことを,私は成人になってはじめて知り,衝撃を受けました.
1型糖尿病への反発
そんな小学校時代に「運動している人は注射をうたなくても糖尿病が治る」という噂を耳にしました.その噂をしている人,治ったという人に私は会ったこともないのに,自分も治るんじゃないかと昼食前のインスリンを抜いていました.
母が異変に気付いてくれなかったら,HbA1cが12%を超えていた私は昏睡に陥っていたかもしれません.即入院させられ,いろんな人に「なんでそんなことをしたの」と泣かれ,これまで糖尿病と1人で闘っていたわけではないことに気付くことができました.
南先生との出会い
病気への反発も終えて心機一転,治療に向き合うも,当時の食事制限やインスリンの注入量をなるべく少なくしようという当時の治療法は私には合わず,4歳から始め,10歳から競技に転向したエアロビック競技では思うような成績が出せずにいました.
そんなときに当時の「さかえ」編集者だった田辺靖始さんに南先生の開業を教えてもらいました.セカンドオピニオンなんて言葉が認知されていなかった当時,転院を決めるのは思ったよりも簡単なことではありませんでした.しかし,お会いしてみるとご自身も1型糖尿病であり,いろんな製剤の特徴を次から次へと自身の経験も交えて説明してくださる南先生の言葉には説得力があり,すぐに転院を決め,笑顔でクリニックをあとにすることができました.
エアロビック競技での挑戦
南先生の診察を受けたときに私は「エアロビックで世界一になりたい」と言いました.そして,そんな夢を先生は「血糖値をコントロールしながら練習をがんばればきっとなれるよ」と励まし,体を大きくするために食事量を見直したり,それに伴うインスリン量やその種類を検討してくださいました.
そして,ライフスタイルにあわせた先生の治療のおかげで,私は過酷な練習に耐えられる身体をつくることができ,エアロビック競技のジュニア世界チャンピオンになることができました.
それまで周りに笑われていた夢を否定されず,実現のための前向きな提案をしてくだった先生に,いまも感謝の気持ちでいっぱいです.
1型糖尿病を治る病気へ
2016年,熊本地震が起こった年に私はエアロビック競技選手を引退しました.今は2023年佐賀国体での公開スポーツ化に備えて後進の指導や普及に励んでいます.
そして,認定NPO法人日本IDDMネットワークで,1型糖尿病をはじめインスリン補充を必須とする患者とその家族の支援をしています.その活動のなかには,1型糖尿病の根絶をめざした治療,予防の分野に関する研究助成があります.
私は南先生のように医師となり治療で貢献するという道には進めませんでしたが,主治医に負けないよう私も相談対応や講演,そして,研究の応援という形で糖尿病で悩む方々のために活動を続けていきたいと思います.
糖尿病に関わるすべての人へ
1型糖尿病を患いながらも医師になり,開業され,ホノルルマラソンを今年までに16回完走するなど挑戦を続ける南昌江先生は,糖尿病とともに歩む私の人生を変えてくださった恩人であり,私の目標です.
本書では,苦労知らずのスーパーウーマンのように思われてしまうこともある南先生が,乗り越えてきた逆境やその乗り越え方,そして,南先生を長く支えてこられたご家族への思いも紹介されています.
糖尿病に向き合おうとしている人はもちろん,向き合えずにいる人,そしてサポートされているそのご家族や医療従事者など周りの方々にも,ぜひともこの本を読んでいただきたく思います.
まえがき
推せんの言葉(大村詠一)
序章 夢の実現
開業しようと思った理由
南昌江内科クリニック開業
あらたな夢の実現へ
貴重な経験(手痛い授業料)
忘れられない患者さん
第2章 執筆・講演活動
南先生の1型糖尿病教室
小児・思春期糖尿病の小児科から内科への移行
講演活動を通して
1型糖尿病医療の進歩と私の糖尿病治療の変遷
第3章 サマーキャンプ
福岡ヤングホークスサマーキャンプ(7泊8日)
サマーキャンプで生きる力を(堀川さくら)
「親戚のおいちゃん」みたいな人(溝上澄生)
第4章 マラソン
フルマラソン17年目
第5章 恩師
平田幸正先生
仲村吉弘先生
第6章 王貞治さん
王 貞治さんに励ましていただいた私
第7章 1型糖尿病の仲間たち
“No Limit”な仲間たち
DT1D(1型糖尿病医師の会)の仲間として(加藤 研)
第8章 父と母
父のこと
母のこと
終章 あらたなるステージへ
これから 糖尿病臨床研究センターの立ち上げ
南昌江先生の20年の情熱(前田泰孝)
あとがき
推せんの言葉(大村詠一)
序章 夢の実現
開業しようと思った理由
南昌江内科クリニック開業
あらたな夢の実現へ
貴重な経験(手痛い授業料)
忘れられない患者さん
第2章 執筆・講演活動
南先生の1型糖尿病教室
小児・思春期糖尿病の小児科から内科への移行
講演活動を通して
1型糖尿病医療の進歩と私の糖尿病治療の変遷
第3章 サマーキャンプ
福岡ヤングホークスサマーキャンプ(7泊8日)
サマーキャンプで生きる力を(堀川さくら)
「親戚のおいちゃん」みたいな人(溝上澄生)
第4章 マラソン
フルマラソン17年目
第5章 恩師
平田幸正先生
仲村吉弘先生
第6章 王貞治さん
王 貞治さんに励ましていただいた私
第7章 1型糖尿病の仲間たち
“No Limit”な仲間たち
DT1D(1型糖尿病医師の会)の仲間として(加藤 研)
第8章 父と母
父のこと
母のこと
終章 あらたなるステージへ
これから 糖尿病臨床研究センターの立ち上げ
南昌江先生の20年の情熱(前田泰孝)
あとがき