やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

▲発刊によせて
▲フーバート L.ドレイファスHubert L.Dreyfus
 この論文と研究のコレクションは,生活世界,意味,熟練したノウハウ,および臨床的知識と日常の倫理的で熟練したふるまいに関する研究分野のために,ハイデッガーの,あるいは解釈的現象学の威力を集合的に明示している.この作品の背景とその哲学的基盤は第1部において記されている.第2部では,理解と技能の持つ力や,テキストを解釈したりその内容に疑問を持ったりする際に,自然に生じてくる思考の中でテキストを取り扱うこと,およびその思考の変化に応じていく力とが,どのように研究を形作っていくのかということについて例証している.著者たちは解釈的現象学Interpretive Phenomenologyという語句を,世界の日常的なさまざまな側面を研究し,人間の解釈的な研究に新しい道とヴィジョンとを与えるために用いている.本書のどの解釈的な研究も,仲間的な類似性を持っているが,その一つ一つは,研究参加者によって投げかけられた疑問や反応といったものによってユニークに形成されている.この仲間的な類似性は,同じように説明や描写をして,人間の能力の構造,プロセス,働きを画一的に得ようとする行為に基づくのではない.そうではなくて,これらの類似性は,人間を自己解釈的であり,歴史上のある特定な時にある特定なコミュニティに存在するある特定な限定された存在である,との立場を取る,身体を持った人間存在たらしめるものについての共有された理解からくるのである.
 これらの著者たちは,理論と実践との通常の上下関係を逆転させている.我々西洋的な人間としてのあり方が,最初に古代ギリシアにおいて定義づけられたため,理論と実践との関係および理性と直観との関係は,我々の文化に深く関わっている.これらの研究において例証されている,理論と実践との関係および理性と直観の複雑な関係を理解するためには, ヒポクラテスHippocratesが医学を民間的な知恵から科学的な癒しのアートへと移し変えようと試みており,同時に,ヒポクラテスより9年後の紀元前469 年に生まれたソクラテスSocratesが,この新しく成し遂げられつつあった知的な功績(医学はその一例にすぎない) を理解しようとしていた時代に戻る必要がある.紀元400 年頃は,物理学,天文学,幾何学は,日常的で実際的な測定や算定といったものから脱しようとしており,思索者たちは,「これらの新しい学問分野は何が特別なのだろうか?」と問うていた.ソクラテスによって提案され,哲学の伝統によって磨きをかけられた解答はすなわち,これらの新しい学問分野は理論を基盤にしている,というものであった.
▲デカルトDescartesとカントKantは,理論は脱文脈化した要素,すなわち今日我々が特色, 要因,属性,データポイント,タイミングなどと呼ぶ,人間の興味,伝統,慣習などとは何
▲発刊によせて
 の関係もなく分離可能な要素において述べられなければならないと主張して,理論についてのソクラテスの説明を完成させた.理論は,脱文脈化された要素が規則や法則によってお互いに関係しているとする,全く新しい統一体でなければならないというのである.プラトンPlatoは,千里眼的に,洞窟の比喩における5つの特徴を表した.すなわち理論家は,明確で抽象的なエレメント間の,この場合はイデア間の,普遍的な関係を把握するために,日常的で知覚的な社会的世界から知識の対象を移動させなければならない.そしてすべての文脈から自由にされた要素は,自身のシステムを形成する,すなわち,すべてのイデアは善のイデアによって統制されるというのである.プラトンは,日常的な理解は暗黙のもので,具体的局部的であり全体的かつ部分的であるが,理論は対照的に,明解で抽象的普遍的で,まったく新たな統一体に向かって編成されているさまざまなエレメントにわたるものと見なしていた.
 本書の著者たちが行っていることは,理論が知識と人間の意味深い世界の源である,という理論の根源性に関してのこの一枚岩的な仮定を再検討し,日常的で熟練した倫理的ふるまいの意味とパターンを調査していることである.例えばソクラテスは,『エウテュプロンEuthyphro 』における対話の中で,信仰深い預言者であるエウテュプロンEuthyphroを敬虔を認識するエキスパートだと仮定し,その敬虔を認識するルールについて尋ねている.「私はあなたや他の人々の行動を判断する基準として,敬虔の特徴を知りたい」(6e3-6).ソクラテスは敬虔を理論のうちに基礎づけ,そうすることによってそれを知識たらしめるような原理が欲しかったのである.
 しかしプラトンの一世代後,すでにアリストテレスAristotleは,理論を基盤としたプラトンの知識モデルにおいて,何か非常に大切なものが取り残されているのではないかと疑っていた.アリストテレスは,熟練性の見分け方としてその行動の理由付けができるかどうかということよりもむしろ,推論によらない直観的な反応を熟練した職人の特徴として正確に読み取っていた.その著書,『自然学Physics 』第2章[ 第8章199b28] の中でアリストテレスは,「アート(テクネー)は考え込まない」と述べていた.さらに彼にとって明らかであったことは,たとえ理論に基づいた普遍的な原理というものがあるとしても,その原理が個々の特殊なケースにおいてどのように適応されるのかを見分けるためには,直観的な技能が必要とされる,ということだった.以下にアリストテレスは,プラトンが普遍的な規則の基にならなければならないと考えていた,倫理学から説明を引き出している(Thomson,1953).
▲非難を招く前に,どれほど,またどのあたりで間違っているかを決める公式を見いだすことはたやすくない.[アリストテレスは書きとめ付け加えている]しかし,定義づけることのこの難しさは, 我々が認識する対象ごとに固有なものである.こうした度合いに関する問題は,個々のケースの状況と固く結びついており,そうした場合我々の唯一の基準は知覚なのである.(p.75)
 もちろん同じことが,疾病,健康,病気について考える時にも当てはめられる.疾病を身体の不調,つまり物理的法則によって支配される物理的対象の不全であると考えると,医師を科学者として捉えたヒポクラテスのヴィジョンが遂に成し遂げられつつあるのというのも驚くには当たらない.しかし医学のこうした成功によって,ケアリング実践としての看護理論が成り立ち得ると示唆することは,我々の合理主義的な文化に特徴的な誤りである.病気という文脈において,ケアリングは,病人がもはや現実的ではない可能性を断念するのを援助する一方で,その人の世界の中で大切に保たれている可能性の門戸を開いたままにしておくことにある.もしギリシア人たちが考えたように,人間がただ単に合理的な生き物であるとしたら,世界というものを,それを所持しかつ維持することに関しての理論に還元することができるかもしれない.しかし,ゼーレン・キルケゴールSoren Kierkegaardが実存主義的に考えたように,人間を心と身体の単なる組み合わせ,と理解することはできないのである.実存論的現象学において最も有名な哲学者であるマルティン・ハイデッガーMartin Heideggerが指摘しているように,人間は自己理解と自らの取る立場(その結果さまざまな可能性が提示されることになる)とによって定義づけられるのである.この見方において, 人間はその人間的経験と行動とが自己解釈から生じるユニークな存在である.生涯というものの意味は根本的であり,どのような可能性が生じるのか,またその可能性が人によってどのような意味を持つのかを決定する.さらに言えば我々は,我々の人生と世界についての客観的で理論的な傍観者なのではなく,世界のうちに巻き込まれ関わっている参加者なのである.事物は我々に意味を持つものとして現れてくる.ハイデッガーの企図は,人間は物体や動物のように固定した特性を持つのではなくて,その基本的存在様式がケアであるということを論証している.この論文集において,ケアは保健医療一般において,また看護師たちによるケアリング実践として理解,維持され,促進されなければならない存在様式であることが示されている.
 どのようなさまざまな文化・歴史においても,人間の存在様式についての抽象的で分析的な理論はあり得ない.なぜなら,繰り返し述べるが,人間の存在様式は全体的で熟練した実践であるから,それに関しての抽象的で分析的な理論などあり得ないのだ.ケアリングは実存的な技能とも呼べるかもしれない.それは確かにソクラテスなら「コツ」とでも呼んだだろうが,しかし料理とは異なり,ケアリングは生死に関わる問題であり人間全体を巻き込むゆえ,この語句は適切であるとは思えない.ケアリングの実存的な技能には,それの持つ重要性と独自性に敬意を表す伝統的な名称が存在せず,我々の語彙の中には適切な語句は見当たらない.この事実は,疾病の理論を基盤とした伝統がどれほど根強いかを示している.人々の世界に入ることによって援助する方法として,ケアリングは,今日ならば理解と可能性と名づけられ得るような高度な知識であり,かつてアリストテレスはそれを実践知と呼んだ. この本の諸研究が個別的かつ全体的に論証しているのは,理解というものがどれほど人間の関心事を明らかにする力を有しているか,ということである.
▲これらの研究は,世界の維持に関与する機知というものについて多くのことが語られ得るということを示している.著者たちは,人間の一般的な構造すなわちケアが,重要性,可能性,および共有された世界への居住とから成り立つ,その成り立ち方を描いている.これはハイデッガーが,人間についての実存的な説明と呼んだものである.著者たちはまた,特定な文化,家族,個人がどのようにそれぞれの世界を構成しているのかについても,詳細に記述している.意味が共有されているために,読者は,典型的な状況において,何が重要でどのような可能性があるのかないのか,ということを例示する範例を選択して描写することもできる.そしてさらに,成功だった介入と不成功だったそれとの間に質的な区別をつけるこ
▲発刊によせて
 とができる.また著者たちは,ケアリング実践や成長,癒しに備わっている知識と技能も検証している.ケアリングのエキスパートたちは,どのような原理原則や偽精神科学によっても誘導されることが不可能であることを知っており,そうではなく,その患者の状況に入り込み,参加と直観とによって導かれなくてはならないということを理解している.
 この領域においては,プラトンが定義したような臨床的な知識というものはあり得ず,あり得るのはそしてまたそうでなくてはならないのは,臨床的な理解なのである.このようにケアリングにおける医学理論の適用に関して言えば,我々は実践において,そのための理論などがあり得ない,関わりというものが必要であることを見いだす.しかし疾病の治療と病気のケアとの間には重要な差がある.つまりケアリングに携わっている人々は,仲間としての一人の人間の状況に触れるために,その患者の見地に立ち患者の状況と苦しみとに適合することができなければならないのである.従事者は,その人が自らの病気に向かい合い,乗り越え,また切り抜けることができるように援助する機知がなくてはならない.このようにテクノロジカルかつ実存的な技能によってのみ,我々は身体を備えた人間を癒すアプローチができるのである.
 過去18 年にわたって看護師たちは,私の人間科学のキルケゴール,ハイデッガー,解釈的現象学の諸講義に参加し,関心,意味,および看護実践のために言葉を見いだしてきたようだ.そのほとんどが,実存主義的現象学を学ぶための通常の哲学的バックグラウンドを持っていなかったが,看護師たちは自分たちの実践にとって中心的な関心事ゆえに,クラス討論に貢献し,実践において知っている事柄について新たに考え明瞭に表現する新しいやり方を発見してきた.概して看護師たちは,有限であり,常に歴史と関心事とを持って世界に位置づけられている存在である人間であるということはどういうことなのかを理解し,描き出す新しい方法を見いだしている.それとひきかえに私は,看護が自然科学と医療科学の調合であること,そして看護師たちは人間科学に加えて,人間を客観の世界と比較した私的な主体と見る,デカルト主義の立場を批判する方法を必要としていることを理解するに至った. 看護師たちはケアリング実践に従事する者として,首尾一貫した自己理解のために,人を他者との関係の中で描き出し,その関係の中においてこそ把握できる必要がある.最後に看護師たちは,ハイデッガーの現象学を学ぶことによって人間をデカルト的な私的で自律した自己としてのみでなく,その身体的文化的な多様性において理解できるようになると思われる.
▲文 献
▲Euthyphro,6e3-6.
▲Thomas.J.A.K.(trans.).(1953). Aristotle,Nicomachean Ethics as the Ethics of Aristotle(p.75). New York:
▲Penguin.
  発刊によせて(Hubert L.Dreyfus)
  序文(Patricia Benner)
第1部 解釈的現象学-理論と実践(Interpretive Phenomenology:Theory and Practice)
 1 看護が科学であるために必要とされる理論的基盤(R.Fjelland & E.Gjengedal)
  看護学の目的
  看護の科学の基礎としての良い看護実践
  科学の統一と科学主義
  人文主義的伝統
  現象学
  生活世界
  看護のために導かれる結論
  倫理
 2 ケアリングの科学は可能か?(M.J.Dunlop)
  新しい概念としてのケアリング
  ケアリングとしての看護
   看護教育
  ケアリングの科学はあり得るのか?
   根本問題
  概念化の問題
  結論
 3 人間概念に関するハイデッガーの現象学的な見方(V.W.Leonard)
  人間に関する近代のデカルト的見解
  人間に関するハイデッガーの現象学的見解
   人間は世界を持つ/諸事物が意義や価値を持つのは人間のためである/人間は自らを解釈する/人間は身体として具現する/人間は時間のうちに存在する
  解釈学:人間存在に関するハイデッガーの現象学的研究にふさわしい方法
   解釈学的探求におけるデータ収集/解釈的分析/解釈的説明の評価
 4 解釈学的現象学―看護における家族の健康とヘルスプロモーションに関する研究のための方法論(K.A.Plager)
  問い
  既存の研究が行っていること
  ハイデッガーの現象学的見方
  解釈学的現象学の前提とその基本的な哲学的問題
   前提/基本的問題:理解の先行構造,解釈,解釈学的循環,巻き込まれていることの様態
  自然科学モデル
  どこから始めるべきか?
  方法論的厳格さ
  解釈学的研究のガイドライン
  制限
  結論
 5 新しい医療倫理に向けて―看護における倫理への示唆(D.C.Thomasma)
  歴史的分析
   「ほら見てごらん〔注意喚起的〕倫理学」/「応用への転換」/「合法化」/「原理に対する同意」/「おい,ちょっと待ってくれ」/「方法への集中」/「原理を豊富にする」/「臨床上の方法論」/「医学の哲学」/「不適切という自覚」
  看護倫理
   看護倫理はどのように定義できるか/パートナーシップと教育モデル
  合理主義的倫理を超えて
   身体を解釈する/精神( 価値)を解釈する/関係を解釈する
  関係性の倫理
  結論
 6 健康・病気・ケアリング実践についての研究における解釈的現象学の流儀と技能(P.Benner)
  分析と表明の段階
  解釈的現象学を教える・学ぶ
  共通点と相違点
  探求方針を作成することと関わりの様相を吟味すること
  研究デザイン,展開と対話,推移の把握について
  コミュニケーションの文脈:インタビュー,会話,そして対話に関わるということ
  語りとナラティヴ実践知
   範例/テーマ分析/代表的事例
  テキストの情報源
  明るみ,身体,そして世界について
  臨床民族学
  公共政策,セラピー,コミュニティ開発への適用の展開
 7 MARTINあるコンピュータ・ソフトウェアプログラム―テキストが語ることへの傾聴について(N.L.Diekelmann,R.Schuster & S-L.Lam)
  検索ソフトウェア
  情報蓄積型検索ソフトウェア
  未来の可能性
第2部 解釈的現象学研究群(Interpretive Phenomenology Studies)
 8 標準化を越えて―ティーンエイジャーが母親となることを理解するうえで語りがナラティヴ果たす役割(L.SmithBattle)
  欠陥の穴埋めとアプローチの発見
  語りにナラティヴよる理解を取り戻すこと
  タミーの物語:「一緒に成長すること」
  注釈
  語りのナラティヴ力
  結論
 9 統合失調症の子どもに対する親たちのケアリング実践(C.A.Chesla)
  背景
  ケアリング実践
  方法
  統合失調症の子どもに対するケアリング実践
   関与的ケア/葛藤に満ちたケア/管理的ケア/距離を置いたケア
  考察
  統合失調症の子どもに対する親のケアリング実践が持つ意味
  限界
 10 公共の場での育児―入院中の子どものケアへの親の参加と関わり(P.Darbyshire)
  研究アプローチと研究法
  親,看護師,そして参加
  参加においての親の経験
   参加への決断:親たちの理解/親と遊び:「仕事よりつらい」/寝ずの番/要約
  親の参加を作り出すことと看護師
   親の参加:看護師の理解と実践/看護師と語られることのない取り決め192
  結論
 11 脳血管障害からの回復の臨床民俗学(N.D.Doolittle)
  研究法
  範例
  回復することの意味
   社会的身体の回復/慣れ親しんだ環境への復帰/慣れ親しんでいることと状況的なことによって身体が引きつけられ誘い導かれること/連続性の焦点/身体の組み合わさり/身体の現象学的な理解
  回復の仕事
  精神至上主義/身体の知識の再獲得
 12 慢性疾患とともに生きることにおける道徳的特質―自律,責任,コントロールの限界(P.Benner,S.Janson-Bjerklie,S.Ferketich,and G.Becker)
  データ収集
  病気の拒否,闘い,コントロール
  経験から受容とセルフケアについて学ぶ
  解釈的注釈: 現象学の見地から
 13 クリティカルケアにおける死にゆく患者の看護ケアの倫理的コンテクスト(P.L.Wros)
  日々のケアの倫理
  研究の解説
  クリティカルケアにおける死にゆく患者の看護ケアの道徳的側面
   範例:「害を与えるな」/ケアの倫理/原則志向の倫理の役割/熟練した倫理的なふるまい/道徳的関心事
  要約
 14 がんを巡る曖昧さと陰蔽の倫理―イタリアの一地方世界を通した解釈(D.Gordon)
  発展的対話研究
  文脈に関する覚書
  「曖昧さ」の曖昧さについて:用語に関する覚書
  告知しない人の代表的事例,および前景と背景の関係
  知ることの方法と意味
   代表的事例:「知っている人たちは,もっと悪い死に方をする」/代表的事例:「これは,『カルチノーマ』であって,『腫瘍』ではない」/代表的事例:「私には,あの人たちが本当のことを話しているのか,いないのかがわからないの」278
  背景/世界
   習慣的行動と,関連し合う実践のネットワーク/存在了解:人間存在の理解/結論:世界,可能性,文化,人間の条件
  ・付録 生命倫理に関する質問紙調査結果
 15 災害研究における語りナラティヴという方法論―サイプレスの救助隊員たち(C.M.Stuhlmiller)
  パラシュート救助隊員:「他者の生存のために,我々はこれをやる」
   PJになること/分析/PJであり続けること/分析
  消防士:「我々は人々を助ける,我々は違いをもたらす」
   消防士になること/分析/消防士を持ちこたえさせているもの/分析
  パラシュート救助隊員の関与:英雄的行為への義務
   テッド:「俺たちこそ多分,ここで役立つ,最高に適任の高度に訓練を積んだ人間だ」/サム:「もしやつらが俺たちを,その瞬間その場所で仕事をするために行かせていたとしたら,もっと多くの命が救われていただろうと,俺は固く信じているんだ」/ラルフ:「橋を全部片づけたのは俺たちだったから,俺は気分が良かったよ」316
  消防士の関与:互いに対する義務
   ラリー:「私たちは二人でした.そのことが,本当に元気づけてくれました」/ロイ:「私は,そこにいた人々と彼らの命について,もっと心配するようになったんです」/グレッグ:「俺は,一緒に働くやつらを誇りに思い,自分自身を誇りに思い,この隊の一員であることを誇りに思っているんだ」/チャールズ:「彼は俺たちに仲間として一緒に死んでほしいと望んでたんだ.俺には理解できた.俺も同じようにしただろう」/ベン:「僕は彼らをがっかりさせたのか,それとも僕は役に立ったのか」/セス:「もし俺が,もっとやれていたなら」
  要約

  ・付録 解釈的現象学を用いている博士論文
  ・著者一覧
  ・用語解説・注釈
  ・監訳者あとがき
  ・人名・団体名索引
  ・事項索引
  ・訳者紹介