やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

第2 版に寄せて
 作業には力があります.人に生きる力を与えたり,人生に意味を創り出したりする力があります.ところが,どんな作業にどんな力があるかは,人や状況によって変わるので,捉えどころがなく曖昧です.
 治療としての作業の力を活用する専門家であるはずの作業療法士は,作業の力を知らなければなりません.ところが,作業自体を探求しようという作業療法士が出現したのは,25 年くらい前です.「作業療法士になって30 年間,作業に焦点を当て損なってきた」.これは,1999 年夏に札幌医科大学で開催された作業科学セミナーの講演でのアン・ウィルコック(Ann Wilcock)の言葉です.2007 年の作業科学セミナーで講演したアリソン・ウィックス(Alison Wicks)は,作業科学を学んだことを虫に噛まれて感染したようだと表現しました.感染すると作業の視点をもつことになります.作業の視点で見る,つまり「作業レンズ」で見ると,新しい世界が見えるのです.そして現在,多くの作業療法士が,作業そのものを探求する学問として,作業科学に関心を寄せています.
 私は,1995 年12 月に札幌で開催された,日本で最初の作業科学の研修会に参加し,2000 年から「作業科学」という授業を始めました.2008 年からは,本書の初版である『「作業」って何だろう』を教科書として使い始めました.初版の執筆から9 年が過ぎ,作業科学はより複雑に広範になりながら,作業の探求を進めてきました.世界中の作業療法士たちが,「作業(occupation)」という言葉を頻繁に使うようになりました.日本では,「作業活動」,「活動」,「アクティビティ」という言葉が使われていましたが,多くの人が「作業」と言うように変わりました.英語圏ではactivityよりoccupationを使うことが増えました.また,「occupational needs(作業ニーズ)」,「occupational justice(作業的公正)」,「occupational rights(作業権)」という新しい概念も生まれました.
 世界保健機関が2001 年に発表した国際生活機能分類で活動・参加の領域が作られたり,日本の介護保険サービスに生活行為向上という視点が入ったり,人が日常生活で実際に何をするか,つまり「作業」が保健,医療,福祉の分野で注目されつつあるのです.
 私にとって作業科学は,まだ一筋の弱い光です.その光は時々ぼやけて見えなくなりそうですが,確かに存在していることを示し続けています.作業科学の光が未だに弱い理由のひとつに,作業科学と作業療法理論の混同があると私は考えています.作業科学が作業療法のなかに取り込まれてしまうことにより,作業科学がもつ学問としての発展可能性が狭められてしまっていると感じています.作業科学という学問としての特徴を明確にするために,本書では最初の3 章では作業療法に触れないようにしました.そして,第4 章で作業科学と作業療法の関係を論じ,最終章で将来展望を描きました.
 作業は人を健康にするだけでなく,人を不健康にする力ももっています.腰痛などの労働災害,危険な趣味による事故は,整形外科疾患や身体障害を引き起こします.強制労働,有害薬物の使用,戦争,ヘイトスピーチなどは個人の身体機能や精神機能を低下させるだけでなく,社会の崩壊を招きます.作業療法を離れて作業科学を勉強する,つまり作業レンズで世界を捉え直すことで,作業をするのはよいことだという暗黙の前提から解放され,今まで見えなかったものが見えるようになります.作業の功罪両面を意識することで,私たちがよりよく生きるためにはどうしたらよいのか,よりよい社会を築くのはどんな作業なのかを考えることができるでしょう.
 作業レンズで見ることを通して発展する作業科学は,作業療法,リハビリテーション,医療という分野だけではなく,教育,福祉,政治などにも応用可能な知識を生み出す可能性があります.作業科学者には作業療法士だけではなく,医師や文化人類学者なども含まれていますが,まだまだ少数です.多様な学問背景をもつ研究者や実践家が,作業を探求することに興味をもってくれたら,作業科学がもっと発展するでしょう.なお,作業科学の学術誌に掲載された論文の概要を巻末資料として掲載しました.作業科学論文を読むことにより,作業科学が作業療法にとどまらずに,より広い学問分野と多くの実践領域に影響を与えうる知識を生み出し続けていることがわかります.
 読者の皆さんは,第1 章から第3 章までは作業療法のことを忘れてください.そして,「作業って何だろう」と問い続け,「練習」を通して自分なりの答えを言語化してください.自分自身の日常や人生を作業レンズで捉え直してください.さらに,周囲の人々や出来事を,作業レンズを通して眺めてみましょう.第1 章では,作業科学の成立からこれまでの歩みをまとめました.第2 章では,どのように作業を捉えるか,作業はどのような意味をもつのかを論じました.第3 章では,作業的公正など作業科学研究により誕生した概念について現在の状況を解説しました.第4 章では,作業科学が作業療法の基礎知識として位置づけられていることや,作業科学研究が作業療法にどのように応用されるかについて述べました.そして最終章では,未来に向かって私たちがどのような作業を行おうとしているのかを考えたいと思います.
 初版は,ドリス・ピアス(Doris Pearce)が大学生のための作業科学入門書として書いた『Occupation by Design』に基づいて第2 章「作業の主観的意味」と第3 章「作業の文脈」を書きましたが,今回は大幅に書き直しました.そして本書の目的を,作業科学を学ぶというよりも,作業を探求する態度を修得することとしました.本書を利用しながら『「作業」って何だろう』という興味が高まることを期待しています.
 2017 年6 月 吉川ひろみ


第1 版の序
 作業とは,人が何かを行うことです.さわやかに目覚め,お気に入りの服に着替え,やりがいのある仕事をし,美味しい夕食を食べ,ゆっくり風呂に入り,穏やかな眠りにつくといった日常を送ることができれば,人は健康で幸せです.
 ところが,病気や怪我をしてしまい,起き上がることもたいへんで,服を着るにも一苦労,仕事も趣味もなく,空腹を満たすだけの食事は味気なく,面倒くさいので風呂にも入らず,なかなか眠ることができなければ,翌日からも不健康な生活が続くことになるでしょう.
 スポーツ好きな人が,スポーツをすることができなくなったら,スポーツができないばかりでなく,自分自身をスポーツマンだと思うこともできなくなります.着る服も変わり,生活習慣も変わり,日常出会う人の顔ぶれも変わります.しかし,自分でスポーツをすることはできなくても,スポーツ観戦に行く,後輩の選手にアドバイスをする,などという作業を行う機会があれば,自分自身を以前と同様にスポーツの専門家だと認めることができるようになるかもしれません.自分にとって大切な何かをすることで自分を取り戻し,社会のなかでの居場所を得ることができるのです.
 このように,作業を通して社会参加を実現する方法として作業療法があります.動けない人が外出できるよう援助する,ふさいだ気持ちが晴れ晴れするような作業を行う機会を提供する,といった仕事が,リハビリテーションのなかで作業療法士によって行われてきました.
 作業療法は,治療のために作業を使う知識や技術ですが,1980 年代後半から,治療として作業を使う前に,作業そのものについて,もっと考えてみようという動きが,世界のあちこちで起こってきました.こうして誕生したのが作業科学です.本書の目的は,作業について考える経験を提供し,学問として発展しつつある作業科学を紹介することです.
 園芸療法,絵画療法,音楽療法,芸術療法,ダンスセラピー,ヨーガセラピーなど,特定の作業がもつ治療的効能が注目されています.作業科学では,特定の作業から考えるというよりも,特定の人の生活のなかにある作業から考えていきます.
 「園芸」とよばれる作業は,ある人にとっては「庭いじり」であり,別の人にとっては「ガーデニング」とよばれます.この作業の意味は,「気晴らし」であったり,「挑戦」であったり,「癒し」であったりします.共通するのは「植物を育てる」,「枯れないように世話をする」という目的で行われる活動ですが,人によって,「料理に使うハーブを育てる」,「インテリアの一部を整える」,「友人に株を分けてあげる」という固有の目的があるでしょう.さらに作業科学では,ある作業が生活のなかに入ることによる,他の作業や生活習慣への影響についても論じていきます.“花を育てるようになってから,部屋の片付けをするようになったし,友人を招待することも増えた.““間食もしなくなって,体重も減って,スタイルがよくなった”というように,生活全体が作業によって変化していくことに注目していくのが作業科学です.
 作業療法は,健康の回復のために作業を役立てていく分野ですが,作業科学は,人々が行う作業を探求しようという分野です.作業の性質を理解し,作業のもつ可能性を知っていることで,より効果的に作業を治療に用いることができます.
 本書は,作業療法学科の学生が作業とは何かを学ぶ際の教材として,作業療法士が作業科学の研究結果を実践に取り入れる際の情報源として,使用できます.また,作業を通して治療やケアを行うことに興味をもつ作業療法士以外の人々にも参考になるでしょう.
 作業科学は作業に焦点を当てた知識の体系化を目指す学際的分野です.作業科学の研究は,作業療法士だけではなく,文化人類学,心理学,教育学,地理学,哲学,神経生理学など様々な分野の人々によって行われています.作業という観点から現象を見直すことで,個人や地域社会が抱える複雑な問題を新しい視点で理解することができ,解決の糸口を見つけることができます.
 人々の生活や社会にとって,何かに取り組むこと,すなわちどんな作業をどのようにするかが重要であるという気づきが,作業科学を発展させてきました.作業科学の研究結果は,臨床や社会での実践に貴重な示唆を与えています.具体的には,子どもの成長を促進する遊びや学習の仕方,虐待や外傷を経験した人を癒す作業,過労や引きこもりといった問題を作業バランスという視点からとらえること,退職後の生活再構築,障害者の社会参加のきっかけやこれを促進する環境などといった研究が,作業科学専門誌に掲載されています.
 日本の作業療法は,第二次世界大戦後,主に米国から輸入され,医学のなかの整形外科のなかの「後療法」と位置づけられ,リハビリテーション医学の一分野に含まれてきました.リハビリテーションという範囲のなかでも,教育的・心理的・社会的リハビリテーションという領域が発生していますが,現在行われている作業療法には依然として医学的性質が強く現れています.日本の作業療法教育においても,医学系科目が大半を占めているのが現状です.
 しかし,世界作業療法連盟が2002 年に改定した作業療法士のための教育基準では,作業と健康との関係の理解を軸としたカリキュラム構成が推進されています.この作業療法士養成教育基準の改定に強く影響を与えたのが,作業科学です.世界作業療法連盟やヨーロッパ作業療法高等教育連盟には,作業科学のプロジェクトグループがありますし,アメリカ,カナダ,オーストラリア・ニュージーランド,イギリス・アイルランドには研究会があり,シンポジウムなどが開催されています.台湾にも100 名以上が加盟するメールグループがあるそうです.アメリカやカナダでは,学部教育で作業科学を専攻し,修士で作業療法を学ぶというスタイルが始まり,増えています.
 日本では,1995 年に日本作業療法士協会が作業科学をテーマとして全国研修会を開催し,1997 年から毎年1回セミナーが開催されています.2006 年12 月藍野大学で第10 回作業科学セミナーが開催され,日本作業科学研究会も設立されました.世界でも,日本でも,作業科学がますます発展することが予想されます.そして作業という視点から経験を分かち合い,世の中に起こる様々な現象を解き明かしていくことが,世界中の作業科学に関心をもつ人々によって進められていくことでしょう.
 本書の読者が作業科学に興味をもち,作業という視点から問題をとらえ,解決することの可能性を感じていただけたら幸いです.
 吉川ひろみ
 第2版に寄せて
 第1版の序
第1章 作業科学の誕生
 作業の力
  人の一生を決める作業
  作業を決める社会の力
  実際にやってみることの重要性
  作業による生活の組織化
 正式な学問としての作業科学
  作業科学の誕生
  作業科学の発展
 作業科学の学問的性質
  可視化の困難さ
  客観と主観
  4 種類の知識
  誰が,何を,いつ,どこで,どのように,なぜ
 作業の定義
  公的な定義
  私的な定義
第2章 作業の意味
 引き起こされる感情
  感覚
  趣味
  目的か手段か
  フロー
  行動理論
 世界とのつながり
  現象学
  物理的空間と場所
  アフォーダンス
  時間を超えた人とのつながり
 自分らしさ
  アイデンティティ
  アイデンティティの危機
 生活の構造化
  移行期
  時計
 健康との関連性
  作業を使う治療法
  作業による健康被害
  健康的な社会
 社会的意味
  エティックとエミック
  作業の社会的イメージ
  技術発展の影響
  役割
 作業の類型化
  仕事か遊びか
  家事の特殊性
  義務と願望
  休息
第3章 作業科学の諸概念
 作業の視点
  作業がもつ階層性
  人類の進化における作業の変化
  個人の作業:人生のなかの作業
  集団の作業
 作業的存在
  doingからbeingへ:作業を通して定義される存在
  becoming:未来の自分になっていく作業
  belonging:所属集団が決まる作業
 作業的公正
  公正,正義,Justice
  作業的不公正
  インクルージョン
 作業科学に必要な視点
  トランザクション
  批判的視点
  質的分析
第4章 作業科学と作業療法
 作業療法を取り巻く状況の変化
  健康の定義の確認
  予防とヘルスプロモーション
 作業療法の発展
  作業療法の歴史
  人間に不可欠な作業
  作業の力が高まる条件
 作業療法における作業科学の応用
  ストーリーテリングとストーリーメイキング
  予防的作業療法
  作業的公正の可能化
 作業中心の実践の普及
  作業療法の定義と理論
  作業療法実践の道具
 作業療法実践を阻む壁
  言葉の不統一
  曖昧さと多様性
  医療システム
第5章 作業科学の夢
 健康と幸福の実現
  健康と幸福は同じではない
  病気や障害があっても健康になれる作業
  貧困や孤独であっても幸福になれる作業
 理想社会の創造
  作業的にちょうどよい社会
  理想社会に貢献する作業
  作業レンズでみる夢

 あとがき
 資料 作業科学学術誌掲載論文(概要)
 用語集