やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

監訳者序文
 本書『Neural Plasticity and Disorders of the Nervous System』(2006年)の著者Aage R.Mollerは聴覚生理学の領域で1960年代から精力的に研究活動を続けている世界的にも高名な碩学です.聴覚生理にとどまらず,視覚・体性感覚などの神経生理学の研究も行い,脳外科手術中の神経モニタリングの領域でも数多くの業績を残しています.現在,米国テキサス大学行動科学研究室の教授の職にあり,後進の指導にあたると同時に,これまでの仕事をまとめるべく精力的に著述に取り組んでいて,すでに,単著で9冊を書き上げています.いずれも神経生理学を学ぶ者にとっては座右の書と呼ぶべきものばかりです.
 彼が,近年,最も精力的に取り組んでいるのが,慢性疼痛,耳鳴,過敏症など不定愁訴に類する症状や徴候であって,本書はまさしくそれらの症状や徴候の原因を明らかにすべく記されたものです.異痛症や幻肢痛などの慢性疼痛,慢性耳鳴,あるいは音恐怖症に代表される知覚過敏症などは,いまだその原因は明らかではありませんし,確立された治療法もありません.現在のMRIなどの優れた形態画像検査をもってしても,その原因を明らかにすることはできませんでした.その結果,臨床の現場で,治療そのものに統一したコンセンサスを得られるには至っておらず,試行錯誤的治療のなかで多くの患者がその原因解明を待ち望んでいます.神経生理学とその臨床において,これら症状と徴候は大いなる課題であったと言えます.Mollerは,過去の動物実験を主とした神経生理学的な基礎研究と,20世紀のおわりから始まったヒトを対象とした「脳を測る」「脳を育む」といった非侵襲的な脳機能研究の知見を詳細に読み解き,脳の学習・退行メカニズムを本書で明らかにしています.また,先天性難聴児に対する人工内耳手術やパーキンソン病に対する脳深部電極法,あるいはうつや耳鳴に対する経頭蓋磁気刺激法などの臨床試験によって得られた知見をもとに,これまで明らかでなかった「疾病からの機能回復」あるいは「形態変化に伴う神経機能の変容」といった脳神経系のダイナミックな適応系,すなわち神経系の再編成 というメカニズムを明らかにしています.機能的な意味での「脳の可塑性」という概念を実に明快にわかりやすく本書は記しています.
 治療に苦慮する慢性で難治性の諸症状や諸徴候は,臨床の現場で,安易に「心の問題」あるいは原因不明の「不定愁訴」などとしてかたづけられてきたきらいが否めません.このような現在の医学・医療に立ちふさがる困難な課題についてのひとつの処方せんあるいは方略として,すべての研究者あるいは臨床家の参考となる良著がまさしく本書『Neural Plasticity and Disorders of the Nervous System』であると言えます.
 脳の可塑性は,無限の可能性を我々に示してくれています.加齢に伴う脳機能の変化に対する積極的な方略のありかたにも,方向性が見えてきたように思われます.今まさに,脳科学とそれを取り巻く神経生理学あるいは神経医学は大きなパラダイムシフトに直面しているといっても過言ではないでしょう.
 本書は,医師,医学生,言語聴覚士の教科書としてのみならず,脳の可塑性に関わる研究あるいは教育に携わる人たちにとっても,そのダイナミズムと可能性を理解するために最適のテキストです.脳の可塑性は,学習や認知といったプロセスの獲得や退行とも密接につながるもので,高齢社会と向き合うすべての人々にとって大きな意義のある書と思われます.
 2009年11月
 中川雅文・尾ア 勇

本書について
脳の可塑性―可塑性のメカニズムと神経系の障害―
 本書は,神経の可塑的な変化によって生じている疾患の病態生理について,脳の可塑性の発現メカニズムも含めて,神経系の再編成によって生じる感覚系の過敏性がどのように中枢性の神経原性疼痛や耳鳴や知覚異常を引き起こしているか,あるいはほとんど解明されていない痛みや感覚障害における非古典的な神経伝達経路と皮質下での神経結合に関する役割や,外傷後の運動系の過敏性あるいは鈍麻に関する脊髄反射や脊髄の内部処理の役割などについて丁寧に説明を加えている.微小血管減圧術によって引き起こされる障害に伴う幻影症候(Phantom symptoms)や神経障害やそれに伴う症状についても説明がなされている.疼痛回路だけでなく感覚系および運動系も含めて神経の編成に関し詳細で包括的な記述がなされている.本書は,医学や神経科学を専攻する学生や大学院生などを対象に記述されている.
 Aage R.Moller博士は,テキサス大学の行動科学・脳科学学部教授であり,コミュニケーション障害者のためのキャリアセンターの委員長を務めている.彼は,ニューロサイエンス,神経疾患,術中神経生理モニタリングの解剖生理などについて教えている.

謝辞
 本書を執筆するにあたり多くの方々から貴重な協力をいただくことができた.とくに,元原稿においてMark Steckert(医師・博士)氏,Keith Tansey(医師・博士)氏,Carl Noe(医師)氏,Margareta B.Moller(医師・医学博士)氏らのコメントに謝意を表明する.Steve Lomber(博士)氏,Tres Thompson(博士)氏らにも感謝する.
 ダレス・テキサス大学行動科学と脳科学学部の学生諸君からの意見やコメントも大いに役に立った.Hilda Dorsett君の図表作成に感謝する.編集に関わったRenee Workings君とErick Lakes君にも感謝する.
 また,ケンブリッジ大学出版の編集者のMartin Griffiths氏,プロダクションマネージャーのJayne Aldhouse氏のすばらしい仕事に感謝する.
 ダレス・テキサス大学行動科学と脳科学学部の協力なしには,本書はなしえなかっただろう.
 最後に,いつもそばにあって私をいたわり,励ましてくれたわが妻Margareta B.Mollerに感謝する.
 2004年6月 ダレス
 Aage R.Moller,Ph.D.(医学博士)
 訳者一覧
 監訳者序文
 本書について
 謝 辞
 略語一覧
 序 文
1章 脳の可塑性に関する解剖と生理
 はじめに
 1 神経可塑性によって生じる「編成」とその優位性
 2 生体にとって不都合な神経可塑性の発現
 3 神経可塑性の促進因子
 4 神経可塑性の基礎
 5 神経可塑性の発現に起因する障害の診断と治療
2章 神経系の生理と病態
 はじめに
 1 神経障害の徴候と症状
 2 神経の解剖と生理
 3 神経病理
 4 神経障害の病態生理
3章 感覚系の生理と病態
 はじめに
 1 感覚系の一般的な構成と機能
 2 感覚系の障害
 3 感覚神経系の疾患
 4 感覚系疾患の病態生理
4章 疼痛
 はじめに
 1 疼痛の異なるタイプ
 2 正常な痛覚系の組織
 3 侵害受容器疼痛の生理
 4 疼痛の病態生理
 5 中枢神経因性疼痛の治療
5章 運動障害
 はじめに
 1 運動系の疾患
 2 運動系の仕組み
 3 運動異常の病態生理
 4 リハビリテーションの意義
6章 脳神経と神経耳科領域の障害
 はじめに
 1 脳神経疾患の症状と徴候
 2 前庭障害
 3 脳神経の解剖と生理
 4 脳神経の病態生理
 5 前庭系の病態生理
 6 病態生理を知ることによる治療の利点

 索引