序文(音を多面的に考える)
人の声,電話のベル,車の接近音,小鳥たちの歌,身の回りに満ちている音は,空気の振動という物理的現象でもあり,大きさや高さ,音色など聴覚を介した心理的現象でもある.情報を伝える信号でもある.
誰もいない山の中で崖から岩が転げ落ちた場面を考えてみる.転げ落ちる岩の動きが空気中に振動を引き起こし,この振動が伝搬して周囲に広がる.これは物理的現象としての音である.誰も聞いていなければ単なる振動として終わるだろう.たまたま近くにいた人がその振動を感知して大きな音を聞いたとすればそれが心理的現象としての音である.感知するためにはむろん内耳や聴覚神経伝達路,脳で生じる神経生理学的現象が重要である.さらに音を感知した脳はその意味をとらえるだろう.「落石だ,危険だ,逃げよう」と感じたとすれば,それは音を解釈して取り出した情報ということになる.生物にとって環境それ自体やそこで起こる現象は情報なのである.「危険」という情報をとらえるためにはそんな音がどんな状況で生じうるのか無意識的にも知っているか,予測できることが前提になる.
聴覚をもつ動物たちは,環境からの信号として音を受け取り,そこで何が起こりつつあるかを時々刻々解析している.なかでも人は音を言葉の記号単位として活用し様々に組み合わせて多様な情報を表現し伝達するシステムを築き上げてきた.本書の目的は音の信号としての性質を述べ,音がどのように情報を運ぶのか,音と言葉の関係について学ぶことである.
音響学ではふつう音の物理と心理を扱っている.音の物理を扱う教科書は音源や音の伝播,反射の仕組みなどを多彩な数式を用いて詳細に記述している.言語音声の音響的特性を理解するためにも重要な側面である.一方,音の心理を扱っている教科書は大きさ,高さ,音色の知覚など,音が引き起こす心理的属性を記述している.聴覚や聴覚検査法の理解には欠かせない側面である.本書では言葉の理解に不可欠な音の信号と情報という側面を強調していくことにする.
信号として音を扱うということは,情報を運ぶ特性を重視するということである.音に限らず信号は後に示すように波形やスペクトルなど,図式的にかつ数式的に表現できる.図や数式は音の理解をおおいに助けるものである.本書ではしかし数式はほとんど使用しなかった.数式に凝縮された意味を理解するためには数学的素養を必要とするし,数式の理解が本質の理解とは限らないと考えたからでもある.
情報を信号が伝え得る「意味」ととらえるなら,信号と情報の対応は複雑である.「おばさん」と「おばーさん」という音声信号の意味を正しく聞き分けるためには,日本語音声を理解する脳が前提となっていることは明らかである.同じ信号でも伝達される情報は受け手に依存して変化しえる.同じ信号,同じ受け手であっても状況や文脈によってその意味が変わるということも起こりえる.一方,発話者が若年者でも高齢者でも男でも女であっても,またどんな感情を込めた発話であっても,「おばさん」という発話はそれが標準的な範囲内にあれば「おばさん」という言語情報を伝える.つまり音としては相当に違っていても共通の情報を伝えることもできる.このように信号と情報の関係が複雑なのは,音に限らず信号から取り出される情報は受け手と信号の関わりや受け手のもつ知識,認知機構に深く依存するからである.
本書では音に関する上記のような奥深い諸分野を理解するために必要な基本的な概念を説明していくことにする.
2007年1月
今泉 敏
人の声,電話のベル,車の接近音,小鳥たちの歌,身の回りに満ちている音は,空気の振動という物理的現象でもあり,大きさや高さ,音色など聴覚を介した心理的現象でもある.情報を伝える信号でもある.
誰もいない山の中で崖から岩が転げ落ちた場面を考えてみる.転げ落ちる岩の動きが空気中に振動を引き起こし,この振動が伝搬して周囲に広がる.これは物理的現象としての音である.誰も聞いていなければ単なる振動として終わるだろう.たまたま近くにいた人がその振動を感知して大きな音を聞いたとすればそれが心理的現象としての音である.感知するためにはむろん内耳や聴覚神経伝達路,脳で生じる神経生理学的現象が重要である.さらに音を感知した脳はその意味をとらえるだろう.「落石だ,危険だ,逃げよう」と感じたとすれば,それは音を解釈して取り出した情報ということになる.生物にとって環境それ自体やそこで起こる現象は情報なのである.「危険」という情報をとらえるためにはそんな音がどんな状況で生じうるのか無意識的にも知っているか,予測できることが前提になる.
聴覚をもつ動物たちは,環境からの信号として音を受け取り,そこで何が起こりつつあるかを時々刻々解析している.なかでも人は音を言葉の記号単位として活用し様々に組み合わせて多様な情報を表現し伝達するシステムを築き上げてきた.本書の目的は音の信号としての性質を述べ,音がどのように情報を運ぶのか,音と言葉の関係について学ぶことである.
音響学ではふつう音の物理と心理を扱っている.音の物理を扱う教科書は音源や音の伝播,反射の仕組みなどを多彩な数式を用いて詳細に記述している.言語音声の音響的特性を理解するためにも重要な側面である.一方,音の心理を扱っている教科書は大きさ,高さ,音色の知覚など,音が引き起こす心理的属性を記述している.聴覚や聴覚検査法の理解には欠かせない側面である.本書では言葉の理解に不可欠な音の信号と情報という側面を強調していくことにする.
信号として音を扱うということは,情報を運ぶ特性を重視するということである.音に限らず信号は後に示すように波形やスペクトルなど,図式的にかつ数式的に表現できる.図や数式は音の理解をおおいに助けるものである.本書ではしかし数式はほとんど使用しなかった.数式に凝縮された意味を理解するためには数学的素養を必要とするし,数式の理解が本質の理解とは限らないと考えたからでもある.
情報を信号が伝え得る「意味」ととらえるなら,信号と情報の対応は複雑である.「おばさん」と「おばーさん」という音声信号の意味を正しく聞き分けるためには,日本語音声を理解する脳が前提となっていることは明らかである.同じ信号でも伝達される情報は受け手に依存して変化しえる.同じ信号,同じ受け手であっても状況や文脈によってその意味が変わるということも起こりえる.一方,発話者が若年者でも高齢者でも男でも女であっても,またどんな感情を込めた発話であっても,「おばさん」という発話はそれが標準的な範囲内にあれば「おばさん」という言語情報を伝える.つまり音としては相当に違っていても共通の情報を伝えることもできる.このように信号と情報の関係が複雑なのは,音に限らず信号から取り出される情報は受け手と信号の関わりや受け手のもつ知識,認知機構に深く依存するからである.
本書では音に関する上記のような奥深い諸分野を理解するために必要な基本的な概念を説明していくことにする.
2007年1月
今泉 敏
序文
第1章 音の物理入門
1 音源と音波伝播
2 音圧
3 音波の波形表示
4 振動の原理
5 音のエネルギーと音の強さ
6 単振動の周波数
7 共鳴の考え方
第2章 信号としての音波
1 純音
2 周波数,振幅,位相の3要素
3 純音はなぜ重要か?
4 複合音
5 実効値
6 デシベル
7 様々なレベル表示
8 デシベルの利点
第3章 スペクトル
1 純音のスペクトル
2 周期音のスペクトル
3 線スペクトル
4 雑音のスペクトル
5 スペクトル傾斜
6 スペクトル包絡
7 時間窓で切り出した音のスペクトル
8 時間分解能と周波数分解能
9 サウンドスペクトログラフ
第4章 伝達関数
1 線形システムの伝達関数
2 フィルタ
3 極と零
4 聴覚フィルタ
5 非線形システム
6 周波数応答とインパルス応答
第5章 音声生成の音響学
1 母音生成のソース・フィルタ理論
2 有声音源
3 共鳴の仕組み
4 音圧の節と腹
5 粒子速度の節と腹
6 波長音響管
7 ホルマント周波数を決める声道の断面積関数
8 声道の伝達特性
9 基本母音の伝達特性
10 アンチホルマント
11 子音の生成モデル
第6章 音のデジタル信号処理
1 声の音声分析
2 アナログ信号とデジタル信号
3 量子化と量子化雑音
4 パワースペクトル
5 デジタルサウンドスペクトログラム
6 ホルマント周波数の解析
7 基本周波数の解析
第7章 日本語音声の音響的特徴
1 音声表記と音韻表記
2 日本語で使われる言語音の音響的特徴:母音
3 日本語で使われる言語音の音響的特徴:子音
4 言語音を特徴づける音響的特性
5 調音結合(coarticulation)
6 超分節的特徴
7 声質
8 男女,子ども,性差の問題
9 個人性
第8章 病的音声の音響的特徴
1 声帯振動と声質
2 GRBAS尺度
3 病的音声の音響的特徴
4 話し言葉の障害に関連する音響的特徴
第9章 聴覚の基本構造
1 伝音系の機能
2 感音系の機能
3 聴神経の反応特性
4 耳から聴覚皮質までの構造と機能
第10章 聴覚フィルタとマスキング
1 同時マスキング
2 臨界帯域
3 聴覚フィルタ
4 聴覚フィルタの生理的基盤
5 同時マスキングの機構
6 周波数と聴覚フィルタ
7 内耳障害と聴覚フィルタ
8 共変調マスキング解除
9 非同時マスキング
第11章 音の大きさの知覚と認知
1 音の大きさの知覚:絶対閾
2 音の大きさの等感曲線
3 音の大きさ(loudness)
4 強さの変化の検知
5 補充現象
6 聴覚順応と聴覚疲労
7 音の大きさと聴覚フィルタ
第12章 音の高さの知覚と認知
1 音の高さの心理的尺度
2 場所説と時間説
3 周波数弁別閾(frequency difference limen)
4 音色
5 空間知覚
6 知覚的体制化
7 時間パタンの構築
8 知覚的体制化の原理
第13章 音声の知覚と認知
1 範疇的知覚(categorical perception)
2 音響的不変量
3 プロトタイプ(prototype)
4 選択説と学習説
5 運動説と聴覚説
6 語や文の属性と音声知覚
7 音声知覚の神経回路網モデル
第14章 実習課題
1 母音生成時の声道伝達関数
1.概要 2.課題1─1. 3.課題1─2.
2 母音の音響分析
1.実習 2.課題2─1. 3.課題2─2.
3 子音の音響的特徴
1.実習 2.課題3─1.
4 プロソディの分析
1.実習 2.課題3─2.
参考文献
本書で参考にした音声分析・合成ソフトウエア
本書で参考にした音声データベース
和文索引
欧文索引
第1章 音の物理入門
1 音源と音波伝播
2 音圧
3 音波の波形表示
4 振動の原理
5 音のエネルギーと音の強さ
6 単振動の周波数
7 共鳴の考え方
第2章 信号としての音波
1 純音
2 周波数,振幅,位相の3要素
3 純音はなぜ重要か?
4 複合音
5 実効値
6 デシベル
7 様々なレベル表示
8 デシベルの利点
第3章 スペクトル
1 純音のスペクトル
2 周期音のスペクトル
3 線スペクトル
4 雑音のスペクトル
5 スペクトル傾斜
6 スペクトル包絡
7 時間窓で切り出した音のスペクトル
8 時間分解能と周波数分解能
9 サウンドスペクトログラフ
第4章 伝達関数
1 線形システムの伝達関数
2 フィルタ
3 極と零
4 聴覚フィルタ
5 非線形システム
6 周波数応答とインパルス応答
第5章 音声生成の音響学
1 母音生成のソース・フィルタ理論
2 有声音源
3 共鳴の仕組み
4 音圧の節と腹
5 粒子速度の節と腹
6 波長音響管
7 ホルマント周波数を決める声道の断面積関数
8 声道の伝達特性
9 基本母音の伝達特性
10 アンチホルマント
11 子音の生成モデル
第6章 音のデジタル信号処理
1 声の音声分析
2 アナログ信号とデジタル信号
3 量子化と量子化雑音
4 パワースペクトル
5 デジタルサウンドスペクトログラム
6 ホルマント周波数の解析
7 基本周波数の解析
第7章 日本語音声の音響的特徴
1 音声表記と音韻表記
2 日本語で使われる言語音の音響的特徴:母音
3 日本語で使われる言語音の音響的特徴:子音
4 言語音を特徴づける音響的特性
5 調音結合(coarticulation)
6 超分節的特徴
7 声質
8 男女,子ども,性差の問題
9 個人性
第8章 病的音声の音響的特徴
1 声帯振動と声質
2 GRBAS尺度
3 病的音声の音響的特徴
4 話し言葉の障害に関連する音響的特徴
第9章 聴覚の基本構造
1 伝音系の機能
2 感音系の機能
3 聴神経の反応特性
4 耳から聴覚皮質までの構造と機能
第10章 聴覚フィルタとマスキング
1 同時マスキング
2 臨界帯域
3 聴覚フィルタ
4 聴覚フィルタの生理的基盤
5 同時マスキングの機構
6 周波数と聴覚フィルタ
7 内耳障害と聴覚フィルタ
8 共変調マスキング解除
9 非同時マスキング
第11章 音の大きさの知覚と認知
1 音の大きさの知覚:絶対閾
2 音の大きさの等感曲線
3 音の大きさ(loudness)
4 強さの変化の検知
5 補充現象
6 聴覚順応と聴覚疲労
7 音の大きさと聴覚フィルタ
第12章 音の高さの知覚と認知
1 音の高さの心理的尺度
2 場所説と時間説
3 周波数弁別閾(frequency difference limen)
4 音色
5 空間知覚
6 知覚的体制化
7 時間パタンの構築
8 知覚的体制化の原理
第13章 音声の知覚と認知
1 範疇的知覚(categorical perception)
2 音響的不変量
3 プロトタイプ(prototype)
4 選択説と学習説
5 運動説と聴覚説
6 語や文の属性と音声知覚
7 音声知覚の神経回路網モデル
第14章 実習課題
1 母音生成時の声道伝達関数
1.概要 2.課題1─1. 3.課題1─2.
2 母音の音響分析
1.実習 2.課題2─1. 3.課題2─2.
3 子音の音響的特徴
1.実習 2.課題3─1.
4 プロソディの分析
1.実習 2.課題3─2.
参考文献
本書で参考にした音声分析・合成ソフトウエア
本書で参考にした音声データベース
和文索引
欧文索引








