やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 私が最初に漢方を治療として活用し始めたのは,老人施設への訪問歯科治療を始めた33年程前のことである.このきっかけを与えてくれたのは,上下総義歯の不調を訴える70代の男性入所者であった.義歯を診たところこれといった問題は無く,ただ口腔粘膜の乾燥が問題に思えたため,八味地黄丸を処方したところ大変喜ばれたのであった.当時は歯科による訪問診療もまだ手探り状態であり,況して歯科治療に漢方薬を用いることは一般的ではなかった.しかし予想を上回る患者からの好反応には,こちらも何か己の治療者としての居場所が見つかったような嬉しさを今でも覚えている.
 元来は学術的な世界とは距離があった私であったが,この嬉しさが幸い向上心に繋がって,当時慶應義塾大学医学部の教授であった名波智章先生のお取り計らいで,同大学の歯科・口腔外科教室で研究する場所を得て今日に至っている.その頃既に慶應では,再発性アフタを中心に漢方治療のシステムを構築し臨床で実践されていた.そこで私が学んだことは,一つの病態について現代医学(西洋医学)の観点と伝統医学(東洋医学)の観点から複眼的に病態を検討し漢方薬の処方を決定するという姿勢であった.また,口腔外科の勤務と並行して同大学病院の漢方クリニックで8年間,漢方治療の外来に陪席できたことは良い経験になった.
 我が国の医療体制は,医科と歯科に別れており,この分化は大学教育制度に端を発する.歴史を振り返ると,明治期に漢方は医療の主要なプレイヤーから外された.同時期に現在の歯科医療の原型は米国から,開港間もない横浜を経由して入って来た.結果として日本の歯科医師には漢方のDNAは受け継がれないことになってしまった.幕末の名医・尾台榕堂は,その著書『類聚方広義』の中で排膿散及湯が抜歯後の管理に良いということを書いていたが(〈癰の治療〉4.排膿散及湯『吉益東洞経験方』参照),件の理由で,長年その教えの受け手がいなかった.
 漢方を勉強していると歯科医療関係者だけではなく,医科の各領域の専門家や薬剤師,栄養士など分野を超えた知己を得ることはしばしばである.そして,口腔領域の漢方治療の資料は,他の領域に比べて決して多いとは言えない状況である.この領域を各分野からの情報を得て埋めていくことは,日本の伝統医療を現代において,確固たるものにする意味でも大事なことであると考える.本書が少しでもその役に立つのならば幸甚である.
 なお,サブタイトルの「勿誤歯科室方函口訣」は『勿誤薬室方函口訣』にちなんだものである.『勿誤薬室方函口訣』はご存じのように幕末から明治期にかけての大家・浅田宗伯によるものである.口腔領域において漢方薬を用いるときに誤りのないように先哲にあやかり,そして自戒の念を込めた.
 2025年1月
 小澤夏生
 はじめに
 本書の読み方
I 口内炎(再発性アフタ)
  症例提示
   症例I-1 痩せ型の20歳男性の繰り返す口内炎
   症例I-2 仕事が忙しく,便秘傾向の40代サラリーマンの口内炎
   症例I-3 介護トラブルのある62歳主婦の繰り返す口内炎
   症例I-4 半夏瀉心湯が無効になった再発性アフタに抑肝散加陳皮半夏
   症例I-5 「渇して水漿を引く者」を想起させた再発性アフタ
   症例I-6 大酒飲みの再発性アフタ
  病態解説
   西洋医学的視点
   東洋医学的視点
   心身症としての再発性アフタ
   再発性アフタの漢方治療
   再発性アフタに用いる方剤
   Column:エキス剤も工夫が大事
II 口腔乾燥
  症例提示
   症例II-1 58歳男性教職員の口腔内の不調
   症例II-2 79歳女性の汗かきを伴う口腔乾燥
   症例II-3 76歳女性,口腔乾燥による義歯の不調
   症例II-4 66歳主婦,口腔乾燥と右耳下腺の腫れと痛み
  病態解説
   西洋医学的視点
   東洋医学的視点
   唾液腺
   唾液分泌の東西比較
   口腔乾燥の漢方治療
   口腔乾燥に用いる方剤
   Column:唾液分泌過多症
   症例II-5 流涎に真武湯が有用であった症例
   流涎
III 口腔異常感症
  症例提示(狭義の舌痛症,顎関節痛など)
   症例III-1 唾石症の術後に生じた舌痛
   症例III-2 感冒後の舌の異変と痛み
   症例III-3 口腔カンジダ症の痛みと舌痛症の痛みの併存した症例
   症例III-4 真武湯,甘麦大棗湯が有効であった口腔異常感症の1例
   症例III-5 右側顎関節周囲の違和感と咬合時痛を訴える女性
   症例III-6 カルバマゼピンが無効であった口内痛に葛根加朮附湯が有効であった1例
   症例III-7 確定申告と味覚異常
   症例III-8 顎関節症,口腔乾燥,味覚障害を併発した症例
   症例III-9 歯痛を主訴とする口腔異常感症
   症例III-10 歯の知覚過敏と口唇のピリピリ感に帰脾湯が有効であった症例
   症例III-11 舌のしびれ,乾燥感に加味帰脾湯が有効であった症例
   症例III-12 病名(口腔異常感症)は変わらなくても証が変化した症例
   症例III-13 COVID-19罹患後の味覚障害に漢方薬が有効であった症例
 舌痛症
  病態解説
   西洋医学的視点
   東洋医学的視点
   移情易性
   鬱証の臨床分類
   口腔異常感症に用いる方剤
 味覚異常
  病態解説
   西洋医学的視点
   東洋医学的視点
   Column:基本4味覚と旨味,脂味
   味覚異常の治療
 歯痛
IV 顎関節症
  症例提示
   症例IV-1 会社内の配置転換がきっかけになった顎関節症
   症例IV-2 義理の母の介護生活をする58歳女性の顎関節症
   症例IV-3 産休明けを控えた時期に開口障害を発症した女性
   症例IV-4 顎関節症に葛根湯を用いた症例
  病態解説
   西洋医学的視点
   東洋医学的視点
   漢方の「痛み」のとらえ方
   ひ証
   顎関節部を中心とした不調に対しての漢方的対応
V オーラルフレイル
  症例提示
   症例V-1 アフタと顎関節の状態が同時に悪化し,摂食が難儀になった症例
   症例V-2 口腔乾燥による義歯の不調に八味地黄丸
   症例V-3 口腔乾燥と義歯の不調に抑肝散加陳皮半夏
   症例V-4 舌の痛みに八味地黄丸と食養生(養生の症例)
   症例V-5 口腔粘膜をゴッソリ持って行かれた介護職員(未病の症例)
   症例V-6 脳梗塞後遺症のある63歳女性の繰り返す口内炎
  病態解説
   オーラルフレイルの位置
   オーラルフレイルの症状と対策
   東洋医学的視点
   Column:医食同源
   日本の養生
   Column:夏の養生
VI 歯周病
  症例提示
   症例VI-1 抗菌薬に副作用の既往のある女性の智歯周囲炎に排膿散及湯
   症例VI-2 抜歯を希望しない多数歯が動揺する歯周炎の患者に排膿散及湯
   症例VI-3 消炎切開手術後の経過不良の患者に排膿散及湯
   症例VI-4 歯周炎に排膿散及湯合桔梗石膏が有効であった症例
   症例VI-5 長期歯周病管理に漢方薬が有用であった一例
  病態解説
   歯周病の治療に漢方薬を組み入れる視点
   癰
   癰の治療
   内托法
   歯周病の漢方治療
VII 漢方製剤を使用した含嗽療法
  症例提示
   症例VII-1 義歯よるカタル性口内炎
   症例VII-2 授乳中の34歳女性の繰り返す口内炎
   症例VII-3 口蓋隆起のため繰り返す口内炎
   症例VII-4 義歯によるカタル性口内炎に口腔カンジダ症を併発した症例
   症例VII-5 ステロイド軟膏が無効の再発性アフタ
   症例VII-6 口内炎の時ステロイド軟膏が苦手な症例
   症例VII-7 抗がん剤による口腔粘膜炎に対する半夏瀉心湯の応用
  病態解説
   口腔粘膜炎の発生機序
   口腔粘膜炎に対する半夏瀉心湯の外用における作用
   使用時期
   使用方法
   内服と使用時の注意
   含嗽に使用する他の方剤
VIII 口臭
  症例提示
   症例VIII-1 抜歯後の排膿散及湯を継続した症例
   症例VIII-2 症例II-1を参照
  病態解説
   東洋医学的視点
IX 方剤解説
   1 葛根湯
   2 葛根湯加川きゅう辛夷(葛根湯加辛夷川きゅう)
   3 葛根加朮附湯
   4 桂枝加朮附湯
   5 八味地黄丸
   6 六味地黄丸
   7 牛車腎気丸
   8 柴胡桂枝湯
   9 半夏瀉心湯
   10 黄連解毒湯
   11 半夏厚朴湯
   12 五苓散
   13 当帰芍薬散
   14 加味逍遙散
   15 桂枝茯苓丸
   16 補中益気湯
   17 釣藤散
   18 十全大補湯
   19 抑肝散
   20 抑肝散加陳皮半夏
   21 温清飲
   22 排膿散及湯
   23 黄連湯
   24 茵ちん蒿湯
   25 三黄瀉心湯
   26 帰脾湯
   27 加味帰脾湯
   28 立効散
   29 梔子柏皮湯
   30 平胃散
   31 白虎加人参湯
   32 麦門冬湯
   33 四逆散
   34 小柴胡湯
   35 大柴胡湯
   36 芍薬甘草湯
X 漢方エキス製剤運用の注意点
  漢方処方の決定の方法
   証と四診
   投薬反応
   臨床検査
  注意を要する生薬,その他
   1 麻黄
   2 甘草
   3 附子
   Column:甘草について
   4 大黄
   5 桂皮
   6 当帰
   7 黄ごん
   8 山梔子
   9 膠飴
   10 石膏
   11 乳糖
  日常生活の薬との関連

 あとがき
 文献
 索引