やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

訳者序

 日常,唾液による湿度100%の口腔内で歯科治療を行っていると,しばしば治療野の視界が妨げられ,支台歯形成が困難になったり,印象採得が不可能となる.このようなときには,なんとじゃまな唾液であろう,これがなかったら治療は容易なのに,と思う.
 しかし,この唾液が口腔内の湿潤状態を保つことによって,外界と体腔とのインターフェースを構成する口腔内組織を保護して,ヒトの健康が維持されていることは,われわれ歯科医は周知のことである.
 唾液は硬組織である歯の表面の再石灰化をうながし,プラークのpHを緩衝して歯の脱灰を防ぐ作用をもっており,これらによって齲蝕に対する抵抗性を高めている.
 また,抗菌作用をもつ物質を含み,口腔細菌叢のコントロールをしつつ,食物の嚥下や消化,さらには味覚にとって,唾液は不可欠なものである.
 このように,種々の働きをする唾液の存在の有用性は,近年の高齢者に対する治療の機会が急増してきたことにより,さらに強く感じるようになってきた.すなわち,高齢者には根面齲蝕の多発や食物の嚥下困難が頻発しており,これらの症状が唾液の減少による口腔乾燥症に起因していることは想像できる.しかし,加齢とともに口腔乾燥症が発生してくる原因,さらには治療法などについては,本書によってはじめて,目から落鱗するように明らかとなってきた.
 歯科が対象とするフィールドは,次第に高齢者社会になっている.このため,顎口腔系の器官の加齢変化について知るとともに,口腔内環境の加齢変化現象に対する知識をもたなくてはならない.その知識の第一の対象が唾液であると常々感じていた.
 今回,唾液と齲蝕の関連について臨床的な研究を進められ,私ども新潟大学歯学部歯科補綴学第一講座の非常勤講師でもあられる酒田市の熊谷崇先生のおすすめもあって,教室の野村章子講師をはじめとする有志と本書を翻訳する機会が与えられたことは幸いなことであった.しかし,本書の主題である唾液は,われわれが日頃扱っている補綴治療や咬合の研究とはまったく異なる分野であり,とまどうことも多々あった.しかし,われわれに新たな分野を勉学する機会を与えると同時に,将来の歯科医療を考える大きなきっかけも与えてくれたと思う.
 本書の翻訳には,教室員の野村章子,堀律子,田中みか子,木戸寿明,松山剛士,村松瑞人,池田圭介,沢田宏二,五十嵐直子,金田恒,中島正光,河野世佳,豊岡英一,山本恵以子,池田啓子,小林恵,須田寛子,大竹博之,長谷川雄一,菅野恵が参加してくれた.これらの諸氏,とりわけ各章の訳語の統一などを行ってくれた野村章子講師にはその労にとくに感謝したい.なお,訳語については学術用語集歯学編(文部省・日本歯科医学会,1992),生物学辞典第4版(岩波書店,1996),生化学辞典第2版(東京化学同人,1990)などを参考とした.しかし新たに進展するこの分野では,訳語についても定まっていないものもあった.これらについて誤りがあればすべて監訳者に責がある.読者諸賢のご叱責がいただければ幸いである.
 1997年11月 河野正司

原著者序

 『Sala and Dental Health』 の初版が1990年に出版されて以後,唾液の分泌,組成,機能に関しての基礎的研究の進歩に加えて,歯と口腔の健康維持に臨床上唾液が大変重要な働きをしていることが,急速に明らかとなってきた.すなわち,歯の脱灰機構を抑制する効果についての基礎的研究から,唾液の重要性が理解されているのみでなく,唾液の機能低下によって引き起こされる種々の症状からも,その重要性が明らかになってきている.
 この初版本は1万冊が世界中に行き渡り,これがきっかけとなり歯のみならず口腔全体の健康を取り扱う,最新の情報をまじえたこの第2版へと発展することになってきた.
 初版は,読者層として主に先進的な知識欲のある開業医を対象としており,一般歯科治療の幅を広げることを狙ったものであった.とはいっても,卒前や卒後の学生諸君にとって有用でないということではない.これらの学生たちをも対象として,さらにハイレベルの臨床的な内容について,より包括的にそして密度の濃いものを目指してこの第2版を計画した.その中には,最新の研究やトピックスを集中的に含み,図表を多用した視覚的にも訴えるような形式を考えてきた.
 初版は各章ごとに一人の専門家の進行によって進められたパネルディスカッションの成果を記していく形式であった.この方法であると,個々の著者の個性ヘあまり現れてこない.第2版では異なった方法をとった.すなわち,選ばれた著者が他の章との関連を保ちながら執筆していくものとした.このため,個々の章は一人あるいは数人の著者により,それぞれのオリジナルな充実した内容で構成されている.また,内容の連続性を保つために,さらに過度の重複を避けるために,執筆者は一同に会して2日間にわたり相互に原稿に目を通し討論を重ねた.この作業により編者の見解に偏ることなく,専門家の一致した意見をとり入れた内容とすることができた.
 私たち編者は初版の発行に当たって討論に加わって下さった方々に,再度感謝申し上げたい.初版においてなされた仕事が基礎となって,それが第2版の各章の出発点となっている.また,ここに新版の各執筆者となった方々のご努力に対して感謝したい.
 W.M.Edger and E.M.O'Mullane February,1996
1.序説:唾液腺の解剖と生理……1
 1.唾液の機能……1
 2.解剖と組織……3
 3.唾液腺の構造……5
 4.唾液の生成……6
 5.神経支配……6
 6.血液調節……7
 7.生 理……7
   組成……7
   分泌速度……7
2.唾液腺の分泌機構……11
 1.水と電解質の分泌……13
  唾液腺細胞の解剖と輸送機構……13
  二段階説……17
  原唾液:水と電解質の分泌機構……19
  HCO↓3↓↑-↑の分泌……19
  唾液分泌の抑制:セカンドメッセンジャーとしてのIP↓3↓とCa↑2+↑……20
  水と電解質分泌の薬理学的制御……22
 2.高分子の分泌……24
  分泌機構……25
  タンパク分泌の制御:セカンドメッセンジャーとしてのcAMP……25
  タンパクの経上皮輸送……28
  クロストーク……29
3.唾液分泌速度と唾液の組成に影響を及ぼす因子……31
 1.安静時唾液……31
  安静時唾液の分泌速度に影響を及ぼす因子……32
 2.刺激唾液……34
  刺激唾液の分泌速度に影響を及ぼす因子……35
 3.唾液の分泌速度と口腔の健康……38
 4.口腔からの炭水化物(食物)の排除……38
 5.一日の唾液分泌量……39
 6.唾液の組成……39
  種々の唾液腺から分泌される唾液の割合……39
  分泌速度……39
  刺激時間……41
  刺激の性質……41
  日内リズム……41
 7.唾液と味覚……41
 8.唾液の緩衝能……43
  タンパク……43
  リン酸塩……43
  重炭酸塩……43
  pH……43
  カルシウムとリン酸塩の濃度……44
 9.小唾液腺の分泌……45
 10.まとめ ―臨床的な要点……46
4.口腔乾燥症の診断,治療と臨床症状……47
 1.全唾液の分泌速度……47
 2.唾液腺の機能低下と口腔乾燥症の原因……49
  薬物……50
  放射線療法……51
  全身疾患および全身状態……51
  加齢……55
  咀嚼回数の減少……55
 3.口腔乾燥症の疫学……56
 4.口腔乾燥症に関連する臨床的徴候……56
 5.唾液の分泌機能の検査……58
 6.唾液のスクリーニングテスト……58
  唾液量測定法……58
  視診による唾液検査……59
  pHと緩衝能……59
  微生物学的テスト……60
 7.特殊な検査法……60
  大唾液腺と小唾液腺からの唾液の採取……60
  画像法……62
  唾液の化学……62
  口唇や口蓋の生検……63
  全唾液の免疫学的テスト……63
 8.口腔乾燥症の鑑別診断……63
  心理テスト……64
  ドライアイの検査……64
  血液検査……65
 9.口腔乾燥症と唾液腺機能低下(SGH)が治療……65
  口腔乾燥症とSGHの原因の同定と除去……65
 10.口腔乾燥症とSGHの対症療法……66
  “応答群”の治療……66
  非応答群の治療:口腔湿潤剤の使用……68
 11.口腔乾燥症に関連した口腔内の治療……69
  齲蝕症……69
  カンジダ症……69
  疼痛……70
 12.結 論……70
5.口腔内物質の浄化―口腔の健康との関係……75
 1.唾液の浄化作用のモデル……75
  Swenander-Lankeモデル……75
  Dawesモデル……76
 2.付着性の物質の浄化……77
  フッ化物……77
  クロルヘキシジン……77
  細菌……78
 3.唾液の浄化作用に影響する因子……78
  嚥下後の口腔内の唾液量(残留量)……78
  嚥下直前の口腔内の唾液量(最大量)……78
  安静時唾液の分泌速度……79
  刺激唾液の分泌速度……80
 4.薄い膜としての唾液の役割……81
 5.局所における物質の浄化……81
  摂取された炭水化物の浄化……81
  局所応用されたフッ化物の浄化……83
  プラーク中で産生された酸の浄化……83
  水による洗口がステファンカーブに与える影響……85
 6.齲蝕と歯石沈着の部位特異性……86
 7.まとめ ― 臨床的な要点……87
 8.謝 辞……87
6.唾液とプラークpHの制御……89
 1.ステファンカーブ……89
 2.安静時のプラークpH……90
 3.プラークpHの降下……90
 4.プラークpHの最小値……91
 5.プラークpHの上昇……92
 6.唾液によるプラークpHの維持……93
  重炭酸塩……94
  リン酸塩……94
  その他の因子……94
 7.プラークの緩衝能……94
 8.プラークの古さと付着部位……95
 9.食事歴……96
 10.プラークpHと唾液の浄化……96
 11.腎臓透析患者のプラークpH……97
 12.プラークpHとフッ素濃度のレベル……97
 13.唾液刺激とプラークpH……98
 14.齲蝕がない患者と齲蝕感受性が高い患者のプラークpH……101
 15.唾液刺激の臨床的意義……103
 16.唾液腺機能不全……103
 17.まとめ ― 臨床的要点……104
 18.謝 辞……104
7.口腔内細菌への唾液の作用……107
 1.抗菌因子……107
 2.口腔内細菌を凝集する因子……108
 3.唾液による細菌の成長の助成……109
 4.唾液中の細菌の選択的成長……110
 5.唾液ムチンの役割に関する研究……111
 6.in vivo所見との対応……113
 7.まとめ ― 臨床的要点……115
8.唾液タンパクの機能……117
 1.唾液タンパクの生物学的活動……117
  口腔細菌叢の制御……117
  水和,潤滑および発癌性物質と食物毒素に対する防御作用……119
  歯の石灰化の維持……120
  味覚と消化……120
  遺伝子の側面……120
  唾液タンパクの種類……121
  ムチン……121
  分泌型免疫グロブリン……122
  ラクトフェリン……123
  リゾチーム……124
  脱水素酵素……125
  ヒスタチン……125
  アミラーゼ……126
  舌リパーゼ……126
  シスタチン……126
  スタテリン……127
  プロリンリッチタンパク(PRPs)……128
 2.まとめ ― 臨床的要点……132
9.無機質のイオン平衡における唾液の役割―齲蝕と歯石の形成―……137
 1.唾液,ペリクル,プラーク……137
 2.エナメル質の構造……139
 3.唾液とステファンカーブ……141
 4.齲蝕と再石灰化……143
 5.歯 石……145
 6.プラークの液体成分と唾液の飽和度および齲蝕にみられる個人差……147
 7.齲蝕や歯石形成を予防するための唾液の調節作用……147
  齲蝕……148
  根面齲蝕……149
  歯石……150
  唾液分泌のための刺激……150
  結論……150
 8.臨床的な要点……151
 9.謝 辞……151

索引……153