やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序文

 インフェクションコントロールチーム(infection control team:ICT),感染管理看護婦(ICN),感染管理医師(ICD)の存在は,欧米,とくにヨーロッパ諸国では当然の現実であり,彼らの活躍により院内感染が効率的に防止されているのは紛れもない事実である.一方,わが国では,こうした院内感染防止のための制度はようやくスタートしたばかりのよちよち歩き状態にある.感染症関連学会が共同してICDの認定をはじめたのが1999年,日本看護協会がICNの認定をはじめたのは2000年になってからである.ICUの略号は通じても,ICTの略号を知る医療関係者はわが国ではまだまだ少ないのではなかろうか.
 ICTは,診療報酬制度が指定するMRSA院内感染防止委員会とは異なる存在である.院内感染防止委員会は院内感染防止対策に関する最終的な意志決定機関であり,通常,感染防止にかかわる各部署(執行部,臨床科,検査部,薬剤部,看護部,中央材料室,事務部など)の代表者が集まって構成される.危機管理体制,職員に対する安全教育の方針,マニュアル作成などはこの親委員会が責任をもってあたるべきである.一方,ICTは院内感染防止のための実働部隊として位置づけられ,ヨーロッパのICTはICDと専任ICNが中心となった少数精鋭(2人から数人)からなっている.わが国では院内感染防止に関心と問題意識の高い職員を構成メンバーとし,頻繁にミーティングを開催することによって,院内感染防止委員会ではなかなか手の届かない部分をカバーし,必要な方策についての的確かつタイムリーなアドバイスを与えることができる横断的な専門医療チームでありたい.ICTのメンバーは可能なら専任であることが理想である(現実的には兼任で運用せざるをえない場合が多いが……).
 ICTの役割としては,各病棟におけるサーベイランス,コンサルテーション,モニタリング,職員・業者などへの小まわりの利いた安全教育,各部門間の調整役,他病院とのネットワークづくり,院内感染防止に関する研究成果の発表や問題提起(委員会への提言)などがあげられる.
 院内感染対策を有効に機能させるために,イギリスではICNと病棟業務をつなぐ“感染対策リンクナース”が任命される.リンクナースは感染対策の現場における情報係として,また模範演技者として重要な役割を果たすことが要求される.わが国ではまだまだ普及していないが,今後,効果的な感染防止対策遂行に欠かせない存在となるであろう.
 ICTに期待される安全教育・啓蒙活動の内容としては,病原体・感染症・治療法・消毒法などに関する基礎知識,手洗い方法,病棟で肩から上に手をあげない(顔を触らない)ことの意義に関する啓蒙,無菌操作法,消毒剤・抗菌薬の使用法,機器・器具の消毒・滅菌法,清掃方法,感染性廃棄物の適正処理,事故発生時の対処法,安全器機導入の意義に関する啓蒙などがあげられる.自ら率先して勉強会を開き,専門家による講演会の開催を準備することもおおいに期待される.
 たいへん残念なことに,わが国における院内感染防止対策は非常に遅れをとっている.現在でもMRSAの院内感染による死亡はけっして珍しくないし,針刺し事故が全例届け出されているわけではない.
 たとえば,入院患者から採取・提出された細菌培養用検体から黄色ブドウ球菌が培養された検体のうち,MRSAの占める割合(MRSA/MRSA+MSSA),すなわちMRSA率を各国間で比較してみよう.院内感染対策のもっとも進んだ北ヨーロッパ・イギリスのMRSA率は1%以下,アメリカ,フランス,スペイン,イタリアなどでは約30%,そしてわが国のMRSA率は実に70〜80%といわれている.また,届け出された針刺し事故のうち,肝炎ウイルスマーカー陽性患者からの針刺し事故の割合をみてみよう.もし全例が届け出されていれば,その率は入院患者全体の肝炎ウイルスマーカー陽性率(7〜8%)に一致するはずである.実際には届け出された針刺し事故の70〜80%が肝炎ウイルスマーカー陽性患者からの受傷であるという.つまり,実際には針刺し事故の1割程度しか届けられていないのがわが国の現状といえるであろう.
 わが国では“病院のにおい“は当然視されているが,欧米の病院では病院独特のにおいはまず経験されない.この歴然たる差は,病棟における消毒剤の使い方の違いに基づくと考えられる.わが国の病棟で日常茶飯事である使用器具に対するグルタラールによる“一次消毒“の習慣は,イギリスのICNにいわせると“unbelievable!”ということになる.グルタラールによる一次消毒は作業者の健康にも病院経済にも,そして環境にも優しくない.病棟で使用した器具類は簡単な洗浄の後に中央材料室に送られて高圧蒸気滅菌されるのが,イギリスをはじめとする欧米諸国の常識なのである.そのための専用運搬通路はけっして患者・家族の通路と交差しない.わが国の多くの病院にはない病院づくりに関するハード面の違いにも注意を払わねばならない.
 こうした“日本の常識,世界の非常識“を打ち破るためにも,ICTによる“世界標準”の感染管理・院内感染防止対策の普及がおおいに期待される.
 世界標準をもとにした本書がICTの普及・制度化につながり,さらに,院内感染からの解放や院内感染の減少によってもたらされる患者の平均在院日数の削減(医療経済への貢献)につなげることができれば幸いである.
 東海大学医学部病態診断系病理学部門 堤 寛
1 ICTへの期待―セカンドステージにおける院内感染症対策 富家恵海子
 ・院内感染予防対策の現状と課題
 ・医療のあり方とICT
 ・ICTへの期待

2 院内感染対策委員の立場からICTに期待する 小塚雄民
 ・院内感染対策委員会
 ・ICT
 ・ICTの任務の実例

3 イギリス保健省とアメリカCDCのガイドライン 向野賢治
 ・標準予防対策
 ・ICT
 ・ターゲットサーベイランス

4 イギリスのICTに学ぶ 波多江新平
 ・ICTメンバー構成
 ・ICTを取り巻く環境
 ・ICTの役割
 ・ICTの院内でのかかわり

5 フランスにおける感染対策とICTの役割 村山郁子・杉山香代子
 ・HICCの構成メンバーおよび任務
 ・ICTのメンバーおよび任務
 ・100の勧告案
 ・多剤耐性菌(MRSA,ESBLs)の対策

6 アメリカCDCに学ぶ 佐竹幸子
 ・感染管理専門家の不在
 ・アメリカに学ぶ
 ・CDCに学ぶ
 ・院内感染対策方針の見直し
 ・院内感染サーベイランスの実施
 ・ふたたびCDCへ

7 ICTにおけるICNの役割―看護で感染を予防するとは 坂本眞美
 ・欧米のICNの教育と役割
 ・ICNの役割―看護で感染を予防するとは

8 イギリスで活躍するICN 清水佳子
 ・イギリスのICN
 ・明日からできる院内感染対策

9 リンクナースの役割と責任 市場ゆかり・鍋谷佳子
 ・イギリスのリンクナース
 ・日本の現状とリンクナースに求められること

10 ICNを実践して(1) 大友陽子
 ・活動の背景
 ・活動内容
 ・これからの活動

11 ICNを実践して(2) 土田敏恵
 ・著者が勤務する大阪厚生年金病院の概要
 ・ICNとしての実践
 ・ICNのメリットを生かすために

12 インフェクションコントロールにおける検査部の役割 藤田直久
 ・インフェクションコントロールの目的は?
 ・検査部において実施されるべきインフェクションコントロールとは?
 ・インフェクションコントロールからみた検査部のあり方
 ・検査部がインフェクションコントロールにおいて果たすべき役割とはなにか
 ・感染症の迅速診断
 ・病院内で発生する感染症に関する情報の作成―感染症情報の発信基地
 ・感染対策委員会(またはICT)とともに感染予防対策を実施する
 ・針刺し事故などの業務感染における検査対応―HIBG投与または抗HIV剤投与の判断のために
 ・生理機能検査における感染対策―呼吸機能,心電図,脳波・筋電図

13 微生物検査技師とICT 森 伴雄
 ・微生物検査の問題点
 ・感染症サーベイランス,モニタリング
 ・抗菌薬の使用指針と常用消毒剤の選択
 ・院内感染予防対策のための検査
 ・微生物検査技師の役割

14 ICTと薬剤師 白石 正・仲川義人
 ・当院におけるICT
 ・ICTと事務局
 ・ICTにおける薬剤師の関与

15 抗菌薬使用法のコンサルティング 藤本卓司
 ・抗菌薬使用にかかわる市立堺病院感染制御チームの取組み
 ・抗菌薬の選択と使用のコンサルティング
 ・抗菌薬使用状況の把握
 ・抗菌薬使用ガイドライン
 ・一部の抗菌薬の使用前コンサルティング
 ・抗菌薬採用時の委員会への参加

16 汚染リネンの取扱い 廣瀬千也子
 ・日本の病院リネンの現状
 ・リネンのカテゴリーおよび分別
 ・熱湯消毒法の有用性

17 院内清掃とインフェクションコントロール 佐々木加代子
 ・清掃作業の基本
 ・清掃用具の使用時の注意事項
 ・感染の拡がりを予防する清掃の基本的基準
 ・MRSA陽性患者などが使用した病室の清掃
 ・環境の掃除
 ・病室の最終清掃
 ・検査科のごみの扱い
 ・栄養科のごみの捨て方
 ・給食科の日常の清掃

18 病院設計とインフェクションコントロール 市川英幸
 ・清浄度区分
 ・動線計画
 ・空調
 ・衛生設備
 ・院内清掃の容易な構造

19 病院環境の統合的マネージメント 酢屋ユリ子
 ・環境の健康管理
 ・これからの環境管理
 ・認識の共有
 ・スタンダードとトータルマネージメント
 ・具体的な活動事例

20 在宅医療におけるインフェクションコントロール
―訪問看護婦の役割 畠山悦子
 ・在宅医療と感染症の現状
 ・MRSAの特徴
 ・当訪問看護でのMRSA保菌者の状況
 ・在宅における感染予防対策の実際
 ・標準予防対策の実際
 ・在宅における訪問看護婦の役割

21 ともに生きる時代の新感染症対策
―感染症に対する予防活動と患者・感染者とともに生きる地域づくり 小林美智子
 ・伊那保健所の概況
 ・MRSAが地域に発生した―地域におけるMRSA対策
 ・地域におけるAIDS対策
 ・地域の感染症対策における保健所の役割

22 患者・家族への院内感染の伝え方 田口洋子
 ・院内感染とインフォームドコンセント
 ・感染対策の問題点と影響
 ・患者への説明
 ・患者への説明例(東京都老人医療センター院内感染マニュアルより抜粋)

23 医療オンブズマン制度 大西千枝子
 ・オンブズマンとは
 ・医療オンブズマン
 ・医療オンブズマンの必要性
 ・川崎市市民医療オンブズマンが医療オンブズマンとして機能した実例

24 わが国のインフェクションコントロールの現在と未来 川名林治
 ・岩手医科大学でのインフェクションコントロール
 ・東八幡平シンポジウム
 ・日本環境感染学会の設立とその後の発展
 ・厚生省の対応
 ・欧米の現況
 ・盛岡友愛病院の院内感染対策
 ・将来の展望

25 「感染症の医学」の将来展望 小澤 敦
 ・感染症の考察―共生的立場を中心として
 ・感染症の病因論とその生態学的考察
 ・感染症制圧への方策
 ・感染症の教育・研究の将来展望

●サイドメモ目次●
 ICT(infection control team)
 フランスの感染対策
 ナイチンゲールの実践
 感染管理看護婦(infection control nurse:ICN)
 スタンダードプレコーション(standard precautions) 37,67
 感染経路別対策(transmission-based precautions)
 ホーソン効果
 アメリカの感染管理者養成初級者コース―ICP(infection control professional)トレーニングコース
 WHONET
 薬剤師の業務の変化
 グラム染色
 制度解説(医療関連サービスマーク制度/院内清掃業務に関する基準/ISO9002)
 隔離病室
 病院環境のマネージメントとリスクマネージメント
 普遍的予防対策(ユニバーサルプレコーション)
 わが国のインフェクションコントロール
 共生関係