やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序文

 音声障害をもつ人々の臨床に携わるには,コミュニケーション障害のさまざまな側面に対応する力が必要とされる.音声障害は多種多様である.単純な喉頭炎によるものなら全身状態の回復に伴い寛解するが,喉頭癌が原因であれば生命は危険にさらされる.このような両極端の間で,種々の器質性や心因性,機能性の音声障害への対応力が試されるのである.音声障害のクリニカルマネジメントを成功に導くには,Speech/Language Pathologist(SLP)としての優れた技能を身につけるとともに,多くの医療専門職者と協力関係を築きあげることが必要である.
 本著はSLPをおもな対象にしているが,音声障害の臨床に携わる他の専門職の方々にも参考になるだろう.音声障害に関する数多くの臨床的側面について,幅広い情報を提供しているからである.
 音声障害の中でも,あまり一般的でないものは本著で論じていない.筆者がおもにかかわってきたのは,臨床現場や研究論文などで頻繁に取り上げられる音声障害だからである.クリニカルマネジメントにおける一般原則は,おそらくどんな種類の音声障害にもあてはまるものである.
 第1章では,喉頭と音声機能の正常な側面が中心となる.喉頭を含む声道器官の解剖生理も取り扱う.声の高さや大きさ,声質,共鳴などの音声特徴と,その年齢性別による違いを説明する.また喉頭内部の動態を明らかにするための検査法について論じる.
 第2章では,音声障害をもつ患者に対する医学的マネジメントのなかでも一般的な処置をいくつか取り上げる.また,音声障害にかかわる種々の専門医療職について,音声障害の評価・治療における医学的処置について,そして一般に普及している薬物治療や手術法などについて広く論じる.
 第3章では,原因には目を向けずに音声障害一般を評価する手順を全般的に論じる.適切な病歴の取り方,声の高さや大きさや声質といった喉頭に関するパラメータを評価する上での原則を説明する.聴覚的評価および計測機器を用いた評価の手順を,症例を挙げて説明する.この章のハイライトは,第3版で加筆したストロボスコピー検査の施行法とその画像解釈にある.
 第4章では,どんな社会集団に属する人にも生じうる声の濫用を,広い観点から検討する.声帯結節と接触性潰瘍について,その原因や症状,評価法や治療法を含む詳細な情報を提供する.声の濫用チェックリストは,患者が行っている主要な濫用形態を見つけ出す上で,また個々の濫用形態を具体的に理解する上で役立つと思われる.症例をいくつか挙げ,声帯結節や接触性潰瘍,声の濫用や誤用のマネジメントについて検討する.
 第5章で扱うのは神経原性音声障害であるが,掲載項目の選別に苦労した章である.本著の全編を通じ,一項目につき一冊の本が書けるようなものはたくさんあるが,神経原性音声障害はまさにそうである.ただ,問題の一般的な側面を概観しておけば,種々の神経原性音声障害を理解する基盤になると思われる.本章では,神経系の特定の疾患が喉頭と音声に影響する仕組みを分析する.運動障害性構音障害については,音声に顕著な影響を及ぼすタイプのみを論じ,それ以外は割愛せざるをえなかった.内転型と外転型の痙攣性発声障害については,この障害を本質的には神経原性と捉える立場から,かなり詳しく説明している.
 第6章では,心因性または非器質性と呼ばれることもある音声障害の様々な側面を扱う.他の文献ではあまりみかけない内容として,ストレスを受けた際,あるいは感情が昂ぶった際に,発話システムに生じる生理学的変化を論じている.「精神疾患の診断と統計の手引きIV」からの抜粋を掲載しておいたので,音声に影響する精神疾患を明確に論じる際に参照されたい.個別の音声障害としては,転換型失声症,心因性発声障害,変性障害,性転換願望に関連する音声の行動調整的治療を扱う.
 第7章では,喉頭癌の医学的側面,特に喉頭摘出術後のリハビリテーションにおけるSLPの役割を中心に説明する.無喉頭発声における体内音源と体外音源の用い方を詳しく述べ,症例を挙げてマネジメントの実際を論じる.無喉頭発声に用いる補綴装置についてもかなり詳しく説明する.
 第8章は,開鼻声や閉鼻声などの共鳴障害のマネジメントを論じる部分と,第1〜7章の分類にあてはまらない種々の音声障害を紹介する部分とからなる.後半に含まれるのは,聴覚障害をもつ人の典型的声質や喉頭乳頭腫,仮声帯発声,あるいは喉頭横隔膜症などの比較的まれな音声障害である.
 各章ごとに近年の重要な参考文献を挙げた.情報処理の速さからすると,読者は見識を深める上で,さらに新しい文献にもあたる必要があるだろう.しかしながら,本著で直接に言及することのできなかった情報を補う上で,このような二次文献だけでなく一次文献にあたることも役立つと考える.
 JAMES L.CASE

日本語版への序

 まず私の教え子であり,翻訳の労を取ってくれた濱村真理氏に感謝する.アリゾナ州立大学で修士課程科目を数多く教え,クリニックでは種々の音声障害の臨床実習を監督できたのは大きな喜びであった.彼女は素晴らしい学生であるとともに,すぐれた臨床家であった.
 日本の友人達との交流は,私の職業生活上,大変貴重なものであった.きっかけは,日本からアリゾナを訪れた方々に,音声障害の治療に関するワークショップを行う機会に恵まれたことだった.紅い岩山で知られる風光明媚な町セドナに集ったのだが,その美しい山々も日本の友人達の英気を前に色褪せるほどであった.
 そこで大阪教育大学の竹田契一教授,川崎医療福祉大学の熊倉勇美教授に出会い,後に2日間の音声障害ワークショップを開催するため大阪にも招いて頂いた.音声障害の臨床について私の考えを日本の方々に聞いて頂くことは,人生の転機となるような体験だった.そして今,溝尻源太郎先生や熊倉教授のご尽力により本書が,日本で出版される運びとなり,心から感謝している.
 私の音声治療哲学は,本文中に繰り返し述べられている.私は音響学的,聴覚的分析といった科学的計測法の信奉者である.技術革新のおかげで,音声にまつわる要素を計測および記録し,内視鏡やストロボスコピーで発声にかかわる器官を見ることができるようになった.そのことに感謝しているのはまぎれもない事実である.ただそのような科学的計測を超えたところに,それにまさるとも劣らない重要さで,音声障害の評価と治療の技というものが存在する.その本質は音声障害をもつ患者との包括的な(holistic)かかわりにあると考える.
 私が向き合っているのは,音声障害の患者である前に,まず一人の人間である.音声障害からくる怖れや不安といった複雑な感情をかかえている人間なのである.このような人の気持ちに配慮することができて初めて,音声障害のマネジメントに貢献しうる.それが私の信条である.読者が音声障害の臨床の技術的な側面にとどまらず,心理学的側面をも読み取ってくださることを希望する.
 2001年5月 JAMES L.CASE

訳者の序

 音声障害に取り組むうえで,医学的治療にとどまらず人間の行動や心理をも視野に入れる必要があるとの認識は,日本においても定着しつつある.クリニカル・マネジメントという言葉には,患者のQOL向上を目標の中心に据え,家族や医療スタッフが協力し合って包括的に取り組む,という意味がこめられている.その重要な一側面である行動調整的治療においては,機能障害そのものだけでなく,自らの行動様式や環境を統御する能力,そして患者の自己認識にも働きかける.このような治療において中心的な役割を果たす専門職として1999年に国家資格化されたのが言語聴覚士である.
 言語聴覚士向けに音声治療を包括的に扱った教科書の不足はかねてから認識されており,Dr.Caseが著した“Clinical Management of Voice Disorders”がその必要性に応えるものであると私たちは判断した.邦訳出版にあたっては,著者のもとで臨床に携わった濱村が全体を訳し,溝尻は耳鼻咽喉科的見地から,また言語聴覚士と共に包括的な音声治療を実践してきた立場から協力し,熊倉は日本の言語聴覚士がどのように音声治療に取り組むことができるかという視点から提言し,議論を深めていった.
 本書は音声言語治療の臨床家(Speech & Language Pathologist,SLP)を養成する米国の大学院の教科書として広く用いられている.SLPは修士号や卒後の臨床フェローシップを修得要件とする高度な専門性を持つ職能集団であり,軟性内視鏡など比較的侵襲的な検査法もその職務範囲内にある.行動調整的治療を行う上で,そのような検査法がきわめて有効であることは,本書で繰り返し述べられている.医師の指示のもと,十分な研修を積んだ言語聴覚士が職務範囲を広げていく必要性は今後増して行くと思われる.
 本書を一読すれば,機器を用いた計測が種々の評価と治療において重要な役割を果たしていることが見て取れるだろう.その背景には,米国の診療保険制度において「根拠に基づく医療(evidence-based medicine)」が求められるということがあるが,日本の音声障害の臨床においても,科学的実証に対する要求は確実に高まりつつある.
 また,米国では舞台芸術やボイストレーニングの伝統が受け継がれていることもあり,音声治療が芸術的または包括的(holistic)な側面から語られる機会が少なくない.Dr.Caseの臨床から実際に受ける印象も,そのように統合された“技アート”である.それが顕著に現れるのは,例えば彼が初対面の患者から何を求められているのかを掌握し,それに応じた振る舞い方をする時である.声帯結節の患者にはユーモア溢れる合理的な説明で意識変革をもたらすことにより,パターナリズムによらない自己習得へと誘導することもあれば,心因性発声障害の患者に対しては威厳に満ちた包容力で一種の催眠状態を誘発し,音声症状を消失させることもある.Dr.Caseに訳者(濱村)の臨床監督を担当していただいたときには,日本的な対人的態度の価値を認めながら,かかわり方の幅を広げられるようにとの配慮から,視線や動作や間の取り方といった具体的なことを録画ビデオを見ながら指導してくださった.本書においても,対人間という観点からの臨床上のエッセンスを随所に読み取ることができるだろう.
 著者はそのような“技”を経験則や神秘に帰すのではなく,言語化または数値化することによって伝えようとする努力を絶やさない.クリニカル・マネジメントにおいて説明可能性(accountability)を追求し共有部分を増やそうとする態度に,音声治療を進歩させ一人でも多くの患者に届こうとする強い思いが感じられた.このように“技”と科学とを統合しようとする音声治療は,わが国では緒についたばかりである.
 最後に,本訳の刊行に向けて長期にわたりご尽力頂いた齊藤和博氏をはじめ,医歯薬出版の方々に深謝申し上げる.
 2001年6月 濱村真理 溝尻源太郎 熊倉勇美
献辞
序文
日本語版への序
訳者の序

第1章 発声の解剖と生理
 声道の解剖と生理
  鼻腔
  口腔
  咽頭腔
  口蓋帆張筋
  鼻咽腔閉鎖のパターン
 喉頭の解剖と生理
  舌骨
  5つの主要な軟骨
  4つの小さな軟骨
  外喉頭筋
  内喉頭筋
 喉頭の膜
 声帯
 発声理論
 発声の相
 音声の個別パラメータの特徴
  周波数
  周波数変化の要因
  強さ
  声質
  声区
  ビブラート
 ピッチの年齢差と性差
 加齢に伴う声の変化
  基本周波数
  声の強さ
  声の振戦
  声質
 筋電図による音声の生理学的データ
 要約

第2章 音声障害の医学的側面
 音声障害にかかわる医療専門職
  耳鼻咽喉科:頭頚部外科
  神経科
  精神科
  心理学
  放射線科
  形成外科
  医学的病理医
 音声障害への医学的処置方法
  間接喉頭鏡検査
  内視鏡検査
  ストロボスコピー検査
  放射線医学的検査
  X線撮影法
  血管造影法
  コンピューター断層撮影法
  磁気共鳴画像
 音声障害の薬物治療
 音声の患者への手術適応
  音声外科
  レーザー喉頭微細手術
 要約

第3章 音声障害の評価・診断
 医師への紹介
 学校でのスクリーニングと音声障害の確認
  音声障害のスクリーニングにおける問題点
  いつ医師に紹介するか
 病歴
 音声パラメータの評価
 ピッチ(周波数)49
 話声位など発話におけるピッチ
 声質
  低近接性,過近接性の声
 音声障害における複合的要因
  嗄声
  二重声
 声質評価における計測法
  スペクトログラフ
  EGG
  空気力学的計測
 声の大きさの計測法
 共鳴を評価する上での計測法
 呼吸の計測
  肺気量の過不足
  湿式スパイロメーター
  胸部および腹部の動き
 最長発声持続時間
 聴覚的評価スケール
  音声評価で用いる聴覚的尺度
  ゲルファーの評定尺度
 内視鏡とストロボスコピー検査
 音声評価の症例検討
  背景と病歴
 要約

第4章 声の濫用のマネジメント
 声帯結節
 声帯結節を伴う声の特徴
 声帯結節の病因
  大声で叫んだり金切り声をあげる
  硬起声
 濫用につながる歌い方
  水分に関する配慮
  騒音下で話す
  咳と咳払い
  運動中や重いものを持ち上げるときのいきみ
  離れた相手と話す
  不適切な高さのピッチを使う
  アレルギーや上気道炎罹患時に話す
  筋骨格の緊張時に発声する
  喫煙する,または喫煙環境で話す
  月経中に声を出しすぎる
  声の使いすぎ
  呼気サポート不足
  大声で濫用につながる笑い方をする
  チアリーダー,エアロビクスインストラクター,応援団員などによる声の濫用
  おもちゃの擬態音を出したり,動物の鳴き真似をする
  運動や試合中に大声を出す
  押しの強い攻撃的な性格
  同僚・クラスメートや兄弟姉妹らとの口喧嘩
  アルコール摂取
  その他の要因
 声帯結節の評価と治療手順
  評価セッション
  評価後の初回治療セッション
  初回に続く治療セッション
  階層化アプローチで濫用を除去する
  接触性潰瘍と肉芽腫
 食道逆流
 声帯結節や肉芽腫のある患者への手術
 声の濫用治療の一環として声のピッチを変える
 小児の声の濫用治療
 要約

第5章 神経原性の音声障害
 喉頭の神経支配
  中枢神経系
  末梢神経系
 小児と成人の神経学的障害
 迷走神経
 喉頭神経麻痺の症例
 上喉頭神経損傷
 迷走神経損傷の原因
 喉頭麻痺の医学的治療
  外転麻痺のマネジメント
  神経筋茎移植法
  内転麻痺のマネジメント
 甲状軟骨形成術I型 声帯内方移動術
  甲状軟骨形成術I型の症例
  声門閉鎖不全に対するプッシング法
 ジストニア
  痙攣性発声障害
  痙攣性発声障害の治療
  痙攣性発声障害などへのBOTOX注射
  外転型痙攣性発声障害
 神経系疾患と運動障害性構音障害
 声の振戦
 パーキンソン病
 筋萎縮性側索硬化症
 多発性硬化症
 重症筋無力症
 脳性麻痺
 神経疾患による音声障害の治療
 要約

第6章 心因性あるいは非器質性音声障害
 心因性音声障害の症状
 ストレス下での生理学的変化
  自律神経系
  辺縁葉あるいは辺縁系
  基礎代謝レベルから興奮へ
 心因性音声障害の症例
 転換型失声症
 評価手順
 治療手順
  心因性失声症治療の症例
  転換型発声障害の治療
 心因性障害としての声の濫用
 変声障害(変声期の裏声)
  変声障害の音声に関する要因
 変声障害の治療
  病歴聴取
  声の刺激法
 変声障害の症例
 変声障害の注意事項
 変声障害の文献概要
 器質性変声障害
 性転換障害の音声治療
 舞台負け
 SLPと声に関する心理学の問題
 要約

第7章 無喉頭によるコミュニケーション
 喉頭癌
  喉頭癌の原因
  喉頭癌のタイプ
  喉頭癌の症状
 喉頭癌の治療
 無喉頭発声の体外音源
  電気スピーチエイド
  頚部に当てる人工喉頭
 無喉頭発声の体内音源
  頬部発声
  咽頭発声
  食道発声
 食道発声のメカニズム
 空気の取り込み法
  注入法
  吸引法
 空気の貯留庫(代用肺)
 新声門の振動体としての性質
 聴覚的および音響学的特徴
  ピッチ
  大きさ
  声質(周期性)
  発話速度
  明瞭度
  食道発声と人工喉頭の比較
 喉頭摘出術後のリハビリテーション
  SLPによる手術前の訪問
  人工喉頭に関する議論
  本格的な無喉頭発声治療
  食道発声の指導法
  無喉頭発声による句レベルの発話
  食道発声における句切り(フレージング)
  悪い発話癖の予防
 機能的食道発声の治療目標
 無喉頭発声の症例
 喉頭摘出リハビリテーションの他の手段
  気管食道瘻/穿刺
  TEPの手順
  気管食道穿刺後にプロテーゼを選ぶ
  通気検査
  TEP発声の手順
  気切孔バルブ
 喉頭摘出術後のリハビリテーションにおける課題
 要約

第8章 鼻腔共鳴障害と種々の音声障害
 鼻腔共鳴にまつわる音声障害
 開鼻声
  口部顔面裂を伴う頭部顔面形態異常
  口部顔面裂以外の器質性の異常
  口蓋扁桃やアデノイド摘出術後
  神経の損傷による不全麻痺
 閉鼻声
  開鼻声と閉鼻声の鑑別
  閉鼻声と鼻呼吸
  盲管共鳴
  鼻腔共鳴要因の聴覚評価力を高める
  上顎前方移動術
  閉鼻声の症例
  その他の要因
 開鼻声の治療
  咽頭弁咽頭形成術
  発話用補綴装置
 開鼻声の音声治療
  ナゾメーターを用いた開鼻声の音声治療
  鼻腔共鳴訓練の症例検討
 聴覚障害に伴う音声障害
  聴覚障害向けの音声治療
 種々の音声障害
  喉頭乳頭腫
  喉頭乳頭腫の治療
  喉頭ポリープ
  仮声帯発声
  喉頭横隔膜症
  先天性軟骨軟化症または喉頭軟化症
  猫鳴き症候群
  嚢胞など種々の喉頭内の増殖
  喉頭外傷
  逆説的声帯振動(喉頭ジスキネジア)
  後天性免疫不全症候群
  声帯溝症
 種々の音声治療法
  アクセント法
  あくび―ため息法
 結びの助言
 要約

コラム欄について(原著の本文中で列挙されている情報を,以下のように分類して掲示した)
 :重要ポイント
 :引用論文などからのデータ(細部にわたる情報)
 :手順,指示の出し方,患者との会話など
 :参考資料