やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 大阪市立大学大学院医学研究科システム神経科学 渡辺恭良

 めまぐるしく動的である現代社会においてはほとんどの老若男女が疲れている.もっとも大きな問題は子供や青年が疲れている現状かもしれない.疲労感・倦怠感はわれわれが日常的に経験している感覚であり,発熱,痛みとともに,身体のホメオスタシス(恒常性)の乱れを知らせる重要なアラーム信号のひとつである.忙しい生活から回避できるのであれば根本的に解決する問題でも,回避できない場合は次善の策を探るしかない.
 1985 年の総理府の健康に関する国民意識調査では疲労感を訴える人が 66%であったが,そのうちの 72%は“一晩の睡眠により疲労感は回復する”と答えている.したがって,これまでは多くの人が疲労感を感じていてもそれは短期間である場合が多く,半年以上続くような慢性疲労は希少であると思われていた.しかし,平成11年(1999)厚生省疲労調査研究班(木谷照夫班長)が愛知県豊川保健所管内の2市 4 町を対象に 15〜65 歳の男女 3,000 名以上の回答により疫学調査を行ったところ,疲労感を自覚しているヒトの割合は約 60%であって実にその半数を超える人(全体の 36%)が半年以上続く慢性疲労に悩んでいることが明らかになった.日本の就労人口約8千万人に対し実に3千万人近い人が半年以上疲労感に悩んでいる.
 また,慢性疲労に悩んでいる人の半数が疲労のために以前に比べ作業能力が低下し十分に活動できていないと感じており,さらに後述の慢性疲労症候群の診断基準を満たす人も約 0.3%存在している.したがって,慢性疲労は現代社会の経済的損失という観点からも大きな社会問題である.
 疲労については,その定義や概念もさまざまである.その定義付けを困難にしている要素は筋肉疲労以外では客観的測定法がなく,日常生活レベルや自己申告による評価スケールはいくつか試行されているものの,主観的症状をいかに定量的・客観的に表すかという決定的手段または定量尺度をわれわれがもっていなかったことにある.一方で,自発痛や関連痛,アロディニアといった同じくやや主観的な痛みのメカニズムについてはかなり研究が進められているのに,疲労,およびそれを感じる疲労感についての脳神経機構の研究,および分子メカニズム研究は非常に立ち後れているといっても過言ではない.膨大なストレス研究に対して,なぜ,疲労研究はそれほど進んでいなかったのであろうか?
 疲労は避けられない必然のもの,寝たら治るもの,といった諦念から,それほど多くがなされなかったのであろうか?どれだけ疲労のメカニズムが科学的に解明されていないかは,いまだに“疲労は乳酸産生による”と書いてある成書が多いことからも明白である.乳酸は,脳神経系にとって重要なエネルギー源であり,筋肉においてさえ,乳酸が筋肉活動を阻害するという過去の説は否定的である.本特集では,このあたりの問題点につねに意識をおいて統合的に疲労のメカニズムと疲労回復法について考えていきたい.図1の概念図に示したように,急性の疲労のメカニズムから,その疲労が遷延化し,十分な回復が得られないうちに蓄積し慢性疲労に陥る過程には多数の位相があり,それらの移り変わりのなかでは,各章であげられている疲労因子の増減・変化の方向性まで変わるのであり,これはストレスとストレス反応が遷延化した末の疲労状態との関係についても同様である.
 もっとも重要な研究課題は,疲労回復・予防戦略である.疲労回復ドリンク剤は 2,600 億円を超える市場であるといわれている.この方向の研究では,わたしたちの身体のなかで,もともと有している疲労回復,疲労リセット機構というものに考えを至らせる必要がある.疲労回復および予防は疲労因子を軽減・消去することばかりでなく,身に備わっている疲労リセット因子を早く巧みに活用させてやる工夫であるかもしれない.日本オリジナルとして開発できる製品があれば,国際市場を席巻できる可能性があり,早急な着手が要請される.すでに,本企画の著者の多くが属する疲労研究班は疲労回復・予防に関し科学的に実証される有効な方法論の開発に研究の主力を注いでいる.
 著者ら脳科学者にとって重要な問題は“疲労をどこでどのような仕組みで感じているのであろうか?”ということである.けっして筋肉細胞や関節の骨や腱で疲労を感じているのではない.これは痛みも同じことであるが,足先に痛みがあることを感じているのは脳である.肉体的疲労について疲労を媒介する分子を考えると筋肉など末梢組織から脳へ情報を伝える手段と脳内での疲労感情報を伝播する物質・シグナル伝達についての考えが必要なことに気づく.もちろん,精神疲労の場合は末梢組織からのシグナルは無関係であろう.近年,いわゆる神経‐内分泌‐免疫相関の研究や神経免疫精神医学的観点からの考え方も進んできており,免疫系物質が脳内で産生されて神経細胞やグリア細胞に働いたり神経機構により免疫系に抑制がかかったりする分子機構がさまざま明らかになっている.
 そのような中で,文部科学省・科学技術振興調整費による疲労研究班[生活者ニーズ対応研究“疲労および疲労感の分子・神経メカニズムとその防御に関する研究“(第I期:平成 11〜13 年度,第II期:平成 14〜16 年度,研究代表者:渡辺恭良)]ではこれまでに知られてきた断片的な疲労の分子・神経メカニズムの研究結果を統合し,脳機能イメージングや遺伝子解析などの新しい方法論も取り入れて“疲労”と“疲労回復・予防“についての研究を深めている.本特集では班員の研究成果とともに,日本の代表的疲労科学研究者の執筆をいただき,現在の“疲労の分子・神経メカニズム”についての研究の進展についての情報を提供する.
はじめに(渡辺恭良)
■第1章 疲労の神経回路と物質的背景
 1.脳機能イメージングによる疲労および疲労感の解析(渡辺恭良)
 Functional neuroimaging on fatigue and fatigue sensation
  ●疲労感の脳部位
  ●疲労による神経伝達異常
  ●健常人の疲労の脳機能イメージング
 2.疲労に関連する生体パラメータの動態(中村夫左央)
 Biological parameters in relation to fatigue
  ●生体エネルギーの通貨―アデノシン三リン酸
  ●クレアチンリン酸系
  ●解糖系
  ●乳酸
  ●好気的酸化系代謝
  ●酸素
  ●水泳と低体温
 3.酸化ストレスと疲労(平本恵一・井上正康)
 Oxidative and fatigue
  ●紫外線と疲労
  ●UVBの免疫抑制作用
  ●UVAの免疫抑制作用
  ●活性酸素と光酸化ストレス
  ●UVによる疲労
  ●内因性抗酸化物質
  ●抗酸化剤と疲労
 4.酸化ストレスと脳の疲労(片岡洋祐)
 Oxidative stress in brain fatigue
  ●脳が酸化されるしくみ
  ●酸化ストレスが引き起こす中枢神経機能の変化と疲労
  ●脳内酸化ストレス研究からみた疲労回復の手立て
 5.中枢性疲労の発生と脳内TGF-β(井上和生)
 Manifestation of central fatigue and TGF-β in brain
  ●疲労ラット脳脊髄液中の自発行動抑制活性
  ●ヒドラによるスクリーニング
  ●TGF-βの自発行動抑制作用
 6.トリプトファンと中枢性疲労(山本隆宣・エリックA. ニュースホルム)
 Tryptophan and central fatigue
  ●ヒト中枢性疲労研究にみるトリプトファンの動態
  ●ラット中枢性疲労研究にみるトリプトファンの動態
  ●Sprague-Dawley(SD)ラットとanalbuminemia rat(NAR)との比較
  ●システムl-アミノ酸トランスポーターの阻害による疲労の制御
  ●中枢性疲労モデルの作製
  ●疲労に対するホメオスタシス維持機構:トリプトファン-β-エンドルフィン連関
 7.セロトニンと慢性疲労症候群(岡戸信男)
 Serotonin and chronic fatigue syndrome
  ●セロトニンの分布
  ●広範投射系
  ●セロトニントランスポーターとプロモーター遺伝子多型
  ●中枢性急性疲労
  ●CFSとうつ病
  ●セロトニン機能亢進とSSRI治療の矛盾
  ●視床下部‐下垂体‐副腎軸(HPA axis)
 8.疲労の条件づけとセロトニン(片渕俊彦・近藤哲哉)
 Conditioning of fatigue and serotonin
  ●“脳‐免疫系連関”モデルとしての疲労
  ●Poly I:Cによる免疫学的疲労
  ●サイトカインと中枢性疲労
  ●Poly I:Cとセロトニン系
  ●免疫機能および疲労の条件づけ
 9.疲労・ストレスと内分泌系変調(中島敏博)
 Stress,fatigue and endocrine system
  ●ストレス応答系
  ●1回のストレスによる長期応答
  ●オキシトシンとHPA axis応答
  ●EETとHPA axis応答
 10.疲労と食欲不振(佐々木和男)
 Fatigue and anorexia
  ●疲労関連物質
  ●視床下部摂食調節系
  ●疲労関連物質による摂食抑制
  ●拘束ストレスと“みどりの香り”
 11.カルニチンと疲労―脂肪酸代謝異常において
 絶食は疲労様症状から病態悪化を引き起こす(佐伯武ョ・他)
 Fatigue-like symptoms caused by fasting on fatty acid oxidation disorder
  ●カルニチンと疲労
  ●JVSマウスにおける疲労様症状の解析
  ●JVSマウスにおける行動異常への液性,および神経系因子の関与の可能性
  ●脂肪酸代謝異常症での治療と対策
 12.感染性疲労と発熱(松村潔・小林茂夫)
 Fatigue and fever during viral infection
  ●サイトカイン―疲労感と発熱のメディエ ータ
  ●サイトカインはどのようにして脳に作用するか
  ●二本鎖RNA(Poly IC)投与による擬似的ウイルス感染モデル
  ●Poly ICによる発熱と疲労感発生の機構
 13.過労死と疲労―過労死に至る脳内メカニズム(田中雅彰)
 Karoshi and fatigue
  ●動物モデルと疲労度判定
  ●脳モノアミン代謝
  ●治療
 14.慢性ストレスと疲労(木戸敏孝)
 Chronic stress and fatigue
  ●慢性ストレスによる脳内変化
  ●ストレスと疲労感
  ●疲労治療薬としての補中益気湯とアセチル-l-カルニチン
  ●疲労の回復
  ●動物実験の問題点
■第2章 疲労の客観的評価
 15.単純視覚反応課題による疲労の客観的評価
 ―疲労による反応時間の遅延(尾上浩隆)
 Evaluation of fatigue using a simple reaction task in the macaque monkey
  ●サルにおける単純視覚弁別課題の学習過程と反応時間の変化
  ●単純課題の連続試行で認められる疲労様の反応時間遅延
  ●反応時間の遅延はどの部分の疲労なのか?
 16.疲労の定量化法(梶本修身)
 Technique for assessment of degree of fatigue
  ●“疲労大国”日本における疲労研究の現状
  ●疲労と疲労感の違い,ストレスと疲労の混同
  ●これまでの疲労の定量化法と問題点
  ●疲労測定機器ATMT
  ●食品・医薬における抗疲労効果の実証の問題点
■第3章 慢性疲労病態
 17.慢性疲労症候群の病因・病態と診断の手引き(倉恒弘彦)
 Pathogenesis and diagnosis of chronic fatigue syndrome
  ●慢性疲労症候群の疾病概念
  ●慢性疲労症候群の診断基準
  ●鑑別診断に必要な検査,診断のポイント
  ●慢性疲労症候群の病因
 18.小児型慢性疲労症候群と不登校(三池輝久)
 Childhood type chronic fatigue syndrome and school refusal
  ●子どもたちの奇妙な疲労
  ●睡眠障害と慢性的時差ぼけ
  ●高次脳機能の混乱
  ●画像解析検討
  ●エネルギー代謝異常
  ●学習意欲と学力低下
  ●生命力低下と子どもたちのメッセージ
 19.慢性疲労症候群の精神医学的側面(岩瀬真生・志水 彰)
 Psychiatric aspects of chronic fatigue syndrome
  ●慢性疲労エピソードの精神医学的分類
  ●CFSにみられる身体・精神症状の出現頻度
  ●CFS患者における精神疾患の合併率
  ●大うつ病性障害との鑑別
  ●不安障害との鑑別
  ●身体表現性障害との鑑別
  ●適応障害との鑑別
  ●人格障害との鑑別
  ●神経衰弱とCFSの関連
  ●治療と予後
 20.ヘルペスウイルス感染と慢性疲労(近藤一博)
 Herpesvirus latency and chronic fatigue syndrome
  ●慢性疲労症候群の感染症としての側面
  ●HHV-6,HHV-7の潜伏感染
  ●潜伏感染に関する知見をもとにしたアプローチ
 21.ボルナ病ウイルスと慢性疲労症候群(山下真紀子・他)
 Borna disease virus and chronic fatigue syndrome
  ●BDVと精神疾患
  ●CFS患者におけるBDV疫学調査
  ●CFS患者からのBDV関連自己抗体の検出
  ●BDVの中枢神経系障害性とHMGB1の機能異常
 22.慢性疲労症候群における2′,5′-オリゴアデニル酸
 合成酵素活性およびRNA分解酵素Lの異常(生田和史・西連寺 剛)
 Abnormality of 2′,5′-oligoadenylate synthetase-activity and ribonuclease L in chronic fatigue patients
  ●2-5ASはIFNシグナルの下流に存在する
  ●CFS患者では2-5AS活性が高値である
  ●CFS患者ではRNase L活性が高値であり,その異常分子が存在する
 23.慢性疲労症候群の自己免疫学的側面
 ―自己免疫性疲労症候群との関係(伊藤保彦・福永慶隆)
 Autoimmunity in chronic fatigue syndrome
  ●自己免疫性疲労症候群(AIFS)
  ●AIFSとCFSの関係
  ●AIFSとSj■gren症候群(SS),およびその他のリウマチ性疾患との関係
  ●抗Sa抗体の対応抗原とCFSで報告されているその他の自己抗体

■サイドメモ目次
 半卵円中心
 遺伝子ドーピング
 Photo-optico-neuro-dermal networkによる生体防御機構
 光酸化
 TGF-β
 システムl-アミノ酸トランスポーター(LAT)
 脳-免疫系連関とストレス・免疫応答
 みどりの香り
 カルニチン欠損JVSマウス
 疲労感の効用
 テトラヒドロビオプテリン(BH4)
 系列行動課題におけるプロセスの自動化
 疲労物質と疲労感
 時計遺伝子と生体リズム
 CFSの診断基準
 潜伏感染・持続感染・潜伏期
 脳内IL-1β
 IFNに依存しない2-5ASも存在する
 Ro/SSAのアイソフォームと新生児ループス