やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 (財)癌研究会名誉研究所長 菅野晴夫

 今回,本誌が“予防医学のミレニアム―遺伝子診断の動向とそれに伴う問題点”の特集を企画されたことは,たいへんタイムリーで敬意を表する次第である.
 21世紀はゲノム医学の世紀といってよいであろう.医学の進歩は著しく,目をみはるばかりである.その中心をなすものは,疾患関連遺伝子の発見とその機能の解析,病態との関連づけ,すなわち病因と病像が遺伝子レベルで明らかにされつつあることにある.また,生物学,とくに細胞生物学の進歩が大幅に医学のなかに取り入れられ,たがいに融合して生物医学的研究として一体化し医学に幅と深みと思索を与えていることも特筆すべきであろう.
 ヒトゲノムプロジェクトは成功裡に進行し,ゲノム機能の解析へと急速に動いており,その膨大な情報は医学,生物学へ大きく貢献するものと期待されている.ゲノム研究は,遺伝子は大腸菌からヒトまでよく似ていることを教えており,ヒトゲノムのなかに大腸菌,魚,マウス,サルのゲノムが生きていること,ヒトの研究は生物の研究であり,生物の研究はヒトの研究につながることを教えている.このようなことはこれまでの医学にはなかったことで,医学の新しい枠組みが必要になることを示している.技術革新の面からみても,ゲノム研究は大きいインパクトを与えており,医学の進歩を大幅に加速している.これからのマイクロアレイの導入,バイオインフォーマティクスの効率性,有用性をみてもこのことは容易に了解されるであろう.医学,生物学はほどなく一変するものと予想される.
 このような状況の下で本誌では,現在もっとも注目されている遺伝子診断の面から第一線の研究者に“予防医学のミレニアム”を論じていただくことになった.
 本特集ではゲノム,遺伝子研究の最前線を踏まえて,(1)ミレニアム医学(遺伝子診断)を広い立場から展望していただき,ついで,(2)ミレニアム医学(遺伝子診断)の方策的・技術的側面と将来を論じ,さらに,(3)ミレニアム医学(遺伝子診断)の社会的・倫理的問題を明らかにし,最後に,(4)ミレニアム医学(遺伝子診断)の構築,すなわち個々の疾患の遺伝子研究と遺伝子診断の現況と将来を論じていただくことにした.
 執筆にあたってはご自身の研究(領域)とその周辺(領域)も含めて,現況とともに将来の展望も視野に入れてレビューとして書いていただくことをお願いした.
 21世紀の医学は予防医学の時代でもある.この“予防医学のミレニアム“は,きたるべき医学が予防医学であることを意識してのことである.かつて医学は猛威を振 った伝染病や感染症の予防に輝かしい成果を収めてきた.“医(の目的)は医なきを期す”ことにある.そして,それはかなり成功したように思われた.しかし現在,伝染病や感染症克服のおかげで違 った形の病気が増えてきている.死因の多くを占める癌,心臓病,脳血管障害などの生活習慣病,多くの人びとが罹患している糖尿病,免疫・アレルギー病,高齢とともに進行する痴呆性疾患などであり,これらの克服はさし迫 った最大の課題である.
 これらの疾患に対するわれわれの学問的理解は十分とはとてもいえず,残念ながら予防からは遠いところにある.まず,疾患メカニズムを明らかにすることが大切であり,疾患の正確な診断が必要である.遺伝子診断の進歩によって,これまでの病型をいくつかの臨床上重要な亜型に分類することが可能になってきた.また,疾患の進展・予後を予知する遺伝子変異が発見されるなど,重要な知見が続々と見出されてきており,今後の遺伝子診断の発展がおおいに期待される.疾患メカニズムの解明が進めば,遺伝子診断はさらに広範かつ有用なものとなることは明らかである.
 これからの予防は思いつきのやみくも的予防であってはならず,病因と病気の自然史(病気の進展),環境因子と宿主因子の相関関係を十分に踏まえた,医学生物学的根拠に基づいた予防でなければならない.たとえば,病因となる遺伝子のジェネティック,エピジェネティックな変化,そのシグナル伝達系といった一連の過程を明らかにすることが必要となろう.また,これらの一連の過程はこれに関与しているシステムと重層性に連動していることも理解する必要があろう.そのうえで,標的となる分子の同定とその抑制物質の発見または創成がなされなければならないであろう.
 また,21世紀の医学は個の医学であり,多様性を認める医学である.病気は本来個々人の病気であり,多様性に富むものである.これまでの医学は疾患を疾患単位(disease entity)としてひとつひとつのグループに束ねて対応してきた.マスの医学といってもよいであろう.医学がこれによって進歩してきたことは確かである.しかし,現実には個人個人の病気に対する反応は違 っており,薬に対する反応も違 っている.これらは漠然と,素因あるいは体質が違うからと了解されてきた.ゲノムプロジェクトのおかげで,単一塩基多型(SNPs)といわれる遺伝子多型があり,それによって反応の違いが説明できるようになりつつある.すなわち,個の医学,多様性の医学が成立しうる学問的根拠が確立されそうである.遺伝子診断はこの方面でも大きな貢献をなすであろう.
 最後に遺伝子診断の重要な側面として倫理の問題がある.科学技術の急速な発展は一般の人びとの意識との間に乖離をきたしやすい.人権の保護,個人情報の尊重はますます大切になっている.ゲノム医学,遺伝子医学においてはとくにこの点に留意し,倫理,社会の受容について十分注意し,社会とともに歩むことが必要である.
 今回,ご執筆の先生方には,本特集の趣旨と基本方針にご賛同され,優れたレビューを寄せていただいた.ここに厚く御礼を申し上げる.本特集が,まさにスタートした21世紀の医学にすこしでも貢献できればと念願している.読者諸氏の忌憚のないご意見とご批判をお願いしたい.
 なお,遺伝子診断に伴う医療経済的問題を本特集に含めるべきかどうかについては十分に考慮したが,これに関しては,これまでごく少数の小さいレポートがあることはあるが,内容的にも時期尚早と思われたため含めなかったことをお断りしたい.
 臨床的に患者の希望に対する遺伝子診断ははじまったばかりで,取り扱う技術をもった医療機関は少なく,経費もかかる.遺伝子診断は現在,高度先進医療として厚生労働省の承認を得た特定承認保健医療機関において患者の費用負担で受けることができることになっているが,その数はまだ少ない.しかし,遺伝子診断技術者の数,検体数は増加している.また,診断法の改良も日進月歩で,より効果的な診断法がより安価に提供されることは明白である.遺伝子診断の重要性は大きく,患者に大きい利益を与えるものであることを考えれば,今後おおいに推奨されるものと考える.
はじめに 菅野晴夫

I.ミレニアム医学の展望
 1.ヒトゲノム解析研究の動向 中村祐輔
 2.病原細菌の遺伝子解析 林 英生・他
 3.遺伝子診断と予防医学―分子予防医学 橋本真一・松島綱治
 4.遺伝子診断の現況 上田國寛
 5.遺伝子疾患変異知識ベースMutationViewの構築 蓑島伸生・清水信義
II.ミレニアム医学の方策
 6.Laser capture microdissection(LCM)を包括的遺伝子発現・構造異常の解析に適用する方法 佐々木博己・田邊智佳子
 7.ルーチン病理検査における遺伝子異常検索の実際 安井 弥・横崎 宏
 8.HLAタイピングと疾患感受性・骨髄移植 山本 健・笹月健彦
 9.疾患感受性の民族差―ヒト白血病ウイルスとHLAの遺伝的多型 園田俊郎
 10.癌ハイリスクグループの探索 椙村春彦
 11.遺伝子診断技術の開発 塚田 裕
 12.ポストシーケンス時代の染色体解析技術と疾患診断―ヒトゲノムの全容が明らかにされた今,ゲノム一次構造異常の検出が疾患遺伝子同定の鍵を握る 稲澤譲治
 13.ホルマリン固定パラフィン包埋組織を用いた腫瘍の遺伝子診断―骨・軟部腫瘍診断への応用 久岡正典・橋本 洋
 14.ゲノムインプリンティング―遺伝子発現制御機構の解明から予防医学へ 久保田健夫
 15.DNAメチル化異常とその各種疾患のDNA診断への応用 牛島俊和
 16.薬剤耐性遺伝子研究の進展と将来への展望 鶴尾 隆
 17.解毒・排出系の遺伝子多型に基づく薬剤応答・副作用の予測 鈴木洋史・杉山雄一
 18.生活習慣病のテーラーメイド医療 原 一雄・他
III.ミレニアム医学の倫理
 19.遺伝子診療と遺伝カウンセリング 福嶋義光
 20.遺伝子診断―社会と倫理,法律,および国際的動向 武部  啓
 21.ヒトゲノム・遺伝子解析研究に関する倫理指針 黒木登志夫
 22.ヒト組織・細胞取扱いについての倫理 増井 徹
 23.病理検体を用いた研究の倫理的側面 森 茂郎
IV.ミレニアム医学の構築
 ○感染症・アレルギー
 24.肝炎・肝硬変・肝癌の分子医学 小池和彦
 25.H.pyloriの遺伝子診断と臨床的意義 杉山敏郎
 26.HTLV-1の遺伝子診断とキャリアの長期フォローアップ 山口一成
 27.気管支喘息,アレルギーの遺伝子診断 野口恵美子・有波忠雄
 28.リウマチ・膠原病の遺伝子診療に向けて―現状と展望 櫻井大祐・他
 ○代謝異常
 29.糖尿病の遺伝素因―原因遺伝子の同定から遺伝子診断へ 横井伯英・清野 進
 30.脂質代謝の遺伝子異常と多型 佐野秀人・北 徹
 31.肥満関連遺伝子 堀田紀久子・松澤佑次
 ○高血圧・心疾患
 32.高血圧感受性遺伝子を探して―高血圧の遺伝子診断をめざした研究 安部道子・他
 33.動脈硬化の遺伝子診断―21世紀の動脈硬化診療の展望 長野 豊
 34.先天性心疾患の遺伝子異常 長谷川 洋・小室一成
 35.不整脈の遺伝子診断 古川哲史
 36.特発性心筋症の遺伝子診断 木村彰方
 ○神経性ならびに特殊疾患
 37.家族性Parkinson病の原因遺伝子とその診断 浅川修一・清水信義
 38.Phacomatosis-とくに結節性硬化症TSC1,TSC2の遺伝子診断 樋野興夫・百瀬修二
 39.先天性筋ジストロフィー―とくに福山型の遺伝子診断 戸田達史
 40.内分泌関連疾患における遺伝子研究の現状と展望 鈴木 貴・笹野公伸
 41.位置的候補遺伝子探索によるCamurati-Engelmann病原因遺伝子の同定 木下 晃・他
 ○固形癌
 42.神経芽腫の予後予測と遺伝子診断―現在と近未来 中川原 章・大平美紀
 43.乳癌の遺伝子診断―予後および治療感受性の予測 平野 明・江見 充
 44.膵癌の遺伝子診断 堀井 明
 45.胃癌の遺伝子診断―広島市医師会臨床検査センターにおける分子病理診断の実践 横崎 宏・安井 弥
 46.肺癌の遺伝子診断 高橋 隆・光冨徹哉
 47.大腸癌の遺伝子診断 宮木美知子
 ○白血病・リンパ腫
 48.白血病の遺伝子診断 平井久丸
 49.悪性リンパ腫の遺伝子診断 三谷祥子・森 茂郎
 ○遺伝子と関連疾患
 50.APC遺伝子と関連疾患―APC yeast color assay法を中心に 古内恵司・守内哲也
 51.Ret遺伝子と関連疾患 黒川 景・高橋雅英
 52.家族性乳癌・卵巣癌原因遺伝子BRCA1,BRCA2 矢野憲一・三木義男

【サイドメモ】
細菌のゲノム配列決定の難しさ
遺伝子診断の倫理ガイドライン
MutationViewにおけるマウスクリックの詳細
3重鎖構造をとるDNA配列/TALPAT法
癌の分子疫学
ヒト遺伝子は3万〜4万個
融合遺伝子
メチル化異常の遺伝子治療
CpGアイランド/“エピジェネティクス”の2つの意味
ミレニアムプロジェクトとしての癌研究
臨床遺伝専門医
クラリスロマイシン耐性機構
HTLV-1抗体陽性献血者への通知
ディファレンシャルディスプレイ(DD)法
NODマウス
アポEの対立遺伝子の解析(PCR-RFLP)
LDLの酸化変性
遺伝子異常と浸透率
イオンチャネルのαサブユニット・βサブユニット
サルコメア収縮制御機構
ヒトゲノムシーケンス
競争的環境における個性の輝きとは
福山型先天性筋ジストロフィーの歴史
ステロイド合成に関与する転写制御因子―Ad4BPと抗COUP-TF
アレイCGH(CGHマイクロアレイ)
マイクロサテライト不安定性とDNAミスマッチ修復系
免疫グロブリン遺伝子の再構成
チロシンキナーゼ(チロシン残基特異的蛋白質リン酸化酵素)
遺伝子相同組み換え(homologous recombination)
多発性内分泌腫瘍症の歴史散歩
遺伝性腫瘍におけるfounder効果