やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はしがき
 本書のテーマである「研究倫理コンサルテーション」とは,相談を受けた医学系領域での人を対象とする個別の研究(計画)に関して,その内容を主に倫理面から(また時に科学面や規制面についても)検討し,疑問や問題点があれば修正の方向性や解決法について助言をし,また,必要に応じて代替案や新たな方法等について提案・推奨を行い,倫理的によりよい研究となるよう支援する活動(サービス)のことを言います.米国では世界に先駆けること1970年代後半に国立衛生研究所(NIH)においてこのサービスの提供が始められていますが,日本で本格的に活動が始まったのはここ最近10年ほどのことです.
 研究倫理コンサルテーションでは,人を対象とする医学系研究でのさまざまな段階(立案,実施,終了後・成果公表)での倫理的な疑問・問題点に関する相談を扱い,いわゆる「科学者の不正行為」や「利益相反」に関する問題なども一部含まれます.そうした相談案件の中でも,おそらく最も多いものは,各機関での研究倫理コンサルテーションの位置付けによる違いはありますが,研究倫理審査の手続きや医学系研究に関わる各種規制(倫理指針,法令など)への対応に関する問い合わせ,あるいはそれらへの適合性についての確認依頼であるでしょう.しかし,研究倫理コンサルテーションがその本領を発揮するのは,そうした手続きや規制適合性の問題を超えたところ,あるいはそのもっと手前にある,より本質的な研究倫理上の課題,すなわち,「この研究が,科学的・社会的に妥当で有用な価値を保ちながら,その中で第一義的には研究のための手段として使われる被験者(研究対象者)を,どのように保護していくことが倫理的に適切であるのか,そのための方法はどうあるべきか,あるいはまた,研究を支える社会から寄せられた信頼に研究(者)はどのように応えるべきか」という問いに対して,具体的な解決策や研究方法の代替案などが求められる場面です.こうした問いに対しては,研究倫理が「学」としてこれまで成長してくる中で見出され,様々な議論の積み重ねの中で発展を遂げてきた諸原理・原則にまで立ち返ったうえでの問題分析と解決策の検討が必要となりますが,それを出来るだけの能力・スキルを備えた者が,本書の目指している「研究倫理コンサルタント」です.
 本書に収めた研究倫理のCasesは,こうした役割を担う研究倫理コンサルタントに寄せられた実際の相談内容(相談事例)を基に作成されており,医学系研究に携わる方々の多くが,いつかどこかで遭遇・直面する/したような研究倫理上の問題を含む,教育的に有用と考えられる相談事例を取り上げています.本書で取り上げた20の相談事例によって,いずれの機関においてもよく問題となる研究倫理上の論点の約8割(※あくまで個人の経験に基づく体感上の数字です)が,体系的にカバーされていると思います.
 本書の目的は,読者ご自身の力で,相談者の話からだけではなく,これら各相談の中に登場する研究計画や研究に関わる事項にどのような倫理的課題が潜んでいるかを自ら発見し,それらの課題について何が問題であるかについて自ら「考え」,分析を行い,倫理的にある程度妥当と言えるような行動の選択肢や解決のための最善又は次善・次々善等の策を考え出し,相談者である研究者等に対して,倫理的観点からどう行動すべきであるかについて助言を与えることができる能力を培っていくことにあります.そのため,本書の内容は,研究倫理コンサルタントを目指す方々にはもちろんのこと,研究倫理審査の任にあたっておられる倫理審査委員会委員や事務局スタッフの方々,あるいは,実際に医学系研究を立案・実施されている研究者や医学系研究者を将来目指している学生の方々にも,十二分に役立つものであるでしょう.
 なお,本書には多くの限界もあります.特に,予定されていたこととはいえ,本書の編集作業中には,医学系研究での試料・情報の取扱いとそれに関連する同意手続等に大きな影響を与える個人情報保護法の令和2年・令和3年改正と施行,ならびに,同令和3年改正法に基づく「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」の令和4年改正と施行が行われました.が,そのために,いくつかの事例については大幅な修正や書き直しが必要となった他,修正が特に困難なものについては,今回の改正前後で,指針に定められた取扱いや手続にどういった違いが生じるかについて学んでもらえる事例となるように,構成を含めてできるだけの改変を加えるなどの対応を施しました.それでも,対応が未だ不十分であったり,あるいはまた,それ以外にも様々にある規制・法令や倫理的原理や考え方についてのわれわれの理解が不足していたり正しくない点があるかもしれません.読者の方々が,もしもそうした点にお気づきになられた際には,ぜひ率直なご指摘・ご批判やご指導をいただきたいと思っています.そうしたご批判等がなされることも含めまして,本書の公刊をきっかけとし,人を対象とする医学系研究に関与されている方々が,研究の倫理的な在り方・進め方について見つめ直し,倫理的によりよい研究が促進されることの一助になれば,本書を企画・執筆した者としてこれ以上の喜びはありません.
 2022年8月
 執筆者一同を代表して
 松井健志

 ※本書は,日本医療研究開発機構(AMED)・研究公正高度化モデル開発支援事業「研究倫理教育に関するモデル教材・プログラムの開発」(第I期)(研究開発代表者:松井健志),及び,同事業「医療分野における研究倫理教育教材の総合的活用プログラムの開発」(第II期)(研究開発代表者:松井健志)における活動成果の一部です.
序章 相談事例(Cases)に進む前に
 Preface 00 研究倫理コンサルテーションの基礎(松井)
1章 既存試料・情報を用いた研究・バイオバンク
 Case 01 小児の疾患バイオバンクへの協力(松井,戸田)
 Case 02 バイオバンクでの「同意」(川ア,松井)
 Case 03 「オプト・アウト」における情報公開(山本)
 Case 04 病理解剖で得られた検体の研究利用(松井)
 Case 05 他機関への異動に伴う試料等の移転(川ア,松井,遠矢)
 Case 06 オンライン商業誌への症例データの投稿(柳橋,松井)
 Case 07 海外研究者へのデータ提供(渡邉,松井)
2章 疫学・公衆衛生研究
 Case 08 地域コホート研究の立案(井上,山本,伊吹,松井)
 Case 09 出生コホート研究の立ち上げ(高井,松井)
 Case 10 産業医による研究(土井,松井)
 Case 11 学校をフィールドとする研究(松井)
 Case 12 パンデミック下の感染症研究(山本,高島,松井)
3章 臨床試験・企業が関与する研究
 Case 13 歯科臨床試験(中馬,楊河)
 Case 14 既承認薬同士の比較?(楊河,武智,松井)
 Case 15 企業とのサプリメント臨床試験の立案(松井,高野)
 Case 16 企業との画像解析ソフトウェア共同研究(清水,松井)
4章 研究公正関連・その他
 Case 17 オーサーシップ問題(伊吹,松井)
 Case 18 病理診断症例の報告(松井,冨岡)
 Case 19 「倫理審査不要」?(松井)
 Case 20 看護研究(土井,松井)

 附録1 研究倫理コンサルタントに求められるコア・コンピテンシー・リスト(松井)
 附録2 相談内容聞き取り時のチェック項目シート(見本)(ver.2.0)(松井)
 附録3 ルーブリックの作り方と使い方(解説)(片山,中田)

 あとがき
 索引

 BOX & コラム一覧
  Case 01
   BOX 1 『小児を対象とした臨床研究において求められる倫理原則』(高井)
   Column 1 バイオバンクと試料・情報の研究利用
   Column 2 ゲノム医療・研究での「偶発的所見」への対処をめぐる議論
  Case 02
   Column 1 周産期の試料・情報の研究利用
  Case 03
   BOX 1 亡くなった患者の生体試料を用いた研究(高島)
   BOX 2 IC手続の簡略化(山本)
   Column 1 研究対象者等が「容易に知り得る状態」とは?
  Case 04
   BOX 1 「社会的に重要性の高い」をめぐる倫理指針上の議論(松井)
   Column 1 検体試料の遺族返還問題
  Case 05
   BOX 1 MTA/DTA拡大の背景(松井)
   Column 1 「匿名化」をめぐる混乱とその後
  Case 06
   Column 1 症例報告における「査読」の意義
   Column 2 捕食ジャーナル(predatory journals)
  Case 07
   BOX 1 データ・シェアリング(渡邉)
   Column 1 臨床研究の情報漏洩事件
  Case 08
   BOX 1 高齢者への情報提供・意思表明の支援(井上)
   BOX 2 研究参加者への謝礼(井上)
   Column1 ダイナミック・コンセント(dynamic consent)
  Case 09
   Column 1 リスク・ベネフィットバランスと青天井問題
   Column 2 最小限のリスク(minimal risk)とは?
  Case 10
   BOX 1 オーサーシップ不正か,倫理指針違反か?(松井)
   Column 1 責務相反(Conflict of Obligation/Responsibility/Commitment)
  Case 11
   BOX 1 研究倫理審査委員会(REC)の裁量(松井)
   Column 1 学校における子ども(生徒)と「弱者性」
  Case 12
   BOX 1 パンデミック下での人チャレンジ試験(松井)
   Column 1 緊急事態下での研究倫理審査・運営
  Case 13
   BOX 1 ランダム化によるバイアスの制御(中馬)
   Column 1 臨床的均衡とプラセボ論争
   Column 2 「介入(intervention)」とは?
  Case 14
   BOX 1 “標準治療”同士のRCTをめぐる論争(松井)
   BOX 2 「社会的価値」の考慮(楊河)
   Column 1 倫理指針上の「リスク」と「侵襲」の位置づけ
  Case 15
   BOX 1 トリプトファン事件(松井)
   BOX 2 臨床研究法(松井)
  Case 16
   Column 1 「前向き」・「後ろ向き」研究と「既存試料・情報」を用いる研究の相違
   Column 2 “学術研究”であるための要件
   Column 3 R4 指針改正前と後における学術例外と「特段の理由」例外の関係の変化
  Case 17
   BOX 1 大学院アカハラ訴訟事件(2019年)(松井)
   BOX 2 CrediT(Contributor Roles Taxonomy)(松井)
   Column 1 ディオバン事件とオーサーシップ
  Case 18
   BOX 1 カルテ不正閲覧事件(戸田)
   Column 1 精神保健指定医ケースレポート不正事件
  Case 19
   Column 1 倫理審査に関する虚偽記載
  Case 20
   Column 1 看護領域での倫理審査体制の整備