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序章 歯と人類学研究上の利点

 歯の特異性
 人類を含む動物の進化の研究で,歯はきわめて重要な情報を提供してくれます.その情報とは単に歯の形態の進化ばかりでなく,食性や年齢,時には社会組織,さらには文化の一側面についての生態学的情報も含まれます.以下,歯と人類学との関わり合いについて一般的な背景を述べることにしましょう.
 解剖学では,歯は硬組織の一部として骨とともに他の軟組織とは区別されています.しかし歯はまた骨とも異なる多くの特徴を持っています.機能の面からみると,骨が支持器官であるのに対して歯は消化器官の一部です.発生学的には骨も象牙質も中胚葉性ですが,エナメル質は外胚葉性で,その起源をさかのぼるとサメの皮膚にたどりつくといわれています.俗にサメ肌といわれるザラザラした感触は,サメの皮膚に小さなエナメル質のかたまりが付着しているためです.
 また一度生えた歯は再生しないことも大きな特徴といえるでしょう.さらに遺伝学的には,他の多くの器官に比べて遺伝子支配が強く,環境の影響を受けにくいという特徴があります.
 このような歯の特徴をうまく利用すると,骨その他の器官とはかなり異なる情報が得られます.人類学で歯の研究が重要視されるのは,その形態形成や進化の過程が特異であるからにほかなりません.
 歯と化石
 歯,とくにエナメル質は人体の中でもっとも硬い組織で,モースの硬度計で6〜7度といわれます.これは水晶に匹敵するくらいの硬さということになります.
 歯がこのように硬いのは,いうまでもなく多量の無機質を含むからにほかなりません.歯や骨に含まれる無機質は主として燐酸石灰で,骨では平均して約65%の無機塩類を含んでいます.これに対して象牙質では約72%,エナメル質では95%にも達しています.
 このために動物の遺体が長い間土中に埋められた場合,歯は化石としてもっとも残りやすく,古生物学では重要な研究資料となっているのです.実際,歯が唯一の研究資料となっている例は無数にあります.とくに数百万年前,数千万年前というきわめて古い時代の化石は,歯だけで知られているという例がむしろふつうです.古い化石の多くに,歯の特徴を表す学名がつけられているのも当然といえるでしょう.
 人類でもジャワ原人や北京原人は,まず1本の歯の発見がきっかけとなり,その後に骨の化石が発見されました.さらに古い霊長類になりますと数本の歯,または歯と下顎骨の破片だけで知られている例が多いのです.しかしそのような場合でも,化石の系統をかなりはっきりと追うことができます.歯の有用性とでもいうべきでしょう.
 歯と動物の系統
 上述のように,歯は動物の系統をよく表します.哺乳類の原始的な歯の形態はコープ(E.D.Cope),オズボーン(H.F.Osborn),グレゴリー(W.K.Gregory)の先駆的研究によって明らかにされたように3結節性でした.つまり,歯冠に3個の結節(咬頭)が三角形に並ぶという,まことに簡単な構造だったのです.
 このような形からさまざまな方向に進化して今日の哺乳類の歯ができあがりました.ですから歯の形の違いを調べたり,化石を使って進化の過程をたどることによって,それぞれの動物の系統を追うことができます.しかも,前述のように歯は環境の影響を受けにくいため,骨の化石よりはるかに有効な指標となるのです.

 歯の形態の遺伝
 歯の形態が強い遺伝子支配を受けているということは,たとえば双生児の歯を比べてみればよく分かります.
 このことはあとで詳しく述べますが,遺伝子を共有する一卵性双生児の歯は実によく似ており,二卵生双生児や普通の兄弟姉妹とはっきり区別することができます.これはいうまでもなく,歯の形が強い遺伝子支配を受けている証拠です.
 遺伝子支配が強いということは,逆にいえば環境の影響による変化が少ないことになります.この特徴は動物の系統間の類縁性ばかりでなく,さらに微視的に,人種間の近遠関係や分岐状態を分析する際にきわめて有利となります.
 前に述べたように,歯だけで動物の進化を論ずることができるのも,このような歯の特性があるからにほかなりません.
 乳歯と永久歯
 歯の特徴として見逃せないことは,乳歯と永久歯とが交代するという点です.これはいうまでもなく顎骨の成長に伴う現象ですが,形態学的にも発生学的にもきわめて興味深いことで,また私どもにとって有難い特徴といえます.
 形態学的に,乳歯とその代生歯とはよく似た形をしていますが,決して同じではありません.大きさが違うことはもちろんですが,細かい特徴を比較すると,両者の間には大きく異なる点があります.また一方では,乳歯と永久歯は遺伝的に密接な関連をもつとみられる点もあり,これらの特徴をうまく組み合わせて分析することによって歯の進化,集団の系統関係,個人識別などに役立つ情報を引き出すことができます.  まず乳歯と永久歯とが異なる点に注目してみましょう.歯を見慣れた者にとって,乳歯と永久歯は容易に区別することことができます.問題は,両者の間の違いが何を意味しているかということです.
 歯の進化の過程を背景として考えますと,ひとくちにいって乳歯は原始的であり,永久歯は相対的に進歩的形態を持っていることが分かります.この点はとくに集団の進化や類縁性の研究にとって都合のよいことです.たとえば永久歯の特徴がかなり大きく異なる集団でも,乳歯の類似性が強ければ同一系統の集団と考えてよいことになります.また系統の近遠関係では,永久歯が互いに似ている集団は,乳歯だけが似ている集団よりも近い関係にあるとみなせます.なぜなら,乳歯よりも永久歯の方が早く変わりやすいからです.
 逆に乳歯と永久が互いに似ている点を利用して,たとえば親の永久歯と子供の乳歯から親子鑑定を行うことも可能です.
 このように,乳歯と永久歯の交代という,他の器官にはみられない特徴を積極的に利用することによって,骨などからは分かりにくい現象を分析することができるのです.

 萌出順序の変化
 歯の萌出順序は進化とともに変わります.現生の霊長類でみますと,もっとも下等なキネズミではまず第一・第二・第三大臼歯が萌出し,ついで切歯,小臼歯,犬歯の順に生えます.高等になるに従って第二・第三大臼歯の萌出時期が相対的に遅れ,逆に切歯や犬歯の方が早く生えるようになりますが,人類ではとくに,遠い昔の猿人の時代から第三大臼歯(智歯)が最後に生えるのが特徴です.この特徴は,人類にもっとも近いといわれる現生類人猿にもみられません.そこでサルの“智歯”は第三大臼歯ではなくて犬歯であるとさえいえるでしょう.
 面白いことに,人類の進化の過程でも萌出順序の変化が起こっており,これは現在も進行中の変化と考えられます.この問題についてもあとで詳しく述べる予定です.
 このような萌出順序の変化がどういう原因で起こるかということは,まだ必ずしもよく分かっていません.しかし少なくとも,歯や顎骨の進化と関係があるといえそうです.したがって萌出順序の変化から,種々の系統の進化を追うことも可能です.
 以上のように,歯には他の器官とは異なる独特の特徴があり,化石はもちろんのこと,現代人の研究にとっても貴重な情報源となります.ですから骨,生体,遺伝子などの研究と組み合わせることによって,相補的に研究の信頼性や分析能力を高めることができます.
 以下,人類学の研究でこれらの特徴がどのように利用されているかという観点から,種々の研究をご紹介したいと思います.
序章 歯と人類学研究上の利点……1
   歯の特異性……1
   歯と化石……2
   歯と動物の系統……2
   歯の形態の遺伝……3
   乳歯と永久歯……3
   萌出順序の変化……4
第1部 哺乳類の歯の進化……7
   爬虫類の歯と哺乳類の歯……7
   哺乳類の歯の進化……9
   霊長類の進化……25
   最古の霊長類パーガトリウス……25
   狭鼻下目の出現……32
   ヒト上科の出現……36
   ヒト上科の進化……42
   鮮新世……67
   原人……79
   旧人……83
   新人……94
第2部 歯の人類学……109
   エリザベス・サンダース・ホーム……109
   一般化した乳歯の形態……114
   白人・黒人のデータをとる……118
   生物統計学研究の基礎として……121
   連続量と非連続量……121
   距離係数と類似度係数……122
   サイズとシェイプ……123
   非連続量の距離係数……126
   次元の減少……129
   クラスター分析……132
   混血児の歯……136
   歯冠計測値……136
   歯冠形質の出現 度……139
   人種系統の研究……145
   歯による性別の推定……150
   繩文人の血縁関係……155
   性別の推定……157
   双生児の問題……158
   血縁関係について……162

あとがき……167
索引……169