やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社



 開業歯科医院を中心とした地域の歯科医療機関に,より多くの障害者が受け入れられるようになって,十余年を経ようとしている.しかし,一部の障害者たちはそれよりずっと以前から彼らの生活圏の歯科医院を訪れ,できる限りの歯科治療を受けていた.したがって正確には,多くの開業歯科医院が障害者の歯科医療に積極的対応を始めたのが,ここ10年余りといえるのかもしれない.
 医療は元来,プライマリーケアがきわめて大切であり,特に疾患の予防,初期治療,そして健康管理は,地域医療の担う大きな役目である.ところが歯科医療の場合は,地域の開業歯科医院でほとんどの歯科疾患が処置されるため,いつのまにかこのプライマリーケアの大切さが忘れられているきらいがある.
 一方,障害者への福祉は,わが国独自の形態で着実な発展をしてきた.中央行政と地方行政,そして民間の3つが,互いにその分担と責任を明確にして,障害者の人権を守って療育を行っている.これらのシステムやプログラムはまだ完成されたものではなくても,先進の福祉国家とは異なった展開と思える.障害者への医療も福祉と並行して同じ形で発展した.つまり“民間”の役割が大きいということは,地域の歯科医療のプライマリーケアとしての役割が大きいということである.
 しかしながら今日,地域の歯科医院で行われている障害者歯科は,地域医療のなかに完全に根づいたとはいいがたい.まだ多くの歯科医師たちは障害者歯科に対する認識が低く,それ以前に障害者への理解に乏しいこともある.障害者歯科の実践はそのまま障害者を理解することであり,歯科医師としては,最良の歯科医療を彼らに提供する義務と責任がある.このようななかで,地域の開業歯科医師が中心となって組織をなしている地方の歯科医師会が,会の事業として障害者の歯科医療に取り組みだした.すでに長い歴史をもつ歯科医師会から,これから取り組もうとする歯科医師会まであるが,いずれも開業歯科医師が地域の患者を対象として診療することから,これも地域の障害者歯科医療と考えられる.
 著者は,障害者歯科を専門として歯科医院を開業して10年を超えたが,障害者歯科にいつも大上段に構えて臨んでいるわけではない.むしろ無駄な力を抜いた,いわば“自然体“で臨んでこそ,患者である障害者たちとのふれあいが楽しくなり,歯科医師としての仕事も充実するようだ.これから地域で受け入れられる障害者への歯科医療は,この“自然体”のなかで,無理のない受け入れと,質の高い内容が要求される.今日の障害者歯科は,治療の質よりも障害者を受け入れることに意義があるといった時代ではなくなった.障害の種類と程度を考慮して,どれだけ的確な処置や指導ができるかが問題とされている.
 地域の開業歯科医院で障害者の歯科治療を実際にやってみれば,まったく手がだせないほど困難なものではない.障害の程度が軽く,言語によるコミュニケーションが可能な障害者の患者であれば,開業歯科医院の通常の診療で十分に対応できる.そして,障害者の歯科医療では,単に充填や抜歯,欠損の補綴で治療を終了するのではなく,口腔衛生の自立に向けてトレーニングしたり,自立できない部分の介助が必要となる.すなわちブラッシングの訓練と口腔衛生の管理である.これらは現在の健康保険制度で十分にカバーしきれない部分であるにもかかわらず,この予防的医療がもっとも大切であることが,臨床での矛盾となって苦悩するところである.障害者へのプライマリーケアのなかで,この口腔衛生管理と予防処置は,今後,地域行政とタイアップしたプログラムで解決しなければならないだろう.しかし限られた事情のなかであっても,歯科医療本来の目的を遂行できる喜びは,歯科医師にとってかけがえのないものである.
 本書は,障害者歯科学の教科書とは考えていない.地域医療のなかで,障害者の患者を迎えるときの敷石的なものとして,おもに臨床的情報を選択して記した.したがって学問的追究からすると,不十分かつ情報不足のところが多い.舌たらずの部分については,より多くの著書や文献を積極的に手にし,障害者の歯科学について求めていただきたい.そのような意味から,第V章では,地域の開業歯科医院での臨床経験者として,3名の先生にご執筆いただいた.いずれも経験豊かであるが,けっして障害者歯科の専門家ではない.毎日の診療のなかで“自然体“で障害者を診療している歯科医師である.3名の先生方には障害者を診療する臨床上の技術的な問題だけでなく,患者を迎え入れる“心”についても述べていただいた.丸谷先生には小児歯科での脳性麻痺患者について,澤熊先生には地方の小都市で精神薄弱患者の治療と,その施設の管理経験を述べていただき,星谷先生には歯科医師会の口腔保健センターのスタッフの立場から,同センターでの自閉症患者の取り扱いと治療について述べていただいた.これらは他の章といささかニュアンスを異にしたが,ありのままを伝える事例としてまとめた.また新崎先生には,第III章で内科的疾患をもった患者を安全に治療するために,患者の全身状態の見方を歯科麻酔学を専門とした経験のなかから書いていただいた.
 わが国の歯科医療が新しい局面を迎えようとしている今日,地域の開業歯科医院がごく普通に障害者を患者として迎え,プライマリーケアを中心に歯科医療を行うために,本書が役に立てば著者として本望である.浅学にして意を尽せなかったことが悔やまれるが,これまでの貴重な臨床経験を少しでも読者に伝えることができれば,幸いである.
 最後に,本書を,生きることの大切さと人間の心の大切さを教えてくれた,障害をもったすべての患者さんに感謝とともに捧げる.
 1990年2月24日 緒方克也

推薦の辞

 障害者のための歯科保健医療対策は多様な場面で展開される必要がある.また,この領域の対象者もまた多岐にわたっている.
 障害者歯科発祥の初期にはきわめて限定された対象に対して,しかも限定された診療内容ないし治療中心の対策が主流であった.そこでは行動管理が主たる課題であり,病院歯科的な場において解決策を見いだしていた.やがて次の時代には,施設のように障害をもつ人たちの集団生活の場に歯科保健医療対策が入っていき,新たな展開をみせていった.しかし,これとて対象は限定されていたことになる.しかし,この経験はその後の展開に多くの示唆を与えてくれた.今日の障害者歯科は,治療中心から予防管理へ,さらに障害者のもつ機能不全への歯科的な対応にまで拡大され,また他方で,福祉でいわれる障害から,歯科保健医療策を受けいれるうえでの各種の障害―特殊な条件を有する対象群―全体にまで拡大されてきている.こうした流れのなかで,障害者への歯科保健医療対策の重要な柱のひとつは,生活圏に密着した地域内における対応にある.
 ことにNormalization時代といわれる今日では,その必要性は大きい.他方,この多様化した障害者歯科でも,その対象者の本質には出発の当初からゆるぎないひとつの概念がある.すなわち,日常生活に支障を有する障害者という福祉の概念で規定される存在であるが,今日的な表現に変えるなら,そうした状態をもたらしているなんらかの能力の不全を有する対象群である.
 本書では,標題が示すように地域医療との関連に位置づけた展開を試みている.著者らは,その地域内での体験を基盤にして本書を記述している.実地医家として,地域において障害者の歯科保健医療に関わる者にとっては共感を感じうる内容であろう.また,本書の冒頭には障害者歯科保健医療策の内容の主だったものが提示されていて,その後で障害の概念の解説が追っている.学術書でとられるような,まず概念説明があって,後で各論的に内容が登場してくるのとは逆の展開であるが,このほうが理解しやすいであろう.
 さらに,障害の定義を提示しておいて,これが病人ではない点を強調している.この認識は重要である.従来の歯科の分科では,ほとんどの場合に病気を対象にしてきた.この違いの認識が障害者歯科の本質を知り,多様な展開を理解する鍵である.予防の重要性を指摘することは容易であるが,その実践に困難さをもつところに障害者の特性がある.そして著者は,その困難さを克服したときの喜びを指摘することを忘れていない.障害の背景にある医学的病名からの説明を試みているが,これはすべてではない.しかし,そこでは障害の背景にある生活行動とともに医学的原因・症状の理解が大切なことを汲み取ってほしいという著者らの意図が込められているように思う.
 このように述べてきたことを,もういちど冒頭の障害者歯科の変遷に重ねて考えてほしい.本書の標題は,その内容から適切なものであることが理解できよう.そして編著者自身が,実はその流れを実践しながら今日にいたって本書を執筆している点をも付記しておきたい.
 日本大学松戸歯学部障害者歯科学教室 教授 上原 進
第I章 障害者歯科を知るために
 1.障害者歯科へのイントロダクション
 2.どんな障害があるか
  1.“障害者”という呼び方
  2.障害の種類と程度
 3.歯科疾患と障害の関係
 4.これまでの障害者歯科
 5.これからの障害者歯科と地域医療
 6.障害者歯科のむずかしさとよろこび
 7.障害者と歯科医療機関
 8.障害者歯科と学習訓練
第II章 障害者の医学的情報と歯科所見
 1.精神薄弱
  1.精神薄弱とは
  2.精神薄弱の歯科所見
 2.先天異常
  1.先天異常とは
  2.先天異常の歯科所見
 3.脳性麻痺
  1.脳性麻痺とは
  2.脳性麻痺の歯科所見
 4.筋ジストロフィ症
  1.筋ジストロフィ症とは
  2.筋ジストロフィ症の歯科所見
 5.自閉症
  1.自閉症とは
  2.自閉症の歯科所見
 6.慢性関節炎,リウマチ性関節炎
  1.慢性関節炎,リウマチ性関節炎とは
  2.慢性関節炎,リウマチ性関節炎の歯科所見
 7.脳血管障害
  1.脳血管障害とは
  2.脳血管障害の歯科所見
第III章 初めて取り組む障害者の歯科治療
 1.孤軍奮闘ではできない障害者の歯科治療
 2.障害者を診るための準備
  1.障害者歯科治療に必要な器具・器材
 3.障害者の歯科診査
  1.顎・顔面・口腔の診査
  2.顎・口腔機能の診査
  3.口腔衛生状態の診査と評価
 4.問診の進め方
  1.住所と通院方法,生活環境
  2.誰と来院するか
  3.発育状態の評価
  4.出生歴
  5.発育,発達の経過
  6.障害の発生と診断
  7.障害の現症
 8.歯科治療の既往歴
 5.取り扱い上手なデンタルスタッフ
  1.障害者の行動管理
  2.痙攣発作の管理
  3.行動抑制と強制的治療
  4.薬物による行動管理
 6.どこまで手を出す内科的疾患患者の歯科治療(新崎裕一)
  1.高血圧症患者の全身状態評価
  2.狭心症,心筋梗塞患者と歯科治療
  3.糖尿病患者の取り扱い
  4.人工透析患者と歯科治療
第IV章 歯科医院で診る障害者の歯科医療
 1.地域医療を軽くみないで
 2.案ずるより近づいて開ける障害者の歯科治療
  1.歯科医師が障害者歯科治療を嫌う理由
  2.治療中に全身状態が急変する可能性のある障害児・者
 3.特別ではない障害者の歯科治療
  1.充填と修復
  2.欠損の補綴
  3.障害者歯科と歯周疾患
  4.障害者歯科における抜歯の適応
 4.障害者と口腔機能訓練
  1.言語訓練
  2.食べる機能の訓練
 5.歯科医院で行う障害者の口腔衛生管理
  1.地域医療と障害者の歯科管理
  2.脳性麻痺患者の口腔衛生管理
  3.精神薄弱患者の口腔衛生管理
  4.自閉症患者の口腔衛生管理
 6.地域医療と施設のつながり
  1.生活環境と口腔衛生
  2.養護学校と地域医療の結びつき
 7.寝たきり老人の地域歯科医療
  1.寝たきり老人と歯科医療
  2.寝たきり老人の発生
  3.老人の心理的特徴
  4.寝たきり老人との接し方
  5.老人性口腔乾燥症
  6.寝たきり老人の在宅診療
第V章 障害者歯科の実際―地域医療からのレポート
 1.小児歯科医院での取り組み(丸谷雅晴)
 2.地域医療で診た精神薄弱の患者たち(澤熊正明)
 3.自閉症患者へのアプローチ―歯科医師会の取り組みから―(星谷昭三)
 4.ゆっくりペースの筋ジストロフィ症患者
  1.症例1
  2.症例2
 5.寝たきり老人の訪問診療から
  1.症例1
 6.どこまで手を出す重症心身障害児
  1.症例1
  2.症例2
 7.歯科医療からみた青少年の問題行動
  1.症例1
  2.症例2

 参考文献
 索引