やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序にかえて―桜井唯次先生に捧ぐ―

 桜井先生に初めてお会いしたのは,1987年も終わろうという冬のある日,広島大学補綴学第二講座同門会で“桜井式無痛デンチャーの作り方“をご講演いただきたく,広島市にお招きしたときである.依頼を受けて各医院に出向して総義歯を作る,いうなれば“総義歯の名請負人”が東京におられるということを聞いて,その臨床スタイルを知りたいと考えてのことである.
 その講演会の直後に,私は当時の和田精密歯研株式会社の研究部長である堤 嵩詞先生に,この義歯製作の話を聞いたのであるが,そのプロセスの煩雑さから,よく理解できなかったという記憶が残っている.そこで翌年,あらためて桜井先生をお招きして,総義歯で困っておられる患者さんを伴って,親しく指導を受けたのが先生とのおつき合いの始まりであった.
 桜井先生は,総義歯を勉強せざるをえなくなった経緯を次のように述べておられる.
 「戦争中,上海鉄道病院歯科へ勤務していたが,昭和29年に帰国し,恩師の紹介で当時無歯科医村であった南伊豆で開業しようと当地を訪ねたが,寺の和尚さんから“このあたりでは入れ歯が上手でないと通用しない.入れ歯をよく勉強してからきてください”といわれてしまった.そこで,大嫌いなというより怖くて手を出さなかった総義歯の勉強を始めることにしたのだが,そのときがすでに50歳.
 まず,生活を整えるべく日本橋三越本店歯科に勤め,毎週の休日を利用して母校(現東京歯科大学)の総義歯学・鵜養 弘教授の講義の受講,溝上喜久雄教授の臨床見学のために水道橋に通った.そんなある日,鵜飼教授から“「痛くなくて」「安定して」「よく噛める」という総義歯の機能的三要素を分割して勉強してみては”というアドバイスを受け,なるほどと思った.そこで,まず「義歯の安定」を求めて,咬合採得と咬座印象を追求することを決心した.
 50歳からの“義歯の安定”への挑戦
 当時,矢崎正方・堀江 一の両先生がご健在で,溝上先生を加えた三人の名人の臨床を見学することができた.三先生の理論とテクニックをよく観察しているうちに,名人芸の部分と職人芸の部分があることに気づいて,名人芸の部分は修得不可能としても,職人芸の部分はマスターできるのではないかと,“堀江式の咬合採得““矢崎式の咬座印象”“溝上式の咬合面形態“を学び,それを組み合わせて総義歯を作ってみた.すると案外簡単で,しかも確実に機能的総義歯を作ることができ,これが“無痛デンチャー”である“桜井式デンチャー”の産声となった.
 60歳からの“よく噛める義歯”への学び
 次に,よく噛めることを求めて,“咬合面形態と咬合調整”を学ぶことにした.“面接
 触“にかかわる十指に近い先生方のご指導を受け,しまいには自分の歯を抜いて,自分の口の中でテストを重ねてもみた.20年近い年月を経て“面接触”を捨てGerberのコンデュロフォーム人工歯に行き着くことになった.
 70歳から“無痛”を集中研修
 最後に第三の要素“痛くない“を集中研修した.総義歯の“安定して”“よく噛めて“は学問的に既成の事実だから,時間をかけてゆっくり研修すれば私にもできる.ところが“痛くない”は未開のジャンル.自分がパイオニアになっていくより仕方がない.
 それから私の苦難の道が始まった.右脳を活性化し,右脳思考でいろいろなアイデアが生まれ,さらに脳波の問題や,心理学,宗教に至るまで学習は波及して痛みの本体を探した.
 無痛デンチャーの誕生
 “痛くない”総義歯を作るには,斜面の滑走や咬合干渉,制御,束縛などの起こらない咬合面形態がよいのではないか? それは咬合面形態を患者さんの口の中で自動削合すれば可能ではないかと考え,その可能性を日本歯科大学・小林義典教授が紹介されたGerberのコンデュロフォームに求めた.さらに堤先生がチューリッヒ大学のGerber元教授,Palla教授などからこの人工歯の40年の歴史と実績を学んで,技工面で協力してくださったことが無痛デンチャーの誕生につながった.
 無痛デンチャーを作るには五つの条件が必要である.治療用義歯を使って,まず顎関節の顆頭のひずみを治し,印象採得と咬合採得とを正しく採り,石膏およびレジンのひずみを極力防止し,咬合干渉や制御や束縛の起こらない咬合面形態を製作する.この五つの条件が成立不可能な場合は,残念ながら無咬頭歯によって“桜井式やさしい総義歯”とせざるをえない.
 要するに,従来の総義歯の作り方の概念,理論,技術などにしばられていては無痛デンチャーはできない.まずそれらを捨てて意識改革,発想の転換をして,さらに総義歯に対するこれまでのフィロソフィー,セオリー,ルーツなどの既成概念を捨てないかぎり,無痛デンチャーには行き着けない」
 桜井の提唱する“無痛デンチャーを作るための五つの条件”
 (1) 従来の静的印象による吸着義歯をやめ,動的印象による接着義歯をつくる.
 (2)従来の「一発製作」(印象採得・咬合採得・試適・装着の手順)をやめ,まずスプリント的な仮 義歯を使って,その患者の顆頭のひずみを直し(直らないときは無咬頭歯を使用),患者の咀 嚼運動によって生ずる現時点における習慣性閉口路の終末位を中心位として顎位を設定する.
 (3)石膏模型のひずみを防止するために,従来の手法をやめ,ボクシングと真空練和による石 膏模型の調整(元日本大学松戸歯学部・加藤吉昭教授の手法による)を行う.
 (4)レジン重合のひずみを極力少なくするため,従来の低温重合をやめ,ケイシーデンタル法(イボカップ法)の強圧によるレジン重合法に切り換える.
 (5)コンデュロフォーム(人工歯)を使ってGerber式の人工歯排列と削合によるレデュースドオクルージョンの調整を行う.
 * 以上の操作によって約70%は痛くなく安定してよく噛める総義歯ができる.残りの30%はフラットな無咬頭歯によって「桜井式やさしい総義歯」を作る.
 2002年現在,先生は93歳.数年前まではお元気で,依頼を受けて診察をされていたが,このところ体調を崩され,自宅にこもりがちである.けれども,総義歯の話となると,時間の経つのも忘れて話し込まれる.
 桜井先生から,無痛デンチャーの本をまとめてほしいといわれたのは,1995年ごろのことであった.一度,長野での講演のテープとスライドからまとめを試みてはみたが,納得のできるものとはならなかった.
 私にペリオの臨床をよりよく理解させてくれた本に,ラタイチャーク著(原 耕二監訳)『歯周病学カラーアトラス』(西村書店)がある.このようにわかりやすい本を目ざして,一人の患者さんの初診から義歯の装着,メインテナンスまでのプロセスを,技工操作を含めて詳細に記録し,そのときどきの問題点を掘り下げるスタイルを取ることにした.
 まずは,臨床の術式を写真で理解していただき,チェアサイド,ラボサイドと分け,ユニットで,そしてラボの机の上に置いて見てもらえることを心がけた.
 患者さんにとって,抜歯と総義歯ほど,その結果がストレートに評価できるものはない.無歯顎の患者さんに総義歯を装着するときの双方の期待と胸の高まり,上手くいったときの患者さんの喜びを見る満足感,期待を裏切ったときの失望感…….
 かつて聞いた総義歯の大家,名人といわれる先生の話には,粘膜面すべてが金属床であっても潰瘍ができない義歯,排列・試適した完成義歯を郵送する話などがでてきたが,そんなことは一介の平凡な臨床医にとって遠い遠い話であると思っていた.しかし,桜井先生の無痛デンチャーの術式を修得し,臨床の場が広がっていくにつれ,大家や名人の話もかなり身近なものに感じ始めている.
 本書の完成にあたり,“無痛デンチャー”の生みの親である桜井唯次先生,多くの貢献をされた深水皓三・堤 嵩詞先生に本書を捧げたい.そして,筆者の日常の臨床を支え,写真撮影に協力していただいたの細川敬司・横矢昌彦・片山 昇歯科医師に感謝の意を表したい.また,技工のアイデア,本書の技工の大半を担当してくれた高田善規主任歯科技工士,仕事を後方より支えてくれた丸谷 靖・山本亜寿果歯科技工士,小川元子・井川栄子歯科衛生士をはじめとするスタッフに感謝の表したい.また,ともすれば遅筆になりがちな小生を支えていただいた医歯薬出版株式会社の関係者にも謝意を表したい.
 そして,小生のわがままを聞き,家族を支えてくれた,妻,衆子に感謝したい.
 2002年 秋
 中尾 勝彦
 桜井 唯次(さくらいただじ):
 1909年茨城県生,1932年東京歯科医学専門学校(現東京歯科大学)卒.同校保存部助手を経て日本橋白木屋歯科室(後の東急デパートの歯科)に入り,戦争中は上海鉄道病院歯科に転じ,終戦後東京の日本橋三越本店歯科室に勤務.50歳から本格的に総義歯を勉強し始め,60歳で三越本店歯科室を定年退職.その後,東京都板橋区都立養育院附属病院歯科(現在都立老人医療センター)にて総義歯専門の診療を担当.65歳で同センターを定年退職後は,フリーの立場で総義歯の専門家として臨床・講演等に活躍
 住所(自宅):〒114-0056 東京都北区西が原2-40-12-402

あとがき

 2000年12月,本書の大半を脱稿して以来,これほど期待と失望を繰り返す2年間はなかった.しかし,この間にあらためて文献に目を通し,総義歯患者を診療室のみならず在宅や施設の訪問診療を通して,あらためて考える機会をもつことができた.
 いま,総義歯臨床の術式は百花斉放,考えられるほとんどの術式が出つくした観がある.
 しかし,現状をみると一発製作法(印象,咬合採得,試適,装着)しか,大学教育でも医療制度の上でも容認されていない.
 まず,歯科界が総義歯患者のもつ,社会的,個人的な条件の様相を再度整理し,その適応症と術式を整理,認識し,そして患者さんの多様な要求に応えることが必要な時代にきている.
 老人のQOLを支える,食の入口は私たち,歯科医師が握 っているのだから.
 紙幅の関係で十分,意の尽くせなかったところや,これから出てくる新しい知見,術式について,できるならば総義歯治療をサポートするホームページを近々,「中尾歯科医院」あるいは「無痛デンチャーの臨床」として立ち上げる予定である.
 序にかえて

PART1 製作を始める前に
 ■総説 高齢化の現状と義歯の問題点
  1.人口の高齢化
  2.生活の質と義歯の関係
  3.死亡・入院と義歯の関係
 ■診査と診断(1) 良好な人間関係からスタートする
  1.患者を理解する
  2.総義歯患者は単に無歯顎であるだけではない
  3.フェイススケールの活用
  4.総義歯を作る前の質問票の活用
  5.咀嚼能率判定表の活用
 ■診査と診断(2) 患者の姿勢・バランスを見る
  1.入室時の観察
  2.顎位の推定
 ■診査と診断(3) 顎・顔面の診査
  1.体の変形に伴う影響
  2.無歯顎者では顎関節の診査が必要
  3.下顎運動の診査機器
 ■診査と診断(4) 口腔の診査
  1.口腔に現れる疾患を見逃さない
  2.顎堤の観察
  3.口腔乾燥症
 ■製作の前に(1) コンサルテーション
 ■製作の前に(2) 診査の実際
  1.全人的に理解する
  2.顎・顔面の診査
  3.視診・触診
  4.使用中の義歯から学ぶ
PART2 無痛デンチャーの治療プロセス
 ■チャートでみる無痛デンチャーの治療プロセス
 ■CHAIR SIDE1 治療用義歯の概形印象
  1.必要な器材
  2.上顎の印象
  3.下顎の印象
  4.印象のチェックと修正
  column1 中心位の考え方と咬合採得時の頭位
  column2 なぜ閉口印象か-閉口印象とレトロモラーパッド
  column3 なぜアルジネート印象材を使用しないのか
  column4 義歯に必要な解剖学の知識
  column5 フラビーガムの印象はどうするか
 ■LABO SIDE1 作業模型と咬合床の製作
  1.石膏の注入/規格模型を作る意味と製作法
  2.外形線を引く
  3.咬合床を作る
  4.咬合堤の決め方・寸法・作り方
  column6 咬合床の実際
  column7 外形線のイメージシステム
 ■CHAIR SIDE2 治療用義歯のための咬合採得
  1.必要な器材
  2.上顎咬合平面の決定とリップサポートの確認
  3.垂直的顎位および下顎咬合平面の決定
  4.水平的顎位・中心位の決定とその確認
  5.人工歯の選択
 ■LABO SIDE2 治療用義歯の人工歯排列
  1.必要な器材
  2.人工歯の排列/前歯はオーバージェットはつけるが,オーバーバイトはつけない
  column8 スプリットキャスト法
  3.フラットテーブルの作り方
 ■CHAIR SIDE3 治療用義歯の試適と人工歯排列のチェック
  1.顎位と床外形の確認
  2.前歯部排列の確認
 ■LABO SIDE3 治療用義歯の製作
  1.埋没・重合
  2.リマウント
 ■CHAIR SIDE4 治療用義歯の装着
  1.治療用義歯の意義と目的
  column9 チェアサイドとラボサイドを結ぶ顔写真
  2.床の安定
  3.除 痛
  4.咬合面の診断
  5.顎機能の修正・回復
  6.インフォームドコンセント
  7.必要な器材
  8.試適・確認とティッシュコンディショナーの使用
  column10 ティッシュコンディショナーの使い方
 ■CHAIR SIDE5 治療用義歯の調整
  column11 口は食知らず,食は口知らず
  1.疼痛部の診査・除去,床の安定,顎機能のリハビリテーション
  2.咬合面の診断(フラットテーブル)・咬合床の変化
  3.粘膜面と咬合面の変化を読む
  column12 舌・筋肉モデル
 ■CHAIR SIDE6 治療用義歯での最終印象・咬合採得
  1.本義歯完成までどうするか
  2.必要な器材
  3.印象法とそのチェック
  4.咬合採得・保存
  column13 Condylator咬合器
 ■LABO SIDE4 最終義歯のワックスデンチャー・人工歯排列
  1.必要な器材
  2.模型の製作と咬合器への付着
  3.治療用義歯からワックスデンチャーへ
  4.人工歯の排列
  column14 ニュートラルゾーン
  column15 人工歯について
 ■CHAIR SIDE7 最終義歯のワックスデンチャーの試適
 ■LABO SIDE5 最終義歯の重合・咬合調整
  1.必要な器材
  2.重合とリマウント
  3.削合/どこをどう動かすか,手の位置
  4.研磨・完成・保存/ワッテでの粘膜面のチェック,水中保存
  column16 レジン重合法
 ■CHAIR SIDE8 最終義歯の装着と調整
  1.必要な器材
  2.装 着
  3.咬合調整
  4.完成した義歯の観察と分析
 ■CHAIR SIDE9 義歯のメインテナンス
  1.義歯が破損していないか
  2.義歯の取り扱いに問題はないか
  3.義歯の安定は損われていないか
  4.以前咀嚼していたものが噛めなくなった場合
  5.リベース・リライニングは安易に行わない
PART3 無痛デンチャーの臨床例
 ■CASE1 高度な顎堤吸収の症例
  1.高度な顎堤の吸収
  2.症例の概要
  3.本症例の問題点と対応
 ■CASE2 反対咬合の症例
  1.反対咬合者の総義歯
  2.症例の概要と対応
 ■CASE3 オーラルディスキネジアの症例
  1.オーラルディスキネジア
  2.症例の概要
  3.本症例の問題点と対応
 ■CASE4 筋圧維持法を利用した顎補綴の症例
  1.顎補綴の適応
  2.症例の概要
  3.本症例の問題点と対応
 ■追補 無歯顎の症型分類
MEMO
 呼水(よびみず)/水/スペーサーのデザイン/医療とは/普段(不断)の心がけ/禁煙のススメ/白い歯/閑話休題・水泳/心平らに/フラットテーブル・トライアンドエラー/いまあるものを大切に/百聞は一見に如かず/無痛デンチャーと歯科衛生士

 使用器材一覧
 引用ならびに参考文献
 自著論文
 総義歯臨床の診査・診断用付録
 総義歯を作る前の質問表(山本による)/総義歯咀嚼能率判定表(山本による)/筋触診(Krogh Poulsenによる)/快適な入れ歯のための90日/24時間機能印象のためのお願い/義歯を快適に使うために