やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

医師アスクレピアデスの前口上

 私は安土懸鈴と申す,田舎の診療所の一医師でございます.国籍は日本でございますが,妙な語り口からもおわかりのように出自は外国で,両親から貰った名前はプブリウス・アスクレピアデスと申します.皆さま方には馴染みのない妙な響きで,一瞬,眉をひそめられることと思いますが,ご推察のとおり,生まれはギリシアでございます.三十路を過ぎてから日本の医師の資格を取得し,結婚を機に帰化して,以来家内の姓を名乗っております.
 妙な名前ですか? これは帰化した際に自分で考えて付けた名前ですが,その理由は焦らずにお付き合いいただければ,自ずとおわかりいただけることと思います.
 さてその後,卒業した大都会の大学の研修と地方の総合病院で臨床経験を積み,生まれ故郷のコスという島に似た,ある離島の村の診療所で勤務して二十六年が過ぎました.本土のちょっとした町までは一日二往復の村営の定期船で約一時間,そこから県庁所在地までは汽車で一時間半ちょっとという,文字どおり僻地の島です.
 一口に二十六年と申しますが,この長い年月は,地中海の色だと両親の自慢であった私の碧眼を村人に忘れさせ,潮風と皺はコーカサス人種の白い肌の色を曖昧にし,隣人との関係を快適なものにしてくれました.縁あって結ばれた家内が日本人だということも,もちろんこの関係を豊かにしてくれるに,大きな力となったことは申すまでもありません. 島に高校はなく,大半の若者は中学を卒業した時点で本土の高校に遊学するか,あるいは就職します.若者の常として,彼らが村に帰省するのは黄金週間のような長い休みと,田植えや稲刈りなどの農繁期,それに盆暮れといったところでしょうか.
 かくいう私の三人の子供たちも村の保育所,小学校,中学校を卒業し,今はそれぞれに本土の高校に進み,村に戻ることなく都会の大学に通ったり,それなりの仕事を見つけて自分たちの生活を営んでおります.
 さて,お前の医者としての専門は何だとお尋ねになられると,はなはだ困惑してしまいます.私が赴任したときの村の総人口は約三千六百人でしたが,現在は二千五百人弱でしょうか.電話帳が三頁といらない村です.全人口のうち,六十五歳以上のお年寄りの割合が二十八パーセントを超えたような,こんな過疎の村の診療所のたった一人の医師は,何もかも自分でする以外にありません.おかげで内科も外科も整形外科も産婦人科も,耳鼻科も眼科も何とかこなせるようになりました.
 この意味からは,私の医療の先生は患者である村人だった,といっても間違いないでしょう.今の若い先生方には無茶だ,不可能だとお叱りを受けるやもしれませんが,往時は私がする以外になかったのでございます.今でこそ県の防災ヘリコプターで本土の総合病院や大学病院に患者を送ることができますが,赴任した当時は,最低一時間はかかる連絡船が本土と島を結ぶ唯一の交通機関でした.私の手に余る急患が出ても,私が付き添って本土の病院まで行けば日帰りは無理です.またその間,村は無医村になってしまいます.病人が本土の病院に入院すれば,家族の付添いや見舞いは大変な負担ともなります.亡くなりでもすれば,慣れぬ本土で棺桶を用意し,初めての一等船室へ棺と共に親族一同うち揃って哀しみの帰島ということになります.先生,何とか診療所でやってくれよとせがまれ,虫垂炎はおろか胃癌や乳癌,お産も手足の切断も,時には頭の手術までも,お恥ずかしい話ですが手術場に解剖学の教科書を持ち込んでやったものです.
 そんなわけで,医者としての専門科は何かというご質問には,大変に答えにくいのです.無理にお答えすれば,ここの診療所で何とかできることとそうでないこととを見分けることが専門,とでもいえば一番実情に合った答えとなるでしょうか.
 私の勤める村立診療所へ訪れる患者は,ほとんどが高齢者ばかりです.こんな小さな村ですが,診療所には毎日誰かがやって来ます.特にどこがどうというわけでもないお年寄りが,朝の漁のお裾分けや,嫁いだ娘からの便りと孫の写真を持ってやって来ます.畳敷きで,灰皿の代わりに大きな火鉢が置いてある待合室には,朝からこんなお年寄りの賑やかな話し声が絶えることはありません.壁には昔懐かしい着物姿の女優の描かれた古いカレンダーが貼ったままで,たまに本土からみえる,ちょっとお歳を召した方は懐かしがってくれます.
 看護婦でもある家内は,手が空けば彼らと一緒に,時には私も入ってお茶を飲みます.都会で生まれ育った家内が,どうにかこうにか村の生活を続けられたのは,彼らの知恵と助力に負うところが大半です.いつまで現在の生活が続けられるかはわかりませんが,診療所の横に小さな家も建てました.村人が私を必要としてくれる限り,ここで働き,日本の土に還りたいと願っています.
 診療所の事務をしてくれている村役場の職員はもう六代目ですが,今いる由三君は,私がこの村で初めて取り上げた子供です.港の直ぐ横にある彼の実家で,親族やら近所の人たちの疑わしいまなざしを浴びながら,家内と二人で悪戦苦闘して,逆子だった彼を取り上げた日のことを,昨日のことのように思い出します.二十六年といっても,過ぎてしまえば早いものです.
 この由三君のお爺さん「竹蔵さん」は,当時,定数十名の村会議員の一人でした.赴任当初は冷たい目で私を見ていた村人の中にあって,最初からただ一人,ストーブの薪からお米の世話まで,何くれとなく生活の面倒をみてくれた,私たち夫婦にとっては足を向けて寝られない恩人です.
 もう一つ,この竹蔵さんは医者としての私にとって,忘れられない思い出のある患者です.確か彼が七十をいくつか超えた頃のことです.当時はまだ診療所から廊下で繋がっていた医師宿舎の勝手口へ,子供たちをラジオ体操に送り出した夏の朝早く,竹蔵さんがひょっこりと現われてこう言ったのです.
 「懸鈴先生よ,おりゃあ腹がおかしんだワ.臍のわきがドックン,ドックン動きよるんだがのゥ.ほれに左の股たぼあたりが痛いというだか,痺れとるちゅうだか,なんや妙な具合なんじゃ.いっぺん見たっとくれんか.」
 台所の隣の私たち夫婦の寝室にはまだ床が敷いてありましたが,まあ,身内みたいなものだからと私の布団に横になってもらい,彼が指し示す腹を見せてもらいました.ほかに何の検査の必要もなく,触れただけで診断は確実につけられました.臍から十センチほど下の左側にテニスボールくらいの大きさの腫瘤が触れ,不気味に鼓動に合わせて震えています.腹部大動脈瘤です.このせいで左脚へゆく血液が少なくなり,痛みや痺れを感じさせているのでしょう.このまま放っておいてはいつ破裂するかわからない,まさに爆弾を抱えているようなものです.
 私は不安を現わさないように気をつけ,お茶をすすりながらゆっくりと病気と手術の必要性を説明し,ぜひとも本土の大学病院へ入院して,手術を受けるように勧めました.湯のみ茶碗を置いたまま腕組みをし,眼を閉じて聞いていた竹蔵さんは,私の説明を聞き終わると顔を上げ,
 「先生よ,儂はな,命のことは神様に,病気のことは先生に預けたるでナ.難しそうな病気だちゅうことはようわかったが,何でもええ,ここで先生が手術しとくれ.儂は本土へはどうあっても行きとうない.死ぬんならこの島で,あんたの手にかかって死ぬでナ.」と言ったのです.
 まさかそんな答えが返ってくるとは思いもしなかった私は,あわてました.無茶なと説得しましたが,言うことを聞いてはくれません.家内は大急ぎで奥さんを呼びに走りましたが,帰って来たときには奥さんばかりか息子夫婦やら近くの弟夫婦やら,総勢八人もが竹蔵さんを取り囲むことになりました.でも,誰が何といっても,頑固爺さんの言うことは変わりません.大手術となると,普通は患者の方が一日考えさせてくれと言うところですが,あのときには私が一晩考えさせてくれと頼みました.でも,
 「命のことは神様に,病気のことは先生に」
 とは,何と嬉しい言葉だったでしょうか.この一言を聞いたとき,私の気持ちも決まっていたのかもしれません.この朝から一週間後に大学病院から二人の応援の医師と二人の看護婦を迎え,この診療所の粗末な手術室でなんとか無事に手術を了えることができました.その後,竹蔵さんは事あるごとに誰彼かまわず,場所も斟酌することなくシャツをめくり上げて傷口を見せ,
 「うちの懸鈴先生は日本一の外科医だでノ.」
 と,吹聴されるのには閉口したものです.でも,この事件(?)をきっかけとして,私どもは本当にこの島の住人として受け入れてもらえたような気がします.昨年が竹蔵さんの十三回忌でした.
 それにしても,この「命のことは神様に,病気のことは先生に」という竹蔵さんの言葉は,それ以後の私の医師としての人生に,決定的な影響をあたえました.そして今ここに,田舎医者の私がこんな大それたものを書き残そうとしているのも,この言葉に啓発されてのことです.
 私はアスクレピアイダイとよばれる,ギリシアの医神アスクレピオスの一族の末裔にあたります.なぜアスクレピオスが医神と呼ばれるようになったかはこれからお話することですが,そのアスクレピオスから数えて私は百三十八代目になり,やはりアスクレピオスの子孫で,西洋医学の世界では医聖とよばれるヒポクラテスからはちょうど百二十一代目にあたります.
 こんな美しく,そして時には荒々しい自然に囲まれた地域で生活し,人々の健康をあずかる仕事をし,人々の生死への思いを聞いていますと,病気とか健康,そして生まれることや死ぬことが,以前,都会で生活していた頃とは違ったものに見えてくるものです.竹蔵さんの一言は,そんな人々の思いを集約したような言葉でした.
 アスクレピアイダイの一員として生まれ,医師になるよう定められていた私には,確たる理由があったわけでもなく,単に自分の医師としての人生が決められているという,ただそのことだけに反発し,父親と大喧嘩のすえに故国を飛び出してしまいました.ヨーロッパ諸国を経由してアメリカ合衆国に渡った私は,そこで鈴木大拙師の禅の思想に出会いました.禅の思想そのものというより,私は東洋的な発想方法に親しいものを感じ,神秘的なものへの憧れもあって日本にやって来ました.その頃はまさか永住することになるとは,夢思いませんでしたが.
 日本に来て考えあぐねた結果,三十を過ぎてから医師になることを決心しました.その決心を現実のものにするために,家内と共に味わった苦労は,改めてここでは申しますまい.何とか無事医学部を卒業して勤務しだしましたが,自分が望んで帰化したにもかかわらず,現代の日本の医療に対し,私にはどうも馴染めないものを感じてしまいました.これは日本の医療に限ったことではありませんが,先端医療ともてはやされる医療には,生意気を申し上げれば,何かこう,私は医療のなかに,医療というより錬金術の臭いをかぎとってしまったのです.
 思いきって都会を離れ,この離島の診療所にきてからもその思いは付きまとい,心に常にわだかまりを残していました.それを竹蔵さんの一言が吹き飛ばしてくれたのです.今こそ私は自信と誇りをもって,私の先祖であるアスクレピオスと彼の医療について語ることができると思いますし,また声を出さねばならないときだと感じたのです.
 これからお話することは,私たちアスクレピアイダイに伝えられた医神アスクレピオスの生涯です.医神アスクレピオスの話は,今ではギリシア神話の一部だ,すべて作り話だとされているようですが,私たちにとっては真実の,かけ替えのない医師の指針ともなるべき話なのです.
 話を始めるにあたって,いったいどこから始めてよいものやら迷ってしまいます.それは,おそらく多くの方々がアスクレピオスという方の名前すらお聞きになったことがないのではないか,と思うからです.そこで,まず皆さんにも少しは親しみのある「アスクレピオスの杖」という,西洋医学のシンボルマークのお話から始めることにしましょう.
 図1をまず見てください.これはアメリカ合衆国の救急ヘリコプターの写真ですが,見ていただきたいのはその後ろと横に描かれたマークです.これは「生命の星」とよばれる,万国共通の救急隊員のシンボルマークです.現在では,日本の救急車にもこのマークの描かれたものがありますから,きっとご覧になった方もあるでしょう.
 この「生命の星」のマークは,二つの部分から成り立っています.杖に巻き付いた一匹の蛇と,その背景になる六角形の星です.この真ん中に描かれた,一匹の蛇が巻き付いた杖のマークが「アスクレピオスの杖」といわれるもので,西洋医学のシンボルとされています.そう思ってみれば,あちこちにこのマークを見つけることができます.
 図2は,一九九九年の第二十五回日本医学会総会に際して発行された記念切手です.左のほうには心臓やら胃腸の模式図が描かれていて,一見して何か医学に関係する記念切手だとわかります.そして右端にはひときわ大きく「アスクレピオスの杖」が描かれています.どうしてこれが「西洋医学のシンボル」となったのか,それはこれからゆっくりとお話するとして,もう少しこの「アスクレピオスの杖」という図柄が,世界の医学界でどんな具合に使われているかを見てみましょう.
 図3〜5は,それぞれ医学に関係する記念切手です.
 図3は,一九六四年にフィンランドのヘルシンキで開かれた,世界医師会会議の際のものです.図4は,旧ソ連邦で発行された世界保健機関(WHO)の,図5は,フランスの国際医療団の記念切手です.いずれも杖と一匹の蛇の組み合わせである「アスクレピオスの杖」がデザインされていますね.
 ちょっと変ったところでは,図6を見てください.これはオーストリアの山岳救助隊の活動を記念した切手です.この切手では,救急車の屋根に取り付けられた回転灯の中に「アスクレピオスの杖」が描かれています.いかにも救急隊の記念切手でしょう.
 これほど,私たちアスクレピアイダイの祖先であるアスクレピオスは,世界中の医療の神とみなされているということを理解していただいたうえで,その方の生い立ちからお話を始めることにいたしましょう.
医師アスクレピアデスの前口上

第I章 神々の医者,父親アポロンのこと
 アポロンが双子としてデロス島で生まれる
 アポロンは多芸に秀でていた
  神々の仕事は分業制度 王様の耳はロバの耳
 アポロンが医術の神だという証拠
  ホメロスの『イリアス』 アポロン=パイエオン=医師? 芍薬とアポロン 虫干しとアポロン 精神的治療とアポロン

第II章 母親コロニスとカラスのこと
 コロニスとアポロンの出会い
  アポロンがコロニスを見初める アポロンはやきもち焼きだった コロニスの浮気とその理由 気の毒なカラスの災難
 常緑樹崇拝が医神アポロンと関係する

第III章 アスクレピオス 誕生と悲劇のこと
 コロニスを殺して嬰児をケイロンに預ける
  コロニスの死とアスクレピオスの誕生 アスクレピオスの命名
 ケンタウロス族と恩師ケイロン
  ケンタウロスが半人半馬の姿である理由 ケンタウロス族随一の知者ケイロン
 アスクレピオスの将来が予言される
 アスクレピオスの成長と教育
  アスクレピオスの誕生地 アスクレピオスの育った土地 アスクレピオスの食事 アスクレピオスとお酒 アスクレピオスの遊び アスクレピオスの恋愛 病気癒しの医学教育 その人にとって必要な治療 怪我の手当に対する医学教育 アスクレピオスが故郷を出る

第IV章 アスクレピオスの医療のこと
 蛇と医療の関係
  蛇の生命力と精力 聖書に表われる蛇 古代日本文化と蛇
 アスクレピオスの杖の材質
糸杉とアポロンのロマンス伝説 糸杉と墓地 日本文化と杉 アポロンと月桂樹 桂冠詩人
 アスクレピオス教と神殿の設立
  アスクレピオス教団の成立 アスクレピエイオンアスクレピエイオンの蛇
 一匹の蛇の巻き付いた杖が医学のシンボルとなる
 神殿内での医療の内容
  アスクレピエイオンの発掘 癒しを求める人々 不妊の女性への効用
 神殿内での医療の実際
  アスクレピオス神の出現と癒し 癒しの費用
 神殿内での医療の変遷
  前期の治療形態 後期の治療形態 外科的治療と麻酔術

第V章 アスクレピオスの蘇生法とゼウスの怒りのこと
 アスクレピオスが蘇生法の秘密を手に入れる
  メドゥサという怪物 メドゥサの血から蘇生の秘薬
 ゼウスと女性を争ったテュンダレオス
  レダへの思いを遂げるゼウス トロイア戦争の責任者テュンダレオス
 ミノス王の息子ミノタウロス
  クレタ島のミノス文明 再度三度のゼウスの浮気 ゼウスの因果応報
 テセウスの怪物退治
  アリアドネの糸 英雄テセウスは人でなし
 ヒッポリュトスの貞潔と死
  義母に迫られるヒッポリュトス テセウスの嘆きとギリシア悲劇
 ヒッポリュトスの蘇生と改名
 オリオンの死とアスクレピオスの死
  ハデスの怒りとゼウスへの直訴 アルテミスの初恋 アスクレピオスとオリオンの死

第VI章 一匹の蛇と二匹の蛇のこと
 ヘルメスのシンボルである杖との混同
  悪戯なヘルメスアポロンからヘルメスへの贈り物
 ボッティツェルリに見るヘルメスの杖
 古代フェニキアの神との混同
 アスクレピオスのローマへの遷座
  ローマの疫病の神頼み アスクレピオス神の旅立ち アスクレピオス神のローマ到着

第VII章 アスクレピオスの妻と子供たちのこと
 長男マカオンとトロイアの木馬
 次男ポダレイリオスとトロイア戦争の顛末
 妻と女の子たち
  妻エピオーネ 長女ヒュゲイア 次女パナケアケイロンの最期
 アスクレピオスの子孫とコス島
  ヒポクラテスの医学の独立宣言 自然治癒力についてヒポクラテスの顔 医学教育者ヒポクラテス

第VIII章 アスクレピオス神話が現代に語ること
 医神アスクレピオスは死んだ
 医療の目的 私たちはどこから来たのか?
 医神アスクレピオスは殺された
 医神の復活
 酔った医師アスクレピアデスの後口上

断章 その他 あれこれのこと
 現在のティベリナ島
  島のたたずまいと病院 教会の外での大発見 現在のアスクレピオス神殿
 カラスが世界各地で神の使いであるとされた
  日本のカラス 中国のカラス 聖書でもカラスは特別の鳥である ギルガメシュ叙事詩 ギルガメシュ叙事詩のカラスアポロンとカラス
 医療の始まりと宗教のこと
 メソポタミアの医学
  シュメール文明 シュメール文明の医学 二種類の医師 病気の原因に対する理解 シュメール文明における女性の地位 ハムラビ法典にみる医療ミス罰則規定 外科は手仕事
 ユダヤ教・初期キリスト教と医療
  旧約聖書にみる奇蹟の癒し 新約聖書にみる癒しアスクレピオス教とキリスト教の争い キリスト教の勝利とアスクレピオス教の解体 キリスト教と病気癒しの関係 その後の歴史からみたキリスト教と医療 病気癒しを巡るキリスト教の戦い

参考文献
あとがき