やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 筆者は,産婦人科を標榜する臨床医です.
 そしてそれを職業とするからには,産婦人科疾患についてはそれなりの対応能力を持つと自認していたのですが,そうした筆者が,地域高校生の「性教育」を依頼され,戸惑いを覚えたことがあります.
 それは彼ら学生の知識レベルの認識不足もさることながら,そうした授業の効用が予測できないという不安があり,それが性教育を行う者として,真の適任者であるかという自身に対する問いかけとなりました.
 学校や行政は「性教育」により,若者たちの性非行の問題や性にともなう感染症,さらには人工妊娠中絶など将来に及ぼす影響を未然に防ぎたいという発想ですが,いざ講義を行うと,命じられた方は性器教育に傾きやすく,そこでは恫喝じみた発言に対する自身の反省や,性の本質的なものに触れえぬもどかしさが,いつも胸中にありました.
 このことは,筆者が疾患を治療するだけのいわゆる医療テクニシアンであり,病気を生じる人間の良い理解者でなかったことに尽きるのですが,それでもそうした経験のなかから,筆者もまた彼ら若者と同じように性について多くを学び,そしてより理解を深めていった気がしないでもありません.
 ところで福岡県健康推進事業「性と心の健康教育」に関するアンケートでは,高校生の希望する講義内容は,「月経」「性感染症」「男女交際」「人工妊娠中絶」「体のしくみ」「帯下」「思春期」「包茎」「外陰異常」「男女のちがい」などであり,一方,教えた側の内容は「性感染症について」「若年者の妊娠」「月経の話」「性について」「人間の本能」「社会にでてから」「健全な家庭を築くために」「思春期について」「真実の愛とは」「命の大切さ」など,その題名から推察するにそれぞれの講師の想いの深さが感じられます.
 また,日本性教育協会の指導要綱によると,講義では以下のことに留意されたいとあります.
 生物学的側面については(1)生長と成熟,(2)性器の構造とその働き,(3)性差,(4)性病,(5)性交,(6)受精と妊娠,(7)避妊と妊娠中絶,人間学的側面については(1)性の不安と悩み,(2)受精,(3)性欲と性行動,(4)性と社会,(5)男女の人間関係,(6)結婚と家庭,(7)性と文化,(8)性と人権などが示されています.
 こうした講義の内容には,心の問題も加わることから大脳生理学と精神科を専攻する身内に助けを求め,共著とすることにしたのですが,このように多岐にわたる性と心の問題を一定の講義時間内で消化することは難しく,その隙間を埋める意味で,副読本ともいえる本著の出版を思い立ったわけであります.
 本書は「難しいことをやさしく,やさしいことを深くそして興味あるものに」をモットーに基本的な話の中から「互いの人格を認め合うこと」「人間としての責任と自覚」「人と社会とのかかわり」そして「人間らしい性行動を自分で選択できる能力の涵養」をそこに示しうればと念じました.
 このうち人間学的な側面のいくつかは,渉猟した文献から多くの教えを受けたのですが,それに筆者なりの反芻を加え,全体としてまとまりのある「人間ストーリー」として展開してみたつもりです.本書を「読本」とした所以もそこにあるのですが,果たして目的にかなったかは読者の評価に頼らざるを得ません.
 巻末には医学専門書を除き,とくに示唆を受けた書籍名を掲げました.改めてそれらの著者,訳者にお礼を申し上げはじめの言葉といたします.
 1999年晩秋 山上 健
はじめに

序章 「ひとの性を識ること」の意味
    キーワード:威嚇行動,自律神経,交感神経,副交感神経,闘争,敗北,身体言語,知識の効用,人間学

I われわれはいずこから来たのか
 1.生命のはじまり
   細胞
   遺伝子
   生物の進化
   性染色体
   性決定のメカニズム
   オスとメスの存在理由
    キーワード:ATP,ミトコンドリア,DNA,RNA,嫌気性菌,光合成,共生,蛋白質,突然変異,進化・分化,性の決定
 2.進化の道程
  (1)ヒトが誕生するまで
   哺乳動物の出現
   霊長目への進化
   サルからヒトへ
   人類の進化
    キーワード:脊椎動物,魚類,両生類,爬虫類,変温動物,恒温動物,原猿と真猿,食虫動物,人猿
  (2)農業の発明から現在まで
   農業と社会の形成
   脳の発達―人類の進化
    キーワード:ホモ・ハビリス,前頭葉,領野,連合野,ブローカ野,ホモ・サピエンス,クロマニヨン人,言葉,文化・文明
  <Q&A>われわれはいずこから来たのか

II われわれは何なのか
 1.愛のはじまり
  (1)愛って何ですか?
   やさしい狩人たち
   死の認識
   生命を知るよろこびから愛へ
  (2)愛のメカニズム
   快と不快
   愛を知る場所
   愛は生存戦略
   恋愛から情愛へ
   愛は継続的か
  (3)性欲(性衝動)
   性欲とは?
   性衝動をもたらすもの
   性衝動と五感の関係
  (4)脳における性差
   脳の違いはいつできるのか
   脳の構造的な性差
   男女の脳は変わらない
    キーワード:思いやりと死の認識,生命の意義,快と不快,A-10神経,恋愛感情,情愛感情,アンドロゲン,エストロゲン,新皮質と古皮質,大脳辺縁系
 2.愛を知る頃(思春期)
  (1)思春期の生理と心理
   思春期とは
   思春期の生理的特徴
   身体的変化
   性器における性差
   月経と射精
   思春期の心理的特徴
   思春期―大人へのステップとして
  (2)思春期の問題と悩み
   自我の確立と精神的問題
   精神的問題への対応
   社会への適応障害とその対応
    キーワード:ゴナドトロピン,自我,ペニス,子宮,対人恐怖症,強迫神経症,うつ病,いじめ,不登校,摂食障害,ダイエット
  <Q&A>思春期の身体の悩み
 3.愛を求めあう人類
  (1)人間の求愛行動
   視線の行方
   自己表示
   肉体的魅力の誇示
    キーワード:パレード,孤独なダンス,ヘヤートス・ヘヤーフリップ,五感,体毛
  (2)ヒトのパートナー選び
   異性の選択
   つがい関係の成立
   つがい関係は子育てのため
   選択権はどちらにあるか
 4.ヒトの性行動
  (1)性行為を学ぶ過程
   遊びの効用
   親や仲間の必要性
  (2)性交前行動
   やさしさを求めて
   愛撫
  (3)性行為
   オルガスムについて
   性反応とは
   両性の性反応による身体的変化
   性感とは何か
  (4)性交後行動
   何を期待したか
   受精のチャンス
  (5)性行動に関連するさまざまな問題
   冷感症と不感症
   オルギア(乱交)
   レイプとセクシャル・ハラスメント(性的いやがらせ)
  (6)性の心理に関連する問題
   ジェンダーと性の認識
   性別同一性・性同一性
   同性愛行動
   性倒錯を生じさせる心理的要因
  (7)よりすばらしい愛を得るために
   愛は魅力に勝る
   男の心,女の心
   幸福は愛によってはじまる
   若年者の性行為
    キーワード:オルガスム,性的成熟度,性反応,性感,ジェンダー,一時的衝動
  <Q&A>ヒトの性行動
 5.ヒトに見る受精・妊娠・分娩・育児
  (1)受精
   生命のいとおしさ
   受精のメカニズム
  (2)妊娠
   妊娠成立のメカニズム
   妊娠に伴う内分泌系の変化
   妊娠の容認
   妊娠の喜び
   妊娠中毒症とは
   胎児脳の発達
   人工妊娠中絶
   避妊
  (3)分娩
   お産は大変
   母と子の出会い
   母子間の愛着
  (4)育児
   授乳行動
   泣くことのシグナル
   笑うことのシグナル
   笑いはコミュニケーションの手段
   子育ての力の証明
    キーワード:卵子,精子,精子戦争,つわり,母体保護法,コンドーム,経口避妊薬(ピル),プロスタグランディン,愛着,カテコーラミン,泣くことと笑うこと

III われわれを悩ます性の病気
 1.生活環境の変化と性にかかわる問題
  (1)栄養
  (2)ストレス
   子宮内膜症
セックスレス・カップル
心身症
  (3)外的環境
   環境ホルモン(外因性内分泌攪乱物質)
   人口問題
    キーワード:母乳,不妊,ダイオキシン
 2.感染症としての性の病気
  (1)性感染症とは
   伝播経路
   性感染症の種類
   STDの病態
  (2)共生の理論
   環境の変化と新たな微生物の台頭
   共生することの意義
    キーワード:細菌,ウイルス,ペニシリン,免疫,抗体,卵管性不妊,キャリア,耐性菌

IV われわれはいずこに行くのか
 1.幸福を求めて
   幸福な状態とは
  (1)家族・家庭の変化
   変貌した家族
   自立する女性
   結婚の減少と離婚の増加
   家庭教育と学校教育の変化
  (2)性行動の変化
   変わりつつある性の意識
   性差と性役割の認識の変化
   情報化時代の弊害
    キーワード:核家族,家族意識,晩婚化,出生率低下,家族機能,男女の役割分担,社会・文化的性差
 2.ひとは個で生きられるか
  (1)真のパートナーの意味
  (2)男女共生社会に向けて
    キーワード:カップル形成の意味,男女共生社会

参考文献
あとがき

コラム
人類の遠い祖先―細胞のはじまり
DNA遺伝情報の発見
化学元素は生命を証す
ヒトとサルの近密な関係
大きな脳と産みの苦しみ
言葉のはじまり
脳と言葉の関係
さまざまな“愛のかたち”
「モラトリアム時代」の到来
男女の生殖口と排尿口の違い
性衝動に悩むことはない
「自分」とは何だろう
ヒトの鼻はなぜ高いのか?
体毛のなくなった理由
男女間における魅力の受け止め方
女性をめぐる男性の戦い
隠された発情期
パートナーに求めるもの
動物たちにオルガスムはあるか
性衝動を抑えるしくみ
正常な性行動とは
同性愛的傾向の要因
ボノボに見る性行動の特異性
卵子と精子の大きさの違い
卵争いに始まるセクシュアリティ
子を守る母の苦しみ「つわり現象」
人口妊娠中絶術の条件
コンドームの起源
単独で子を守る他種動物
ペニシリン剤の効果
HIVウイルス発生起源の研究
ヘルペス増加の原因
共生による生物相互のバランス
“幸福”とは
結婚式のもつ意味
結婚,したい? したくない?
世代を越える「モラトリアム現象」
「結婚するサル」

Note 知っておきたい医学的知識
1 DNAとRNAの役割
2 XY染色体による性決定
3 視床下部とホルモン
4 脳の構造
5 性感とA-10神経
6 授乳に関するホルモン
7 涙の成分
8 20世紀の代表的な医学研究
9 快感を知る脳の場所