やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 本書は,近世の名医・張錫純の著作≪医学衷中参西録・全三冊≫(河北科学技術出版社,1985年)を参照しながら翻訳・編集したものであり,全内容の約1/4に相当する.著者は豊かな教養人であるとともに,「読まない書物はない」と称されるほどの広汎な中医学の学識と,これに基づく独自の深い認識をもっており,明快な理論のもとに病因・病機・病態および治法方薬についての解説を行っている.また,鋭い観察力と洞察力を備えた真摯な臨床態度のもとに,豊富な経験を積んでおり,「ここに10数年にわたる経験方を集めると,何度も用いて実証済みの方がちょうど大衍〔≪易経・繋辞上≫での天地の働きを敷衍し演繹する数〕の倍数〔100〕になった.方剤の後に解釈と重要な症例を記載した.」と述べて,十分に吟味した少ない薬物で組成された自製の有効な方剤を提示するとともに,多くの症例を付加して理解を容易にしている.読みものとして面白く興味深いだけでなく,臨床的にも非常に有効な方剤が多く,懇切丁寧な実用書とみなすことができる.
 張錫純は,字を寿甫といい,河北省塩山県の人で,1860年〔清・咸豊10年,日本の万延元年〕に生まれ1933年〔民国22年,日本の昭和8年〕に没した近世の名医である.知識層の家系に生まれ,幼児期から父親の薫陶を受けて育ち,長じて2度の科挙の考試に挑んで失敗したのち,「良相為らざれば,必ず良医為らん」との祖先の垂訓を守って医学の道へ入った.≪医学衷中参西録≫自序には,「そこで広く方書を読み,古くは農〔神農,農業と医薬の神であり,≪本経≫と略称される≪神農本草経≫を著したとされる〕軒〔黄帝,軒轅〈けんえん〉の丘に住んだとされ,≪内経≫の中心人物〕から最近の国朝〔清〕の諸家の著述にいたるまで合計するとあらかた100種以上の書籍を読み調べたが,≪本経≫と≪内経≫を貽〈のこ〉したのは開天辟地の聖神と医学の鼻祖であり,これこそ渕海〔内容が深奥,広範であること〕な医学であると知った.漢末になると張仲景〈ちょうちゅうけい〉が現れて≪傷寒論≫≪金匱要略≫を著しており,≪本経≫≪内経≫の功臣といえる.晋代の王叔和〈おうしゅくか〉〔≪脈経≫を著し,当時すでに散逸していた張仲景の≪傷寒雑病論≫を撰輯した〕,唐代の孫思○〈そんしばく〉〔中国史上最初の医学百科全書である≪備急千金要方≫≪千金翼方≫を著す〕・王Z〈おうとう〉〔膨大な前人の医書を編輯し理論研究と治療方剤をはじめて統合整理し≪外台秘要≫を著す〕,宋代の成無己〈せいむき〉〔≪内経≫に基づいた分析注釈をし,≪注解傷寒論≫を著す〕,明末の喩嘉言〈ゆかげん〉〔傷寒論の条文を分類整理研究して≪尚論篇≫を著す〕らも,やはり張仲景の功臣である.国朝には医学が発展して人才が輩出し,張志聡〈ちょうしそう〉〔≪素問集注≫≪霊枢集注≫などを著す〕・徐大椿〈じょたいちん〉〔≪医学源流論≫≪神農本草百種録≫などを著す〕・黄元御〈こうげんぎょ〉〔≪素霊微蘊≫≪傷寒懸解≫≪金匱懸解≫などを著す〕・陳念祖〈ちんねんそ〉〔≪神農本草経読≫≪傷寒論浅注≫≪金匱要略浅注≫などを著す〕らの諸賢は,いずれも張仲景および淵源をなす≪本経≫≪内経≫を踏襲している.したがって,彼らの著した医書はいずれも正統な医学である.ただし,晋・唐から現代にいたる諸家の著述はよくできてはいるが,いずれも瑣末にいたるまで旧態の伝承に汲々とし,初めから日進月歩して中華医学を進歩させようという意図がない.古を師として貴ぶということは,古人の規矩準縄に縛られることではなく,それを手段として自分の性霊〔心の霊妙な働き〕を淪して神智〔精神と知恵〕を益することである.性霊・神智が活発になり充溢すれば,さらに古人の規矩準縄を貴んで取り上げ,これを拡充し,変化し,引伸触長〔意味を推し広め同類のものに出会えばそれらすべてに及ぼす〕して,古人が『後世の者たちもなかなか』とし,畏れいるようにすべきである.世の中のことはいずれもそうあるべきであり,医学だけが違うはずはない.私錫純はこうした考えで何年もたゆまず医学を研究し,たまたま人のために処方をするとすぐに得心応手〔思い通りの結果が得られる〕し,宿痾の病を挽回することができた.当時先慈〔亡母〕の劉太君〔身分の高い婦人に与えられる称号〕が家にいた.私は親孝行するいとまがなくなることを恐れて,あえて軽々に他人の往診には応じなかった.たまたま急症であるからと診察の求めがあっても,みだりに遽〈あわただ〉しく応じるようなことはなかった.先慈は『病家が医者を待ち望むのは,水に溺れるものが援けを求めているようなものです.あなたが治すことができるのなら,急いで往って救けておあげなさい.しかし,臨床では十分に注意し,鹵莽〈ろもう〉〔粗雑〕なことをして人を害さないように慎しまなければなりません』といわれたので,『唯唯〔はいはい〕』と教えを受け,以後臨床家としてほとんど1日たりと休むことなく,今日まで10余年に至っている」と記されている.このように,≪内経≫≪神農本草経≫をはじめとしてほとんどすべての歴代の典籍を研究し,中医学の研鑽を積んで力量を高め,あえて軽率には臨床に向かわず,時期が至ったのちは先慈劉の教えを心に刻みつけて細心かつ大胆な臨床実践を行った.1918年に奉天〔瀋陽〕の立建中医院・院長に就任し,系統的な臨床経験を積むと同時に,多数の論文を医学雑誌に投稿して名声をあげており,当時の「名医四大家」の一人にあげられ,張生甫・張山雷とともに「名医三張」とも称された.1926年に天津に居を移し,中西医匯通医社〈かいつういしゃ〉および国医の通信教育学校を設立し,多くの後継者を養成した.書中に多くの受業〔師に対する弟子の自称〕が登場するのはこのためである.日中は診療し夜間は著述にいそしむという生活を続け,1933年8月8日74歳で病逝した.真面目で熱心かつ慈愛に満ちた人物であることが,経歴および書中の記述からくみとれる.
 自著に「衷中参西」と名づけたように,張錫純は中西医匯通派〔中西医結合派〕と目されている.アヘン戦争以降に欧米列強の侵入を許し半植民地と化した中国では,医学においても西洋医学の影響を受けざるをえなくなったことを反映している.書中に「西洋薬が中国に入って以降,維新主義者は競争してこれに走り,守旧主義者は汚らわしいもののようにみなすので,ついに互いに牴牾〈ていご〉〔くい違い〕を生じ,終いには交流し難くなっている.私は凡才であるが,日常の用薬に喜んで多くの西薬の長所を取りいれて中薬の短所を補っており,当初から両者に敷居をつくっていない.したがって,拙著を衷中参西と命名した.西洋医学の用薬は局部治療で病の標に重点があるが,中医学の用薬は原因治療を求め病の本に重点がある.結局,標本は当然兼顧すべきであり,難治の証に遇った場合は,西薬でその標を治し中薬で本を治せば必ず捷効するはずで,臨床でも確かに手応えを感じている」と述べ,当時の中国での医学界の状況を示すとともに,中・西両医学の特徴を分析している.この他自序において,「私は古人より後の時代に生まれたので,古人が完成できなかった仕事を完成させるべきであり,古いものを助けて新しいものにし,わが中医学の輝きを全地球上に喧伝できなければ,それは私の罪である.私錫純は毎日このことを心にとめて,老いを忘れてたゆまず努力を続けている.これまで西洋医学を渉猟したが,実はまだその薬物を一つひとつ試験する暇がない.さらにその薬の多くは劇薬であり,また試験を軽視するわけにはいかないので,多くの西洋薬を採用することができていない.しかし,本編で取り入れた西洋医学は医学理論を採用しただけではなく,常にその化学理論を採用しており,方薬の運用には中西医学を融合させて一体化し,その薬を採用した場合にも,記問の学〔いい加減な理解でやたら講釈するような学問態度〕としているのではない」とも記している.すなわち,迎合して無批判に西洋医学を取り入れているのではなく,「衷中」すなわち中医学という確固たる土台のもとに,「参西」すなわち西洋医学の学説・化学・薬物などを一貫性をもたせて採用し,中医学をより発展させようとの意図をもっているのである.
 しかしながら,当時の西洋医学は今日からするとかなり未熟であり,治療面でもみるべき所が少なく,当時の薬物も現在では過去の遺物になってしまっており,さらには中医学に立脚する著者に西洋医学に対する誤った理解や牽強附会がみられるために,本書では多くの部分で西洋医学に関連した記述を割愛していることを,御容赦願いたい.
 ≪医学衷中参西録≫は1918〜34年の16年間に次々と刊行され,全七期30巻からなっている〔1957年に遺稿が第八期として加えられた〕.発行の状況は以下のようである.
 第一期 各種病証と自製新方 1918年出版.
 第二期 各種病証と自製新方 1919年出版.
 第三期 各種病証と自製新方 1924年出版.
 以上は,前三期合編上下冊・8巻としてまとめられ,1929年出版.
 第四期5巻 薬物解説 1924年出版.
 第五期上下冊・8巻 各種医論 1928年出版.
 第六期5巻 各種症例 1931年出版.
 第七期4巻 傷寒論病証 1934年出版.
 この後,全七期30巻に第八期を加え,≪医学衷中参西録≫上中下の三冊本が,1934年に河北人民出版社から刊行され,これが現在に至っている.
 以上のように,原著は約16年にわたり次々と増補改訂しながら書かれており,後になって病証を総括したり新たに医論を補充したり,同じ病証の症例を追加するといった配慮がなされているので,相互に参照することが理解を深めるうえで最も望ましい.そこで本書では,原著の配列をある程度尊重しながら,相互参照が容易になるように同類の記述をまとめる形に編集しなおしている.膨大な内容を一挙に提示できないため,まず内科雑病の約半分と薬物解説にしぼっている.要望が多ければ,他の部分も引き続き出版の予定である.
 なお,原著は民国7〜23年に書かれ,意味をとりにくい表現も多いので,随所に訳注を施して原文を残す配慮を行ってはいるが,全体を現代文として意訳している.
 本書によって新たな深い認識が得られ,臨床での成果がより高められることを期待している.

 凡例
 1.本書は≪医学衷中参西録≫上中下冊から抜粋し編集しなおしており,当然配列が異なっているので,各項に「第O期×巻」と表示して原著を参照しやすくしている.
 2.現代文として意訳し,適宜に「 」でくくったり,訳注を附して理解しやすくしており,不必要と考えられる西洋医学的記載は割愛した.
 3.( )内は原注であり,〔 〕内は訳注である.
 4.自製方剤については,組成と関連部分を罫で囲み,見分けやすくしている.
 5.薬物解では,≪神農本草経≫の内容を各薬物の先頭の部分に挿入している.≪本経≫未収載の薬物についてはこの限りでない.
 6.巻末には,中医用語・病証・方剤名・薬物の索引を附している.

 〔参考文献〕
 中国医学大辞典:謝観等編纂,中国書店,1990年.
 本草経義疏:王大観主編,人民衛生出版社,1990年.
 中薬学:顔正華主編,人民衛生出版社,1991年.
 医史手帳:安井広迪編著,日本TCM研究所,1993年.

例言〔原書の凡例〕
 1.薬性を解明した初めの書は,≪神農本草経≫である.この書は文字が使われるようになった最初の書(≪易≫はそれ以前に存在したが,そのころはまだ文字はなかった)であり,簡策(簡も策も古代に文字を書くのに用いた竹片.簡策は書籍の意)の古さがわかる.この書には合計365味の薬が記載され,その数は1年間の日数をあらわす.これを上中下の3品に分け,上品は養生の薬,中品は治病の薬,下品は攻病の薬としている.各品の下には,すべて詳細に気味と主治を記し,気味を明らかにすることにより主治の理由も示している.また,薬性が独自の良能を具備し,気味から外れるものもあるが,古聖はすべてを知り尽してこれら一つひとつを表出しており,医学における天地開闢の鼻祖といえる.後人は識見が浅薄であるために,薬が独自の良能を具えていても,気味から推し量ることができなければ,すべて削除し記載していない.たとえば,桂枝は上気吐吸(吸っても下達せずに吐出する,すなわち喘の不納気である)に非常に効果があり,≪本経≫に記載があるが,後世の本草には記載がない.また,山茱萸は寒熱往来(肝虚が極まった場合の寒熱往来)に非常に効果があり,≪本経≫に記載があるが,後世の本草には記載がない.このようなことは枚挙に暇がない.私はこれらをみるたびに深く嘆き惜しみ,そのため本書で薬性を論じた箇所ではすべて≪本経≫に従い,後世の本草は軽軽に採用していない.どの臓腑どの経絡に入るかの明確な記載がないと疑うものがあるが,どんな病を主るかを知らずに,薬力がどこに至るかを知ろうというのであろうか.つきつめれば,服薬すると薬は気血に随って流行し至らない所はない.後世,詳細に臓腑経絡に分けているのは,かえって学ぶものに拘墟〔見識が浅く浅薄なこと〕の弊を残すように思われる.
 2.明解な医学理論は≪黄帝内経≫に始まる.この書は黄帝と臣下である岐伯・伯高・鬼臾・雷公の間の問答形式で書かれており,≪素問≫と≪霊枢≫に分かれる.≪素問≫の要旨は薬による治病にあり,≪霊枢≫の要旨は針灸による治病にある.ただし,年代が非常に古いので欠落がないとはいえない.古代の相伝は口授によることが多く容易に亡失したので,晋代の皇甫謐〔≪甲乙経≫を著す〕はこの書は不完全であるといい,宋代の林億はこの書には偽托〔偽作〕があるのではないかと疑っている.さらに仲景は≪傷寒論≫の序で「≪素問≫9巻を用いて文章を書いた」と述べているが,現在≪素問≫は24巻あり,その中には偽托があることがわかる.しかし,その核心部分は聖神の残した言葉であることは確実であり,断じて偽托者の為せるわざではない.たとえば,針灸による治療は今では世界中で認識されているが,もし古聖が始めていなければ,後世に創造できたであろうか? 西洋医学で詳しく解剖を講義するものが創造できるであろうか.≪内経≫を読む方法とは,ただ信じうる部分を詳しく研究して会得することであり,そうすれば無限の法門〔勉学に入る順序方法〕を開くことができる.信じられない部分は,後世の偽托かもしれないので,論及しなくてもかまわない.これは孟子のいわゆる「書尽くは信じ難し」の意である.現在西洋的な方法に偏重するものは,≪内経≫の信じるにたる部分の研究に努力せず,信用し難い部分を極力指摘するのみである.その意見を推し進めると,≪内経≫の真本はとうに失われており,世に伝わるものはすべて偽托であることになる.こんな理屈があるであろうか? われわれすべての同胞はみな黄帝の子孫であるにもかかわらず,先祖が後人に与えた典籍を慈しみ一層大切に保存しようともせず,些細な瑕疵をいい立てて破棄してしまうのは,まったく嘆かわしいことである.したがって,本書の各門中では≪内経≫にのっとって述べた部分が非常に多いが,≪難経≫≪傷寒論≫≪金匱要略≫などのように≪内経≫にのっとった後世の医書も時に採用している.
 3.本書に記載した方剤の多くは私が創製したものであり,時に古人の成方を用いた場合でも常に加減している.方中に独自の見解をもっている場合には,その方も一緒に載せて詳細に解説した.また各門の方の後に西洋医学の常用方,および試して実際に効果があった西洋薬を付録として記した.臓腑経絡を論じる際に,常に道家の説を併せて採用したのは,もともと交流があるからである.また時に西洋医学の説を採用したのは,解剖で実際に考証しているからである.
 4.古人の用薬の多くは,1度に大量を煎じて3回に分けて服用させ,病が癒えれば必ずしも剤を尽くさず,癒えなければ必ず1日ですべて服用させる.この方法については今の人々が注意をはらわなくなって久しい.私は傷寒・瘟疫とすべての急性疾患には必ずこの方法を用いている.これらの証の治療は消火に似ており,水をぶっかけると火勢はやや衰えるが,次々に水をかけつづけなければ火の勢いが再び熾んになり,それまでの効果がまったくなくなる.他証の治療では,必ずしも1日に3回服用する必要はないが,朝夕各1回服用(煎じた残渣をもう1度煎じて服用するのは1回とみなす)して薬力を昼夜継続させると,効果が早く現れる.
 5.裕福な家では服薬する際に次煎〔二番煎じ〕を用いないことが多いが,元来は次煎を止めてはならないことを理解していない.慎柔和尚〔明代の僧.≪慎柔五書≫を著す〕は陰虚労熱の治療に専ら次煎を用いた.次煎は味が淡で能く脾陰を養う.「淡気は胃に帰す」と≪内経≫にも記載がある.淡は能く脾陰を養うの意味は,もともと「淡気は胃に帰す」からきているが,その理由を理解していないものが多い.徐霊胎〔清代の医家.徐大椿〕は,「洪範〔天地の大法.書経の洪範を指す〕は五行の味について『水は潤下を曰い,潤下は鹹を作す.火は炎上を曰い,炎上は苦を作す.木は曲直を曰い,曲直は酸を作す.金は従革を曰い,従革は辛を作す』というが,いずれもそのものの本味を述べている.土については,その文を変え『土は稼穡〔種まきと収穫〕を爰〈たす〉け,稼穡は甘を作す』とする.土は本来無味であり,稼穡の味を借りて味とするのである.無味とはすなわち淡であり,したがって人の脾胃は土に属し,味が淡であるものはすべて能く脾胃に入る」と述べている.また,陰虚の治療は専ら脾に重点があることも理解していないものが多い.陳修園〔清代の医家,陳念祖〕は「脾は太陰であり,すなわち三陰の長である.故に陰虚を治す場合は,脾陰を滋すことを主にすべきであり,脾陰が足りれば自ずと諸臓腑を灌漑できる」と述べている.
 6.白虎湯中に用いる粳米は,古方では生を用い,現代でも生を用いている.○苡仁〈よくいにん〉・○実〈けんじつ〉・山薬の類も,粳米と同じである.諸家の本草では,「炒用」と注釈するものが多いが,炒用は丸散についてのみである.現在では湯剤に用いる場合にも必ず炒熟するが理解し難い.専ら健脾胃のみに用いるなら炒してもよいが,止瀉利に使用するときは炒すべきではない.生は汁漿が稠粘であるから腸胃に留恋するが,炒熟したものは煮ても汁漿はないからである.滋陰に用いようと,淡滲に用いようと,炒熟すべきでないことは,極めて明白である.
 7.現代の党参は古代の人参であり,山西地方上党の山谷に生育するので党参という.山西の五台山に生えるものは最も優れ,特別に台党参という.現在の遼東人参とは本来種が異なり,気温・性和であり,実際に遼東人参より使用しやすく,さらに非常に廉価で貧しいものでも服用でき,誠に済世の良薬である.現在は遼東地方でも党参が多く,すべてが山西産ではない.しかし必ず党参の皮には横紋があり,胡○○〈こらいふく〉〔食用の人参〕の紋のようで胡○○の紋よりさらに密ならば野山に自生する党参であり,これを人参の代用にすれば非常に効果がある.横紋がなければ,現地の栽培であり,使用に堪えない.また,本書で用いる人参はすべて野党参で代用してもよいが,遼東で栽培した人参を代用してはならない.遼東で栽培した人参は俗に高麗参と呼ばれ,薬性が燥熱であるから軽用すべきでなく,傷寒・瘟疫〈おんえき〉の諸方中に使うのは最もよくない.また○党参〈ろとうじん〉は,皮の色が微紅であり,○安の紫団山に生育するので,紫団参ともいう.○党参の補力は台党参に匹敵し,薬性が平で熱性ではないので,気虚有熱に最も適している.
 8.黄耆〈おうぎ〉を湯剤に入れる場合は,生用すなわち熟用ということになり,必ずしも先に蜜炙〈みっしゃ〉する必要はない.丸散剤中で熟用すべき場合は,蜜炙すれば謔「.瘡瘍の治療では,丸散でも炙用すべきではない.王洪緒〔清代の医家〕はこのことを≪証治全生集≫で詳しく述べている.「発汗には生を用い,止汗には熟を用いる」という説に至っては,まったくでたらめである.気分の虚陥が原因で汗が出るものは,黄耆を服用すればすぐに止まるが,陽強陰虚が原因で汗が出るときは,黄耆を服用すればかえって大汗が出る.気虚で逐邪外出できない場合は,発表薬と同服すれば汗を出すことができる.したがって,止汗するか発汗するかは生か熟の違いではなく,いかにこれを用いるかによる.
 9.石膏は寒で発散に働くので,外感実熱の治療には金丹の価値がある.≪神農本経≫には「微寒」とあり,薬性が大寒ではないことがわかる.さらに「産乳を治す」とあるので,薬性が非常に純良であることがわかる.世人の多くは大寒と誤認して○用するために辛散の性質を収斂に変えてしまっている(豆腐の製造に少し加える石膏は必ず○〈や〉くのは,収斂するからである)謳ホ膏〈たんせっこう〉を外感実熱に用いると1両用いても傷人するのは,外感の熱は散じるべきで収斂すべきではないからである.大量に○石膏を用いて治療を誤った場合,過ちが○いたことにあって石膏のせいではないことをわからず,逆に「石膏は○用してもこれほど猛悍であるから,○かなければおして知るべしである」といい,ついには生石膏を怖がることになる.そこで思い切って用いてもせいぜい7〜8銭に止めるが,石膏の質は非常に重く,7〜8銭でも一撮〈つま〉みに過ぎない.極めて重症の寒温証を挽回するのに微寒薬一撮みでは,とうてい効果を期待できない.そこで私は外感実熱の治療には,軽証でも必ず1両程度,実熱が熾盛なら大量3〜4両使用することが多い.薬を茶碗数杯に煎じて3〜4回に分けて温飲させるのは,病家の疑いを免れたいためと,薬力をできるだけ上焦にとどめて寒涼が下焦を侵し滑瀉を引き起こさないようにしたいからである.石膏を生用して外感実熱を治療するなら断じて人を傷害するはずはなく,さらに思い切って大量使用すれば断じて熱が退かないはずはない.ただし,薬局で細かく挽いた石膏は謳ホ膏が多く,処方箋に明確に生と書いても○石膏を充てることが多い.もともと備蓄してあるものが○石膏であるうえに,さらに薬局自ら慎重になっているのが原因である.したがって,生石膏を用いる場合は,はっきりと整った石膏塊を購入すべきであり,細かく挽くところを自分で監視しなければ確実ではない.
問い:同じ石膏なのに,どうして生は能く散じ,○けば性質が散から急に斂に変わるのか? 答え:石薬の性質は草木薬とは異なり,○いたものと○かないものでは常に性質が際立って異なる.丹砂は無毒であるが,○けば有毒になる.石灰岩を○くと石灰になり,燥烈の性質が急に現れ,水を注ぐと火のように熱くなる.石膏はもともと硫黄・酸素・水素・カルシウムが化合生成したものであり,○けば硫黄・酸素・水素がすべて飛んでしまい,残ったカルシウムは変成して石灰になり,異常に粘渋になる.そこで焼洋灰は必ず石膏を多用するが,洋灰〔セメント〕を服用できるだろうか.したがって,石膏を煎じて缶の底に残渣が凝結するときは○石膏であるから,その薬は絶対に服用すべきではない.
 10.細辛は「1銭以上服用してはならない」との説があり,後世の医者にはこれを否定する者が多いが,この説は元来おろそかにしてはならないことを知らないのである.細辛に限らず花椒・天雄・生半夏のように,味が辛で同時に口がしびれるような薬は,たいていみな弊害がある.口をしびれさせるものは肺もしびれさせ,肺がしびれると呼吸がすぐに停まる.かつて胃中が冷えたので花椒約30粒を嚼服して飲みこむと,すぐに気が上達しなくなるのがわかり,しばらくして呼吸がようやくもとにもどった.そこで,古人は主君を諌めると禍が生じることを恐れ,花椒を搗いて携帯する〔花椒を口に含んで痺れさせ不用意に諌めたりしないようにする〕ことがある意味を悟った.これからみると用薬は慎重であらねばならない.
 11.半夏は降逆止嘔の主薬であるが,現在薬局では白礬〈はくばん〉で製している.降逆気・止嘔吐に用いると服用後に逆に症状がますます劇しくなる恐れがあるのは,明礬味が吐き気を誘発するからである.私は半夏で嘔吐を治療する際には,必ず微温水で半夏を数回洗って明礬味をすっかり洗い流すように努めている.しかし,洗う際には含まれる明礬量を考慮して決められた量以外に多少の半夏を加えておき,きれいに洗い流して晒し干ししたものがもとの分量に足りるようにする.薬局の質のよい清半夏は明礬が比較的少ないが,用いる際にはやはり洗うべきである.利痰の目的なら,清半夏を洗わなくても構わない.
 12.竜骨・牡蛎は収澀を目的とする場合は○用してもよい.滋陰・斂火あるいは収斂に兼ねて開通(竜骨・牡蛎はいずれも斂して能く開く)を目的にするなら,○いてはならない.丸散中に用いるなら微○してもよい.現在,すべて○を用いているがもってのほかである.
 13.山茱萸〈さんしゅゆ〉の核〔種〕は小便不利を来たすのでもともと薬に入れるべきではない.しかし,田舎の薬局で売っている山茱萸は往々にして核と果肉が半々であり,甚だしい場合は核が果肉より多いことがある.処方中に「核をすべて除く」と明確に注意書きをいれても,やはり除去していないことが多いので,治療の妨げになること甚だしい.本書では山茱萸を大量に使用した重篤な証の治験例が非常に多い.私は使用時に必ず自分で点検するか,核をすべて除く必要があると説明して病家に点検させ,除いた分量をまた補うようにすると,間違いが起きない.山茱萸の効用は救脱に長じているが,能く固脱する理由は酸味が極めて強いことにある.しかし,嘗めると時々酸味がほとんどないものがあり,こうした山茱萸は使用に堪えない.危急の証には,必ず嘗めて酸味が極めて強いことを確かめてから用いなければ,優れた効果を得ることができない.
 14.肉桂は気味ともに厚く,長時間煎じるのが最もよくない.薬局では搗〈つ〉いて細末にしてあるものが多く,数回沸騰させると薬力がすぐに減じ,数10回も沸騰させるとなおさらである.石膏は気味ともに淡で石質であるから,細かく搗いて煎じなければ薬力が出ないが,薬局では細かく搗いていないものが多い.そこで私は,石膏は必ず搗いて細末にしてから煎じ,肉桂は粗皮を除去するだけで塊のまま煎じる.肉桂や石膏に類する薬は,肉桂・石膏にならうのがよい.
 15.乳香・没薬は生用が最もよく,カラカラに炒してはならない.丸散中に用いる場合は,まず挽いて粗い粉末にし,紙を敷いた鍋に入れて半ば溶けるまで焙り,冷ましてから挽いて細末にする.これが乳香・没薬から油分を除去する方法である.
 16.威霊仙・柴胡などは本来根を薬用とする.薬局のものには必ず茎や葉が混在しているので,医者に選別する知識がないと事を誤る可能性がある.細辛の葉の効用は根と比べようもないので,李瀕湖〔明代の医家,李時珍〕も≪本草綱目≫で「根を用いる」と述べている.樗白皮〈ちょはくひ〉と桑白皮は,いずれも根の皮を用いるが,それが本物か否かは最も弁別し難いので,使用する場合は自分で採取するのが確実である.樗根白皮は大いに下焦を固渋する.一方,皮付きの樗枝を煎じた湯は大便を通じる.俗に伝わる便法では,大便不通に節の長さが1寸ほどの皮付きの樗枝7節を湯に煎じて服用すれば非常に効果がある.その枝と根の性質はこのように異なるので,使用にあたっては慎重でなければならない.
 17.代赭石は鉄と酸素の化合物で,性質は鉄錆と同じであり,もともと○くべきではない.徐霊胎は「これを○いて酢に浸けたものは傷肺する」と述べている.本書の諸方中にある代赭石は,すべて生代赭石を細かく挽いて用いるべきである.
 18.薬には修治していなければ絶対に服用してはならないものがあり,半夏・附子・杏仁などの有毒薬はすべてこれである.古方中の附子は,たまたま「生用」とあっても実際には塩水に漬け込んだものであり,炮熟〈ほうじゅく〉した附子ではないが,採取後すぐ使用するのではない.このような薬物は,方中にどのように炮製するのか明確な注がなくても,薬局では必ず修治して無毒にしてある.本来毒がない薬物で,もともと生用してよいものは,本書の方中で修治についての明確な注がなければ,すべて生用すべきである.本書の処方を用いる場合は,薬の本来の性質を失うような別の修治を加えてはならない.
 19.古人の服薬方法は,病が下にあれば食前に服用し,病が上にあれば食後に服用するのが決まりである.後世の人には,「服薬すると必ず脾胃が消化したのちに薬力が四達する.病が上にあって食後に服用すれば,脾胃は必ずまず宿食〔前からの食物〕を消化し,その後に薬物を消化するので,速さを求めても逆に遅くなる」というものがある.この説も理屈に合っているようであるが,間違いであることを知らないのである.薬力が全身を行るのは,人身の気化を借りて薬力を伝達するのであり,ちょうど空気が声を伝えるようなものである.両方の間に空気がなければ,どこで声を発しようとその場で止まる.人身の気化をなくせば,脾胃が薬物を消化しても全身に伝達することはできない.人身の気化の流行にはもともと臓腑の境界はなく,咽を下った薬物はすぐに気化とともに行り,その伝達速度は極めて速く,あっという間に全身に行き渡る.ただし,空気が声を伝えるのは速いが,遠く離れるほど声はだんだん小さくなる.このことから気化による薬の伝達を推測すると,遠く離れると薬力は次第に減退する.したがって,病が下にあれば食前に服用し,病が上にあれば食後に服用するのは,薬を病変部位に近づけさせて直達する力を最も速くさせるためである.
 20.湯剤では薬を煎じる液量が少ないのはよくない.少ないと薬汁の大半が煎じ渣の中に残る.滋陰清火の薬では,特に薬汁を多くして煎じなければ効果がない.したがって本書では,重剤を用いる場合は必ず煎汁を数杯として数回に分けて服用する.また,誤って薬を煎じ過ぎて干上がった場合に,水をもう1度入れて煎じても薬は本来の性質を失っており,服用すると病は必ず劇しくなるので,廃棄すべきで服用してはならない.
 21.煎じるときに突沸しやすい薬は,医者があらかじめ患家に伝えておくべきである.たとえば,知母は5〜6銭になるととろ火で煎じても突沸し,1両にもなると煎じることはできない.しかし,知母は最も容易に煎じ終えることができるので,まず他薬を煎じて10数沸させ知母を加えて蓋を開けっ放しにしたまま数沸させれば湯ができる.山薬・阿膠などの汁漿の薬,竜骨・牡蛎・石膏・滑石・代赭石などの末に搗いた薬は,いずれも突沸しやすい.煎薬は初めに沸き立つときが最も突沸しやすいので,煎じて沸き立つころに,あらかじめ蓋を開けて箸でかき混ぜるとよい.初めの沸き返りが過ぎ,その後も沸いておれば蓋を開けたままで差し支えなく,沸かないときに初めて蓋をして煎じるとよい.危急の証では,安危はその薬1剤にかかっているので,もしこれを下男や下女に押しつけ,薬を煎じる際の沸出をはっきりといっておかないと,事を誤ることが多い.したがって古の医者は,薬餌は必ず自分の手で修治し,湯液を煎じるにもやはり必ず自分で監視していた.
 22.本書に収載されている諸方で,方中の重要な薬物の性味・能力を確実に知らないならば,四期の薬物学講義に収載された薬の注解を詳しくみるとよい.私は諸々の薬物について,巴豆や甘遂のような劇薬といえども,必ず自分で嘗めて試験している.用いた薬は,すべて性味・能力について深く知りぬいており,諸家の本草にある以外の新たな知見も加えている.
 23.古方の分量を今の分量に換算する場合に,諸説があって意見が一致しない.従来私は古方を用いるのにもともと分量には拘泥しないが,たまたま古い分量を使用する場合は陳修園の説を基準にしている.(詳しくは麻黄加知母湯の項にある〔陳修園は古方を用いる場合は必ずしも古いものに拘泥する必要はなく,≪傷寒論≫≪金匱要略≫の方中の1両は今の3銭に換算できると述べている〕)
 24.本書の諸方は,数種類の古方を除いた160余方が私の創製である.これはうぬぼれで新奇な異論を述べて古人に勝とうとしたいのではない.医者は人の命を救うものであるからこつこつと天職をまっとうすべきであり,難治の証に遭遇しあれこれ成方を試して効果がなければ,苦心惨憺して自分で治法を考案せざるを得ない.創製した処方が有効で,何度も用いてすべて効果があれば,その方を放棄するに忍びずに詳しく記録して保存した.これが160余方であり,努力を惜しまず人命を救おうという熱情に迫られ,日ごと月ごと累積して巻帙をなしたのである.
はじめに
凡例
例言〔原書の凡例〕

陰虚労熱治方
 資生湯〈しせいとう〉
 十全育真湯〈じゅうぜんいくしんとう〉
 醴泉飲〈れいせんいん〉
 一味薯蕷飲〈いちみしょよいん〉
 参麦湯〈じんばくとう〉
 珠玉二宝粥〈しゅぎょくにほうかゆ〉
 沃雪湯〈よくせつとう〉
 水晶桃〈すいしょうとう〉
 既済湯〈きさいとう〉
 来復湯〈らいふくとう〉
 鎮摂湯〈ちんせつとう〉
虚労喘嗽門
 陰虚証・陽亢陰虧〈いんき〉
 虚労兼労碌〈ろうろく〉過度
 伏気化熱による肺労咳嗽証
 虚労咳嗽兼外感実熱証
 労熱咳嗽
 遺伝性の肺労咳嗽証
 肺労痰喘
 肺労喘咳
 肺労喘嗽兼不寐〈ふび〉証
 肺病咳嗽吐血
 肺病の咳吐膿血
 肺病咳吐痰血
治喘息方
 参赭鎮気湯〈じんしゃちんきとう〉
 薯蕷納気湯〈しょよのうきとう〉
 滋培湯〈じばいとう〉
喘証治法の総論
治陽虚方
 敦復湯〈とんふくとう〉
治心病方
 定心湯〈ていしんとう〉
 安魂湯〈あんこんとう〉
心病の治法を論ず
不寐〈ふび〉病門
 心虚不寐
 不寐兼驚悸
治肺病方
 黄耆膏〈おうぎこう〉
 清金益気湯〈せいきんえっきとう〉
 清金解毒湯〈せいきんげどくとう〉
 安肺寧嗽丸〈あんはいねいそうがん〉
 清涼華蓋飲〈せいりょうかがいいん〉
肺病の治法を論ず
 【附】清金二妙丹〈せいきんにみょうたん〉・三妙丹〈さんみょうたん〉
治癲狂方
 蕩痰湯〈とうたんとう〉
 蕩痰加甘遂湯〈とうたんかかんすいとう〉
 調気養神湯〈ちょうきようしんとう〉
癲狂失心の原因・治法を論ず
癇痙癲狂門
 癇風兼脳充血
 受風けいしょう〈けいしょう〉
 慢脾風
 慢脾風
 慢脾風の前兆
 癲狂失心
 神経錯乱
治大気下陥方
 昇陥湯〈しょうかんとう〉
 回陽昇陥湯〈かいようしょうかんとう〉
 理鬱昇陥湯〈りうつしょうかんとう〉
 醒脾昇陥湯〈せいひしょうかんとう〉
結胸の治法を論ず
気病門
 大気下陥兼小便不禁
 大気下陥
 大気下陥身冷
 大気下陥兼消食
 大気下陥兼疝気
 衝気上衝兼奔豚
 胃気不降
 肝気鬱兼胃気不降
 胃気不降
治内外中風方
 捜風湯〈そうふうとう〉
 熄風湯〈そくふうとう〉
 逐風湯〈ちくふうとう〉
 加味黄耆五物湯〈かみおうぎごもつとう〉
 加味玉屏風散〈かみぎょくへいふうさん〉
 鎮肝熄風湯〈ちんかんそくふうとう〉
 加味補血湯〈かみほけつとう〉
脳充血の原因および治法を論ず
脳充血証は予防できること,およびその証に誤り中風と名づけた由を論ず
 【附】建れい湯〈けんれいとう〉
 建れい湯〈けんれいとう〉
脳貧血治法論
 【附】脳髄空治法
 補血湯〈ほけつとう〉
脳貧血による痿廃の治法を論じ内政部長・楊階三先生に答える
 【附】干頽湯〈かんたいとう〉・補脳振痿湯〈ほのうしんいとう〉
 干頽湯〈かんたいとう〉
 補脳振痿湯〈ほのうしんいとう〉
脳充血門
 脳充血頭痛
 脳充血頭痛
 脳充血頭痛
 脳充血兼下肢痿弱
 脳充血兼痰厥〈たんけつ〉
 脳充血兼偏枯
頭部病門
 頭痛
 眼疾
 目病乾疼
 歯痛
治小児風証方
 定風丹〈ていふうたん〉
 鎮風湯〈ちんふうとう〉
 【附方】逐寒蕩驚湯〈ちくかんとうきょうとう〉
 【附方】加味理中地黄湯〈かみりちゅうじおうとう〉
治肢体痿廃方
 補偏湯〈ほへんとう〉
 振頽湯〈しんたいとう〉
 振頽丸〈しんたいがん〉
 姜膠膏〈きょうきょうこう〉
肢体痿廃の原因および治法の論
 【附】起痿湯〈きいとう〉・養脳利肢湯〈ようのうりしとう〉
 起痿湯〈きいとう〉
 養脳利肢湯〈ようのうりしとう〉
薬物解
 石膏解
 人参解
 西洋参解
 黄耆〈おうぎ〉解
 山茱萸〈さんしゅゆ〉解
 白朮解〈びゃくじゅつ〉
 赭石〔代赭石〕解
 山薬解
 地黄解
 甘草解
 朱砂解
 鴉胆子解(俗に鴨蛋子といい,苦参の種子)
 竜骨解(竜歯を附す)
 牡蛎解
 石決明解
 玄参解
 当帰解
 芍薬解
 きゅうきゅう〈きゅうきゅう〉〔川きゅう〕解
 大黄解
 朴硝・硝石解
 厚朴解
 麻黄解
 柴胡解
 桂枝解
 三七解
 三七の特異な効能を論ず(第五期第2巻)
 滑石解
 牛膝解
 遠志解
 竜胆草解
 半夏解
 ○楼解
 天花粉解
 乾姜解
 生姜解
 附子・烏頭・天雄解
 肉桂解
 知母解
 天門冬解
 麦門冬解
 黄連解
 黄ごん〈おうごん〉解
 白茅根解
 葦茎芦根解
 鮮小薊根解
 大麦芽解
 茵ちん〈いんちん〉解
 らいふく子〈らいふくし〉解
 枸杞子解
 海○蛸・茜草解
 罌粟殻解
 竹じょ〈ちくじょ〉解
 沙参解
 沙参は肺労(癆)治療の要薬の論(第五期第2巻)
 連翹解
 川楝子解
 薄荷解
 茯苓〈ぶくりょう〉・茯神〈ぶくしん〉解
 木通解【附】木通湯〈もくつうとう〉
 蒲黄解
 三りょう〈さんりょう〉・莪朮〈がじゅつ〉解
 乳香・没薬解
 常山解
 山ざ〈さんざ〉解
 石榴〈せきりゅう〉解
 竜眼肉解
 柏子仁解
 大棗解
 胡桃解(核桃)〔胡桃肉・胡桃仁・核桃肉〕
 五味子解
 ひかい〈ひかい〉解
 ひかい〈ひかい〉は失溺に対する要薬で淋に用いてはならないの論(第五期第2巻)
 鶏内金解
 鶏内金は女子乾血労を治す要薬たりの論(第五期第2巻)
 穿山甲解
 蜈蚣〈ごこう〉解
 水蛭〈すいしつ〉解
 蝎子〈かっし〉解
 蝉退〈せんたい〉解
 羚羊角〈れいようかく〉解
 羚羊角弁【附】羚羊角の代替え方(第五期第2巻)
 甘露清毒飲〈かんろしょうどくいん〉
 血余炭解
 指甲解
 べっ甲〈べっこう〉〔土別甲〕・亀板は虚弱証に用いてはならないの論(第五期第2巻)
第五期第1巻より
 人身神明詮
 元気詮
 大気詮
 人身の君火・相火に先天・後天の分ありの論
 脳気筋辨〈べん〉
 少陽は游部〈ゆうぶ〉たりの論

原書総
方剤名索引
薬物名索引