やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 最近老年者の生活の質(Quality of Life: QOL)が問題となってきている.
 老年者が寿命を全うするまでいかに人間らしい快適な生活をおくることができるかということである.われわれ歯科医療を担うものとして,老年者が苦痛なく楽しい食事をとることができるようにすることである.
 在宅老年者の歯科往診治療は従来から一部ボランティアにより行われていた.最近,それが日本各地においても,自治体の協力を得て地域医療の一環として動き出している.
 老年者の歯科臨床においては,老年者は多くの病気を併せもっていること,病気の症状も非定型的であることなどの特徴があり,そのため高血圧や糖尿病などなんらかの基礎疾患がすでに四つや五つ存在していることを前提に患者を診ることが常識である.
 まして,寝たきり老年者の診療は医学的管理の有無にかかわらず,すでに重篤な疾患を併せもっているので,主治医との対診を含め,慎重な対応が必要である.
 このようなことから老年歯科医学は歯科医学や一般医学を基礎とした応用編であるといえる.しかし,わが国における老年歯科医学はまだ緒についたばかりであり,そのため教育システムもまだ不十分で,今後に検討課題として取り残されているのが現状である.
 在宅老年者の診療にあたっては,医学的監視の傘から外れてしまっていたりすることもまれではなく,また痴呆性老年者も含まれていることを念頭におく必要がある.
 老年者歯科診療を円滑に進める一つの鍵は,患者もさることながら家族,介護者との意志の疎通をはかるところから始まる.
 問診にあたっては,病歴聴取はもとより患者の生活環境を含めてていねいに行い,主治医との連携を密にし,患者の全身状態を十分に把握することが肝要である.
 治療にあたっては,ADL(Activity Daily Living: 日常生活動作)やvital signのチェックを診療時毎回行うことが必要である.
 歯科処置は的確な診断のもとに治療方針を十分練ってから着手し,安易な態度で始めるべきではない.
 本書はこれから要介護老年者の歯科診療を始めようとしている歯科医師,歯科衛生士や保健婦のために老年者の歯科臨床で常識として知っておくべき事柄をまとめたものである.
 本書の執筆にあたっては,現在老人医療の最前線で活躍されている各科専門医の方,および往診治療や訪問指導などに取り組まれている方々にできるだけ平易にかつ理解しやすく解説していただいた.
 〔高齢化社会〕
 わが国は,医学の進展と社会福祉の拡充によって,国民の平均寿命は男性75.91歳,女性81.77歳(平成元年簡易生命表)と世界の最高水準にまで延長した.また,長寿と出生率の低下とが相まって急激に高齢化社会を迎えるに至った.
 国民総人口に対する65歳以上の老年者の比率はすでに11%を超え,20年後の2010年代には20%を超すと推定されている.
 高齢化社会は単に老年者が増加したということではなく,心身に障害のある老年者も増えていくことになり,その対応も大きな課題である.
 〔要介護老年者〕
 このような老年者のなかには,寝たきりの老年者や痴呆性の老年者などが含まれている.一般的には,要介護(障害)老年者といわれている.彼らはすでに心身に障害があって,自力では洗面,排泄,着替え,歩行や食事といった日常生活をおくるうえで最低限必要な行為(日常生活動作)すら不十分で,人として生きていくためには,周囲の人々や社会の援助を必要としている.
 要介護老年者は,病院や特別養護老人ホーム(ナーシングホーム)など施設でケアを受けている施設収容者と,自宅でケアを受けている者とがある.
 老年者が寝たきりになる原因疾患の第1位は脳卒中であり,全体の3割から5割を占めている.ついで,リウマチや骨折など筋・骨格系の疾患,そして原因不明の老衰である.
 また,アルツハイマー型痴呆や脳卒中の後遺症としての脳血管性痴呆などによる精神機能の低下した老年者,つまり痴呆性老年者が含まれている.痴呆性老年者は表現力や理解力が不十分であり,意志の疎通がむずかしい.そのため治療方針の変更や中止を余儀なくされることも少なくなく,介護者の理解と協力が必要である.
 〔地域サービスシステム〕
 心身に種々の障害をもった在宅老年者が歯科医院を訪れることは,本人にとってもまた介護にあたる家族にとっても至難である.そのため,在宅老年者に対しての往診や訪問看護といった地域医療サービスのシステムの構築が必要で,寝たきり老年者の歯科保健対策は,地域医療計画のなかでも話題にのぼっている.
 最近,要介護老年者のうち在宅老年者の歯科診療や指導が各地において実施されつつある.しかし,往診となると搬入できる診療機材にも制限があり,応急処置と口腔ケアの指導で終わってしまうことも少なくない.
 現在行われている歯科診療を齊氓ニするならば,将来は二次,三次の一般医科も利用している診療施設が有機的に連携されることが必要である.たとえば,患者の搬送のシステムが導入されるならば,二次として地域の歯科センターでの外来診療が受けられる.さらに三次として,総合病院では各科専門医の協力を得て入院下での本格的な歯科診療も可能になる.そして,二次,三次の施設で治療を終えた患者は,自宅に帰ってからも訪問ケアが受けられるといった地域医療サービスのシステムの構築が理想である.
 最後に本書をまとめるにあたり,多くの専門家のご協力をいただいたことに心からお礼を申し上げるとともに,出版のお世話をいただいた医歯薬出版株式会社の関係各位に感謝したい.
 1991年5月15日 佐藤雅志 鈴木俊夫
はじめに……v

基礎編
 I 老年者の理解……1
   1.高齢化社会……1
     1)日本人の平均寿命……1
     2)高齢者の対人口比率……2
     3)寝たきり老人人口……2
     4)老人保健施設と寝たきり老人……3
   2.老年者への社会的対応(福祉)……4
     1)老人保健医療としての対応……4
     2)老人福祉としての対応……5
     3)施設福祉……5
     4)在宅者への歯科的援助……6
   3.老年者の精神・心理……7
     1)精神疾患……7
      (1)うつ状態(躁うつ病)/7(2)痴呆/8(3)妄想状態/12(4)せん妄(急性錯乱)状態/12(5)神経症(心気症)/14
     2)老化と心理……14
   4.老年者の疾患……15
     1)老人病の一般的特徴……15
     2)いわゆる寝たきり老人の原因疾患とおもな合併症……17
 II 老年者の口腔……20
   1.口腔の老化……20
     1)粘膜……20
     2)骨……20
     3)筋肉……22
     4)歯および歯周組織……22
     5)唾液腺……23
   2.口腔外科疾患……24
     1)口腔癌……24
     2)扁平苔癬,白板症……24
     3)溝状舌,舌苔……25
     4)口腔カンジダ症……25
     5)良性の腫瘍……25
     6)エプーリス……26
     7)口角びらん症……26
臨床編
 III 老年者の診かた……29
   1.問診の進め方……29
     1)歯科往診治療時のポイント……29
     2)問診のポイント……30
     3)問診の実際……33
     4)基礎疾患とその管理状態の把握……38
      (1)老年者の疾患/39(2)老年者の疾患の特徴/40(3)対診時のポイント/40(4)各科から投薬を受けているときの注意/41
   2.老年者の管理……41
     1)全身状能の把握……41
      (1)vital signの診かた/41(2)ADLの評価/44(3)全身状態の評価/45(4)貧血・凝固異常・栄養障害/47
     2)処置時とくに注意を要する疾患への対応……49
      (1)脳卒中後遺症/49(2)虚血性心疾患/51(3)高血圧/54(4)心臓弁膜症/55(5)不整脈/57(6)心不全/59(7)呼吸不全/60(8)甲状腺機能障害/62(9)糖尿病/65(10)寝たきりとなる整形外科的疾患/68(11)痴呆のある患者/74
 IV 老年者と薬剤……76
   1.処方時の基本的注意点……76
     1)薬物服用歴と服用中の薬の情報……76
     2)指示どおり服用しているかの確認……76
     3)処方後のアフターケア……76
   2.おもな薬の主作用と副作用……77
     1)薬物の代謝に影響を及ぼす生理的機能の加齢変化……77
     2)副作用の出現を最小限度に抑えるための留意点……77
   3.寝たきり老人に投与されている薬……77
   4.副作用としての口腔症状……78
     1)口内乾燥症……79
     2)オーラルジスキネジア……81
     3)歯肉増殖……83
   5.局所麻酔と他剤との関係……84
 V 老年障害者の栄養……87
   1.老年者の食生活障害……88
     1)身体的要因……88
     2)精神的要因……89
     3)社会的・経済的要因……90
   2.栄養摂取……90
     1)老年者の栄養所要量……90
     2)老年障害者の食生活の状況……90
     3)栄養・食事指導……91
   3.食事への援助……93
     1)食生活への環境づくり……94
     2)摂食機能に問題がある場合の対応……95
 VI 老年者の歯科治療の実際……99
   1.麻酔処置……99
     1)局所麻酔時の留意点……99
   2.口腔外科処置……100
     1)小手術のポイント……100
     2)口腔乾燥症……105
     3)口臭……109
   3.保存処置……112
     1)根面齲蝕,狭窄根管などの場合……112
     2)歯周炎の場合……115
   4.補綴処置……116
     1)補綴処置の目的……117
     2)補綴処置への必要条件―義歯が使用可能か否か……117
     3)往診治療の前提条件……119
     4)旧義歯の修理……120
     5)新義歯(総義歯・局部義歯)の作製……128
     6)義歯の管理……135
   5.往診時の諸注意……136
     1)術者の感染予防……136
 VII 介護者への教育・指導……141
   1.診療の介助……141
     1)患者の体位変換・移動のテクニック……141
   2.老年者の口腔衛生……155
     1)口腔清掃の実際……155
     2)看護・介護者に必要な口腔ケアの知識……160
      (1)実施上の留意点/161(2)訪問歯科保健指導の実際/162(3)看護での取り組み/167
社会歯科編
 VIII 寝たきり老人に対する歯科医療……177
   1.歯科往診治療の実際……177
     1)現状……177
      (1)心構え/177(2)治療に着手する前に/177(3)事前に把握しておく必要のある事項/178(4)往診先で準備してもらう物品/178(5)往診治療費/178(6)往診先での治療/178(7)治療着手の前に/179(8)治療上の留意事項/179(9)治療の範囲(内容)/179(10)医療事故への対処/180
     2)在宅老年者に対する歯科保健医療の全国各地での取り組み……181
      (1)北海道旭川市/181(2)東京都杉並区/183(3)長野県佐久市/185(4)大阪府豊中市/187(5)兵庫県伊丹市/190(6)島根県松江市/191(7)山梨県甲府市/193(8)宮城県仙台市/196(9)岐阜県中津川市/199(10)兵庫県佐用郡/201(11)名古屋市緑区/202(12)愛知県豊山町/204(13)愛知県豊田加茂歯科医師会/206(14)高知県/208(15)愛知県歯科医師会/210
     3)往診治療と病診連携……212
      (1)主治医と連携して在宅で治療/213(2)医療センターや施設などへの搬送/213(3)病院や医院への搬送/213(4)入院後の対処/213(5)病院や医院への搬送の条件/214
     4)在宅者の歯科保健医療の充実を……214
      (1)進行性疾患と歯科治療/215(2)ターミナルケアと歯科医療/215(3)往診治療の問題点/216(4)往診治療への取り組みを充実させるには/217(5)ホームデンティストと管理検診/217
   2.病院歯科の歯科往診治療……218
     1)病院歯科の役割……218
     2)当科における寝たきり老年者への歯科診療システム……219
     3)寝たきり老年者への歯科診療の内容……220
     4)往診時の偶発症の予防と対策……222
   3.葛飾方式による老人歯科診療の試み……225
     1)葛飾方式とは―なぜいま,固定診療所か……225
     2)在宅寝たきり老人の歯科医療委員会の組織づくり……226
     3)平成元年度の寝たきり老人歯科診療に関する委員会の構成……226
     4)診療の流れ―その予診と治療……227
     5)固定診療所―“たんぽぽ歯科診療所”の概要……228
   4.病院歯科の現状と将来の展望……229
     1)東京都老人医療センターの現状の概要と規模……230
     2)一般病院と老人医療センターの入院患者の口腔ケアの状況……230
     3)入院患者の歯科処置(現在著者らが行っている方法)……231
     4)北欧の状況……232
     5)病院歯科の将来の展望……233
付 歯科往診治療用器材・ユニット……235
   1.携帯用患者監視装置……235
   2.歯科往診治療用機器……238
   3.アイデア装置の開発……240
     1)簡易移動式タービン……240
     2)歯科用機器……241

文献……243
索引……249