やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

第2版の序

 「処置や治療から管理へ」.歯科医療に対する考え方が変わりつつある.そして20世紀が生産と消費というモノの時代であったとするならば,21世紀は優しさや心という人間が中心となる時代といわれている.この二つは大きな共通点をもつことに気づいていただきたい.つまり,歯科医療の中で義歯や歯冠修復といった,モノを製作することが重要視された時代は遠のき,予防や管理によって健康という人間そのものを大切にすることが求められている.
 実は,障害者歯科の領域ではこのことは20世紀の時代から一部ではすでに実践されていたことであった.障害者は齲蝕が多いとか未処置歯が多いと言われいてたが,幼児期から管理すれば障害のない人以上に齲蝕の発生を抑制することが可能で,そのことが障害者の歯科管理の上ではきわめて大切であるという研究報告もなされている.つまり,管理を中心とした歯科医療は障害者歯科の領域では当然の考え方として始まっていたのである.
 今日の障害者歯科サービスは,障害者たちの寿命の延長とともに歯周病への対応が求められている.障害者の持つ歯周病の予防や管理は齲蝕の管理よりも困難であり,これから当分障害者歯科の大きなテーマとなるだろう.しかし,齲蝕も歯周病もその管理は歯科衛生士に担うことところが大きく,かかりつけ歯科医と一緒に地域で歯科医療に従事する歯科衛生士から,病院歯科や障害者施設といった専門性の高い医療機関の歯科衛生士までそれぞれが障害者の歯科的な健康をサポートすることになる.本書は時代の要請から歯科衛生士養成所で障害者歯科を学ぶための教科書として編集したが,その内容は歯科衛生士養成所での教育に余りあるほど,多くの情報で満たされるものとなった.歯科衛生士となった後にひもとくとしても十分通用する内容である.障害者歯科は保健指導,診療補助という歯科衛生士の業務のために,歯科医学だけでなく障害についての医学的知識が多く求められる.歯科衛生士教育が3年制になろうとする今日,歯科衛生士に求められるのは医療人としての姿勢や教養である.障害者歯科に携わる歯科衛生士は,診療補助のためにチェア-サイドに立つだけでなく,障害や障害者について,社会福祉についてを十分に考えていただきたい.本書がその一助になることを願うとともに,歯科衛生士として障害者を理解するきっかけになることも期待したい.改版にあたり著者を増やし,高齢障害者の介護や訪問診療の項を新たに設けた.また,監修者の酒井信明先生は現役を退かれたため,責任監修者は一人とした.時代のニーズに合った改版であり,多くの歯科衛生士の手元に置いていただきたい.
 2001年2月14日 緒方克也

監修者の序

 さまざまな障害があるために歯科医療を受けることができないか困難な人々に,一般の患者さんと同じように歯科サービスを提供しようという努力が営々と積み重ねられてきた.また,診療を受ける障害をもつ患者さんの側からも,障害による受診の困難性をどのように克服したらよいのかの探索と要求が繰り返されていて,今になっても問題が解決してしまったわけではない.ノーマリゼーションの緒に就いたばかりというべきである.
 歯科大学や歯学部では,学生教育にこのような特別な配慮を必要とする歯科医療についての教育の必要性を認め,講座や付属病院診療科を開設するところが過去おおよそ20年来,徐々にではあるが増えてきている.また多くの地域歯科医師会が,行政との協力のもとに,障害者歯科医療を行える施設の開設・運営に当たっている.総合病院の歯科のなかには,少数ではあるが地域の高次障害者歯科医療を引き受ける中心的役割を担っているところもある.
 このような障害者歯科医療の流れのなかで,歯科衛生士の役割が,診療補助だけでなく,本来の疾患予防,口腔衛生指導を含めて,きわめて重要なものとして意識されるようになり,障害者歯科医療には不可欠であると認められるようになってきた.これを受けて,歯科衛生士養成所でも障害者歯科についての教育がなんらかの形で行われることとなり,ことに教授要綱にも歯科診療補助,保健指導のなかに心身障害(児)者に関する項目が加えられ,さらに巡回臨床実習教育事業についての要綱が示されて,社会福祉施設などに出向いての実習が考えられるようになって10年以上が過ぎている.
 しかし,全国の歯科衛生士養成機関で障害者歯科の教育が,それぞれの事情によってまちまちであったり,所によってはほとんど行われていないに近いのが実情である.その理由の一つは指標となるにふさわしい教科書が得られないことがあり,障害および障害者とその歯科医療についての理解と知識を提供する歯科衛生士学生向きで時代に合った標準的な教科書が望まれてきた.
 そこで,障害者歯科医療での歯科衛生士の役割についてコひとも歯科衛生士学生によい指標をつくりたいものだと思い,この方向での造詣が深く,早くから実践の場で尽力されてきた歯科医師や歯科衛生士の方々のご協力により,また医歯薬出版から上梓の約束をいただき,本書の企画が進行することとなった.
 本書の編集にあたっては,バラツキのある全国の障害者歯科医療の事情をできるだけふまえ,歯科衛生士の行う仕事という視点から最低限知っておきたい知識と実際の臨床をわかりやすくまとめたつもりである.したがってここに盛られた内容は,障害者歯科医療の全貌ではなく,その下にはさらに広く深い知識と理解が必要であり,隠されているものこそ本質的なのだということをわかっていただければと思う.
 障害者歯科医療自身が目下,発展途上にある.本書が全国の歯科衛生士養成所で,この領域の教育の手掛かりとして,将来への橋渡しとなり,障害者の福祉に貢献するところがあることを熱望してやまない.また歯学部学生や歯科医師の方々にも一読していただければ役立つことが多いと思っている.
 本書の執筆にあたっては,総論1,2章を酒井,3,4章を緒方,各論1章を森崎,2章を小笠原,3章を伊藤,栗原,吉田,4章を河野,吉田,5章を木村,乾,6章を栗原,7章を緒方,小笠原が担当した.なお,文責はすべて監修者にあることを明記しておく.
 1996年9月 酒井信明

第1版における精神発達遅滞のよび名について

 わが国では,生後から知能の低い状態を「精神薄弱」とよんできた.これはドイツ語の Oligophrenie(英語では oligophrenia) に対応する(ギリシア語で oligo-は “少ない,薄い”,phren-は “心” の意).その他,欧米では mental subnormalityあるいは mental deficiencyというよび方もあった(それぞれ精神低下,精神欠陥と意訳できる).
 時代の変遷に伴い,障害者への差別意識に反省が起こり,上記のよび名にも同様のニュアンスを含むと感じられるようになった.そこでおもに米国で,mental retardationという用語が提唱され,一般に普及するようになったが,わが国でも学術用語として「精神発達遅滞」と意訳され,また「精神遅滞」とも略して用いられるようになり,今日に至っている.一方,教育や福祉の場では「ちえ遅れ」といういい方もよく用いられている.
 しかし,国の法律上は変化がなく,行政施策・措置などでは「精神薄弱」が現在もそのまま用いられている.
 近年,スウェーデンで精神発達遅滞者たちが,自分たちが健常者によって「精神発達遅滞者」と呼ばれていることに不満があるとの発言があった.そこで自発的に提出されたのが「知的ハンディキャップ」という名称であり(もちろんスウェーデン語で),この言葉を尊重しようという運動が普及しつつある.これを英訳すると intellectual handicapとなる.
 この運動が日本に伝わる際に,「知的障害」という用語が対応する訳語として流行してしまった.これでは機能障害(不全)や能力障害を避け,ハンディキャップを採用した精神が生かされていないので,どうしてもこのよび方にしたいのならば趣意を尊重して「知的ハンディキャップ」というべきである.そこには,いわゆる精神発達遅滞者が障害をもっているというよりは,精神発達遅滞者にとって社会が障害になっているという意味が含まれていることをみてとらなければならないからである.
 本書ではこのような定着していない用語はとらず,「精神発達遅滞」「精神遅滞」を採用した.
 (※ 「知的障害」の用法については,p11注釈を参照のこと)
 (酒井信明)
総論
 1 わが国の障害者歯科医療の歴史と現状……3
  I.障害者歯科の歴史と現状……3
   1.黎明期……3
   2.発達期……4
   3.多様化の時期……4
   4.障害者歯科の研究……5
  II.障害者の概念……7
   1.社会福祉における障害者……7
   2.ノーマリゼーション……10
  III.障害者施設……11
   1.障害児施設……11
   2.障害者施設……12
  付.老人施設……14
 2 歯科医療にとっての障害者……15
  I.歯科医療と障害者の関係……15
   1.障害者歯科の定義……15
   2.障害者歯科での患者管理上の困難性……16
   3.障害者歯科隣接領域……17
  II.障害者歯科と専門職の役割……18
   1.歯科診療に直接関与する者……18
   2.歯科以外の医療従事者……19
  III.障害者の歯科医療費……23
  IV.地域医療……24
   1.一次医療から高次医療まで……24
 3 障害者の生活と歯科的援助……25
  I.障害者の日常生活……25
   1.障害の発生と家族の受容……25
   2.障害児への療育……28
   3.義務教育後の障害者……30
   4.中途障害者の日常生活……31
   5.寝たきりの障害者……32
  II.介護保険制度と歯科衛生士……33
   1.介護保険制度のしくみ……34
   2.介護保険制度の中での歯科の位置づけ……35
   3.「障害を持った口腔」への対応……36
   4.歯科衛生士による「専門的口腔ケア」……37
   5.口腔ケアの定着……37
 4 障害者歯科における歯科衛生士の役割……39
  I.障害者歯科の歯科衛生士に求められるもの……39
  II.どんな知識が必要か……39
   1.障害者への理解と受容……39
   2.障害者に対する理解と知識……40
   3.障害者関連法律や制度の知識……40
   4.障害と歯科的特徴……40
   5.障害者自身と障害者をもつ親への配慮と看護……41
  III.どんなことが求められるかを知る……41
   1.日常生活行動としての歯磨きの援助……41
   2.歯科保健指導の実践……41
   3.歯科保健管理の実践……42
   4.う蝕や歯周疾患の予防処置……42
   5.歯科健康づくりへの取り組み……42
   6.機能訓練と歯科衛生士……42
   7.診療補助の特殊性……42
   8.チームアプローチ……43
  IV.業務の記録と整理,保存……43

各論
 1 歯科においてスペシャルケアの必要な障害者……47
  I.歯科保健,歯科医療における障害とは……47
   1.障害者歯科の特質……48
   2.障害の分類……50
  II.障害の種類と歯科的特徴……50
   1.感覚器の障害……50
   2.姿勢の保持と運動の障害(肢体不自由)……52
   3.精神遅滞……61
  III.摂食・嚥下障害と機能療法……74
   1.食べる機能に障害をもつ障害者……74
   2.機能障害の診断……75
   3.摂食機能療法と歯科衛生士……76
   4.歯科衛生士による摂食機能療法への参加……77
  IV.言語障害と機能療法……79
   1.言語機能障害と歯科衛生士のかかわり……80
  V.障害者歯科における感染症と感染予防……81
   1.障害者歯科におけるインフェクションコントロール……81
   2.歯科における感染症の対策……81
 2 障害者の歯科診療と行動管理……86
  I.初診時の対応……86
   1.問診による情報収集の重要性……86
   2.問診の要点……87
   3.保護者や施設職員への問診時の注意点……87
   4.問診の流れ……87
   5.医療情報の記録……90
   6.情報分析と問題点の整理……90
  II.行動管理……91
   1.基本的態度……91
   2.歯科治療への適応性を判断するために……92
   3.行動管理の種類……92
   4.基本的行動管理……93
   5.特殊な行動管理……99
  III.初診時の行動管理……102
   1.初診時に配慮すべき事項……102
   2.発達レベルごとの口腔内診査に対する協力性……102
  IV.トレーニングから治療まで……103
   1.トレーニングにおける歯科衛生士の役割……103
   2.レディネスの評価……103
   3.学習理論に基づくトレーニング……103
   4.トレーニング直後の歯科治療のポイント……106
  V.行動管理上,とくに配慮すべき患者……107
   1.知的障害……107
   2.ダウン症候群……107
   3.自閉症……108
   4.脳性麻痺……109
   5.筋ジストロフィー症……111
   6.心疾患……112
   7.高齢者……112
  VI.訪問診療での対応……114
   1.訪問診療での問題……114
   2.訪問診療に必要な評価……116
   3.訪問診療のポイント……117
 3 障害者の歯科診療と診療補助……120
  I.障害別の対応……120
   1.障害別の注意点……120
  II.治療内容別の対応……128
   1.治療内容別の注意点……128
  III.全身状態への配慮……134
  IV.全身麻酔・精神鎮静法の補助……135
   1.全身麻酔……135
   2.静脈内鎮静法……137
   3.笑気吸入鎮静法……138
  V.訪問歯科診療の介助……139
   1.訪問歯科診療と訪問による歯科保健指導……139
   2.訪問歯科診療と歯科衛生士……142
 4 障害者の歯科保健指導……146
  I.障害者の歯科保健……146
   1.障害者の歯科保健上の問題点……146
   2.障害者における歯科保健指導の意義……147
   3.障害者への歯科保健の取り組み方……148
  II.障害者への歯科保健指導の方法……148
   1.障害者への歯科保健教育……149
   2.障害者への歯科保健指導……149
  III.障害別の歯科保健指導……153
   1.脳性麻痺児(者)への歯科保健指導……153
   2.知的障害児(者)への歯科保健指導……153
   3.自閉症児(者)への歯科保健指導……155
   4.筋ジストロフィー児(者)への歯科保健指導……155
   5.脳血管障害・事故による後遺症の肢体不自由者への歯科保健指導……155
   6.重症障害児(者)への歯科保健指導……157
  IV.生活環境からみた障害者の口腔衛生管理……157
   1.口腔衛生管理とは……158
   2.障害者の生活環境の分類……158
   3.介助者と口腔衛生状態の関係……159
   4.口腔衛生を左右する生活環境の因子……160
   5.生活環境別の口腔衛生管理……160
  V.寝たきり者への歯科保健指導……165
   1.訪問による歯科保健指導の取り組み……165
   2.訪問による歯科保健指導の目標……166
   3.訪問指導の特徴……167
   4.訪問による歯科保健指導の進め方……168
   5.介護保険制度における歯科保健指導の考え方……171
  VI.訪問による歯科保健指導の実際……173
   1.訪問前の注意事項……173
   2.訪問指導時に準備するもの……173
   3.訪問時の注意事項……173
   4.訪問時の観察事項……173
   5.寝たきり者への口腔清掃の方法……174
 5 障害者への歯磨き指導……177
  I.基本的な考え方……177
   1.障害者の日常生活における歯磨きの位置づけ……177
   2.歯磨きの習慣化……178
  II.障害者の歯磨きの特徴……179
   1.知的障害者の歯磨きの特徴と指導の実際……179
   2.肢体不自由児(者)の歯磨きの特徴と指導の実際……182
   3.脳血管障害者の歯磨きの特徴……184
  III.歯磨き介助の指導……186
   1.歯磨き介助の重要性と問題点……186
   2.歯磨き介助の具体的な方法……188
   3.効果の確認……191
  IV.歯磨き補助具の必要性……191
  V.清掃補助用具の動機づけ……192
  VI.清掃補助用具のいろいろ……192
   1.電動歯ブラシ……192
   2.デンタルフロス・歯間ブラシ……193
   3.口腔洗浄器……194
   4.インタースペースブラシ……194
  VII.歯磨きの自立とその援助……195
   1.歯磨きの自立を目標とした指導……195
   2.歯磨きの自立と援助……196
  VIII.口腔用具の改良・改造……197
  IX.歯ブラシの管理,保管,消毒……197
   1.管理……198
   2.保管……198
   3.消毒……198
 6 障害者のう蝕予防……199
  I.障害者のう蝕予防の考え方……199
  II.障害者のう蝕予防の進め方……199
  III.う蝕予防処置の困難性……200
  IV.予防と管理の相乗的効果……200
  V.う蝕予防の実際……201
   1.う蝕予防処置の開始時期……201
   2.障害者におけるフッ化物の応用……204
   3.フィッシャーシーラント……205
   4.特殊なう蝕予防……206
  VI.高齢者の歯根面う蝕……207
   1.歯根面う蝕……207
   2.歯根面う蝕の予防……207
 7 障害者への歯周疾患管理と予防……209
  I.障害者の歯周疾患……209
   1.障害と歯周疾患……209
   2.要介護高齢者(寝たきり老人などjと歯周疾患……210
   3.障害者における特殊な歯周疾患……210
  II.障害者に対する歯周治療の限界……215
  III.歯科衛生士としての対応……215
  IV.歯周疾患管理方法……216
   1.在宅の障害者の歯周疾患管理……216
   2.施設入所患者の歯周疾患管理……218
   3.在宅訪問診療の対象患者(要介護高齢者,障害者など)……219

索引……223