やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに―別冊化にあたって
 北 潔
 長崎大学大学院熱帯医学・グローバルヘルス研究科
 感染症はたえずわれわれを脅かし,そしてつねに状況は動いている.連載の「はじめに」で「NTDsとよばれWHOによって現在17の感染症がリストアップされている.これらは貧困に根ざしていることから社会,国,国際社会そして企業から無視されてきた疾病であり,三大感染症以外にも対策を重点的に行うべき感染症であるとの考え方に基づいている」とNTDsを説明したが,じつはその原稿を書いていた昨年(2016年)5月のWHOの世界保健総会で「マイセトーマ」がNTDsのリストに追加され,その数は「18」となった.
 マイセトーマは菌腫とよばれ細菌性と真菌性があり,マイセトーマベルトとよばれるように,熱帯の一定の範囲の緯度の地域に中南米,アフリカからアジアまで広く分布している.症状は手足に現れる巨大な腫瘍で,歩行や労働が困難となり,とくに真菌性マイセトーマは有効な薬剤がなく切断手術が必要になる場合もある.これが偏見や貧困などの社会問題や経済的な損失を引き起こす要因となり,NTDsの典型的な例である.このように感染症に国境はなく,われわれはつねにさまざまな感染症の脅威に備えなければならない.これには「しっかりした基礎研究とその成果を臨床までもっていく仕組み」が必要である.しかも,「すばやく確実に」.
 本連載では,世界の感染症研究と制圧や排除へ向けた取組みの潮流を紹介しつつ,感染症対策の歴史から現在の政策までを含む分野横断的な視点から,NTDsの先にある「これからの感染症への戦略」を紹介したが,これをさらに多くの読者にお届けする目的で別冊を刊行することとなった.別冊ではこれまでの連載に加え,NTDs対策に関して今後ますますその重要性が高くなる“人類生態学”からのアプローチについて,長崎大学の門司和彦教授に寄稿をお願いした.ここで強調されているのは,一般的な疫学的知識だけではなく,NTDsが流行する現地の生活実態を十分に直接観察し,経験し,理解する統合的な解決に向けた努力の重要性である.この別冊が感染症対策に携わる行政,民間,アカデミアの関係者はもとより,グローバルヘルスに関心をもつ一般のみなさん,そしてこの分野の将来を担う若い方々の目に触れ,わが国からの貢献のさらなるブースターになることを期待している.最後に,マイセトーマに効果を示す薬剤がわが国の研究から見出され,開発が進められていることをお伝えしておきたい.



はじめに
 北 潔
 長崎大学大学院熱帯医学・グローバルヘルス研究科
 いまから約50年前,アメリカ政府高官が「今後,感染症の医書をひもとく必要はなくなった」といい放ったが,この認識が大きな誤りであったことは,AIDS,鳥インフルエンザ,そしてエボラ出血熱などの例をあげるまでもない.AIDS,結核,マラリアの3大感染症は,罹患者数や死亡数は減少傾向にはあるものの,天然痘でなし遂げた“根絶(eradication)”にはほど遠い.
 感染症にはいくつかの分け方があり,そのひとつは“新興・再興感染症”である.前者はかつて知られていなかった新しく認識された感染症で,局地的・あるいは国際的に公衆衛生上問題となる感染症であり,AIDS,エボラ出血熱やクリプトスポリジウム症が知られている.一方,後者は公衆衛生上問題とならない程度にまで患者数が減少していた感染症のなかで,再流行により患者数が増加したものをさし,結核やマラリア,サルモネラやコレラなどがあげられる.
 そして最近注目されているのが,“顧みられない熱帯病(Neglected tropical diseases)”で,NTDsとよばれ,WHOによって現在17の感染症がリストアップされている.これらは,貧困に根ざしていることから,社会,国,国際社会そして企業から無視されてきた疾病であり,3大感染症以外にも対策を重点的に行うべき感染症であるとの考え方に基づいている.このなかには,デング熱,狂犬病などのウイルス性疾患,コレラ,ブルーリ潰瘍,Hansen病などの細菌性感染症,そしてトリパノソーマ症,土壌媒介線虫症やエキノコックスを含む寄生虫症が含まれている.
 しかし,感染症はこれだけではない.ジカ熱のようにアフリカを起源とするウイルス性疾患がブラジルで大きな問題となるなど,感染症に国境はなく,わたしたちはつねにあらたな感染症の脅威に備えなければならない.そのためには現状を把握し,グローバルヘルスの観点から幅広い分野の研究者が多様なアプローチで挑戦していく必要がある.本連載では世界の感染症研究と対策の潮流を紹介しつつ,感染症対策の歴史から現在の政策までを含む分野横断的な視点から,NTDsの先にある“これからの感染症への取組み”を読者の皆さんとともに考えていきたい.
 書き下ろし
 はじめに―別冊化にあたって(北 潔)
 はじめに(北 潔)
感染症の全体像を知る
 1.感染症の現状―3大感染症から新興・再興感染症,NTDs(森保妙子・他)
  ・世界における感染症のインパクト
  ・3大感染症
  ・新興・再興感染症
  ・顧みられない熱帯病(neglected tropical diseases:NTDs)
  ・世界に蔓延する住血吸虫症
  ・NTDsの根絶に向けて
 2.感染症対策の歴史・成功例:日本における寄生虫対策と国際保健協力(多田 功)
  ・土壌伝播性寄生虫
  ・日本住血吸虫病
  ・フィラリア病
  ・マラリア
  ・国際保健協力
 3.“歴史疫学”の世界―日本におけるマラリア,日本住血吸虫症,フィラリアの制圧とその経験の歴史化(飯島 渉)
  ・政治的課題としての感染症
  ・橋本イニシアティブの記憶
  ・感染症の抑制と日本の経験
  ・感染症データ・クライシス
  ・“歴史疫学”の世界
  ・マラリアの抑制―その歴史学的な知見
  ・八重山のマラリア対策
  ・マラリア制圧をめぐるデータのあり方
  ・データの歴史化
  ・日本住血吸虫症と山梨メソッド
  ・フィラリアの抑制をめぐるデータ
  ・目黒寄生虫館の大鶴正満資料
  ・中央研究院台湾史研究所档案館の大鶴資料
  ・オーラルヒストリーの試み
  ・“資料をつくる”
対策が急がれる感染症
 4.エボラウイルス研究の現状と最新の知見(高田礼人)
  ・エボラウイルスおよびマールブルグウイルスによる感染症の流行
  ・エボラウイルスの病原性
  ・エボラウイルス蛋白質と機能
  ・ワクチン開発
  ・治療法開発
  ・エボラウイルスの自然宿主
  ・フィロウイルスの分布域
 5.デング熱・ジカ熱(森田公一)
  ・疫学
  ・伝播様式
  ・症状
  ・実験室診断
  ・治療
  ・予防
  ・急がれる対策
 6.エンテロウイルス71研究の進展(小池 智)
  ・EV71の性質
  ・EV71受容体の同定
  ・動物モデル
  ・SCARB2tgマウスによる病原性解析や応用
 7.ブルーリ潰瘍・ハンセン病・結核―抗酸菌感染症対策を考える(四津里英)
  ・抗酸菌Mycobacteriumとは?―敵を知る
  ・どのような病気?―疫学から臨床まで
  ・なぜ抗酸菌感染症はなくならないのか?
  ・なぜこれら感染症対策が急がれるのか
  ・今後の抗酸菌感染症対策の展望
ワクチン・新薬・診断法の開発
 8.マラリアワクチン開発―BK-SE36マラリアワクチンの臨床開発(堀井俊宏)
  ・マラリアワクチン開発における主要な問題点
  ・これまでに開発されてきたマラリアワクチン
  ・BK-SE36マラリアワクチン
  ・今後の見通し―ワクチンの導入による効果の予測
 9.ユニバーサル肺炎球菌ワクチン(宮武 浩・生田和良)
  ・増加しつつある肺炎球菌感染症  ・ユニバーサルワクチンの開発
  ・現在の肺炎球菌ワクチン
 10.抗感染症薬―微生物の生産する抗生物質を中心に(塩見和朗・大村 智)
  ・細菌感染症治療薬  ・蠕虫感染症治療薬
  ・原虫感染症治療薬
 11.顧みられない熱帯病(NTDs)に対する地域診断とサーベイランス―複数感染症に対する一括抗体測定系の開発と調査システムの構築(金子 聰・藤井仁人)
  ・顧みられない熱帯病(NTDs)に対する一括同時抗体価測定系と地域診断開発の背景
  ・NTDsに対する血清抗体価測定による地域診断
  ・これまでの取り組み
  ・今後の展開―第三期研究開発に向けて:2015年度〜2019年度(phase III)
人獣共通感染症
 12.エキノコックス症:日本における多包虫症の実態と人獣共通感染症としてのこれからの課題(八木欣平)
  ・エキノコックス(多包条虫)と多包性エキノコックス症(多包虫症)
  ・わが国での歴史
  ・エキノコックス感染実験施設を用いた研究
  ・これからの課題
 13.グローバルな人獣共通感染症:トキソプラズマ症―トキソプラズマ感染が環境と人間活動に及ぼす影響は?(西川義文・猪原史成)
  ・トキソプラズマ
  ・トキソプラズマの感染源
  ・感染による妊婦・胎児への影響
  ・慢性感染がヒトへ及ぼす影響
新しい手法・視点からのアプローチ
 14.気候変動とマラリア:流行予測をめざして(皆川 昇・他)
  ・気候変動
  ・気候変動とマラリア
  ・気候変動予測をもとにしたマラリア流行予測
 15.メタボロゲノミクスによる腸内細菌叢の機能理解(福田真嗣)
  ・腸内エコシステムの破綻がもたらす腸管関連疾患
  ・腸内エコシステムの破綻がもたらす全身性疾患
  ・腸内細菌叢がもたらす免疫修飾機構
  ・腸内細菌叢由来代謝物質による生体修飾機構
 16.人類はマラリアを根絶できるか―島嶼からの挑戦(加賀谷渉・金子 明)
  ・地球規模マラリア根絶
  ・マラリアとの闘いの歴史
  ・貧困の病
  ・サハラ以南アフリカにおけるマラリア撲滅
  ・集団投薬によるマラリア撲滅戦略
  ・オセアニア・ヴァヌアツ島嶼からの挑戦
  ・プリマキンとG6PD欠損症
  ・ケニア・ビクトリア湖島嶼からの挑戦
  ・住民主導による集約的マラリア撲滅維持戦略
  ・島嶼から内陸へ
 書き下ろし
 17.人類生態学からみた顧みられない熱帯病対策―近代疫学との対比から(門司和彦・西本 太)
  ・人類生態学
  ・近代疫学の発展と課題
  ・顧みられない熱帯病(NTDs)へのアプローチ
世界の潮流
 18.2030年の国際目標に向けたグローバルファンドの役割(國井 修)
  ・グローバルファンドが世界にもたらしたインパクト
  ・三大感染症流行の課題と今後の目標
  ・国際目標到達のためのグローバルファンドの新戦略と役割
 19.SDG時代の感染症対策のあり方―WHO結核世界戦略End TB Strategyを例に(錦織信幸)
  ・感染症対策におけるパラダイムシフト
  ・MDG時代の健康開発モデル
  ・持続可能な開発のための2030アジェンダ
  ・感染症対策のあらたな枠組み―WHO結核世界戦略The End TB Strategyを例に
  ・SDGs時代における感染症対策のありかた
 20.顧みられない熱帯病の治療薬開発へのDNDiの役割(山田陽城)
  ・DNDiの設立とその役割
  ・DNDiによる治療薬開発における臨床試験
  ・DNDiの活動―10年間の成果
  ・顧みられない熱帯病治療薬開発をめぐる状況の変化と日本の役割
  ・DNDiの最近の動向と今後の課題
 21.GHIT Fund―日本発の官民パートナーシップによるグローバルヘルスへの挑戦(鹿角 契・B.T.スリングスビー)
  ・感染症と世界,そして日本
  ・世界で蔓延する感染症
  ・感染症創薬開発,そして日本の貢献
  ・GHIT Fund―日本のイノベーションをグローバルヘルスに
  ・日本,GHIT Fundの役割
日本の役割:過去・現在・将来
 22.J-GRID,AMED,グローバル・ヘルス(永井美之)
  ・感染症に国境なし,感染症研究に国境あり―J-GRID発足の背景
  ・海外研究拠点の建設―パートナーシップの多様性を尊重
  ・J-GRID成立の基盤―過去の友好と主権の尊重
  ・J-GRIDのミッションと成果
  ・いまだ初歩的な人材育成
  ・成果の社会還元とプログラムの普及,啓発
  ・J-GRIDのAMED編入による継続
  ・AMED編入に伴う若干の組織改変
  ・AMEDの理念
  ・グローバル・ヘルスガバナンスとJ-GRID
  ・武器をもつこと(イノベーション)への過度の期待は禁物
  ・グローバル・ヘルスの理念から遠い“侵入リスクと国内ニーズ”に基づいた課題設定
  ・事業の普及啓発活動の再開と強化
 23.グローバルヘルス:日本の時代の到来(野村周平・他)
  ・グローバルヘルス興隆のはじまり
  ・グローバルヘルスの転機
  ・日本の時代の到来
  ・日本のグローバルヘルス政策
  ・G7伊勢志摩サミットと日本主導の政策形成

 サイドメモ目次
  戦争とマラリア
  J-GRID,SATREPS
  ADE
  コンジュゲートワクチン
  一括抗体測定技術の原理(Luminex(R)テクノロジー)
  アフリカ開発会議(TICAD)
  エキノコックス属条虫の分類
  エキノコックスの名前の由来とその生活環
  トキソプラズマ症の治療
  腸内エコシステム
  短鎖脂肪酸
  アルテミシニン開発
  無症候性マラリア原虫保有者
  バクストン線
  ミアズマ説と権威の傲慢さ
  顧みられない熱帯病(neglected tropical diseases:NTDs)とは
  用語解説
  グローバル・ヘルス
  “保健医療2035”策定懇談会
  国際保健に関する懇談会
  2016年G7サミットに向けたグローバルヘルスワーキンググループ