やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 名古屋大学大学院医学研究科頭頸部感覚器外科・顎顔面外科 上田 実

 いわゆる臓器移植法が施行されてから2002年7月でほぼ5年が経過した.この間行われた臓器移植は心臓6例,肺3例,肝7例で脳死のトータルドナーは19例にすぎない.一方,欧米では年間の心臓移植だけに限ってもアメリカで約2,000例,ドイツでも約500例が行われている.これに比べるとわが国の移植数は余りに少ない.宗教的な理由でドナーが少ないのだという解釈もあった.しかし,同じ仏教圏である台湾でも年間心臓移植数が約300例,韓国やタイでも百数十例の移植手術が行われているのである.その反対に国内での移植をあきらめて海外で手術を受ける患者は増え続けている.よりドナーが出やすくするために,臓器移植法の改定が検討されているようだが,当面急激なドナーの増加がみこめない.このままではわが国の移植医療は遠からず大きな危機に直面するだろう.
 そこで,再生医学(regeneration therapy)に期待が集まるのは当然のなりゆきである.再生医学は生体のもつ自己修復力によって臓器や組織を再生させる医療技術といってよく,ドナーを必要としない.再生力の主役は幹細胞である.現在ではまだ,皮膚や骨といった組織レベルで臨床応用が行われているにすぎないが,将来は心臓,腎,肝などの大型臓器の再生も可能といわれる.そうなれば,現在問題となっている臓器不足は根本的に解消するはずである.また,自己細胞を利用するので臓器移植に不可避であった免疫拒絶の心配もない.
 この夢のような治療法が可能性の段階から現実のものになろうとしている.しかし再生医学が本当に臓器移植にとって代わるには多くの技術的な課題が解決されなければならない.さらに臓器づくりの過程で使用される生殖細胞の取扱いやヒト細胞の商業利用をめぐっては倫理的・法的議論が残っている.
 本書では再生医学研究の現状と将来の臨床応用に向けての課題を解説する.再生医学研究の現状と課題については,それぞれの領域の第一級研究者の方々に執筆をお願いした.また,将来の臨床応用と産業展開に向けた取組みを,産・官・学それぞれの立場から紹介していただいた.
 ■再生医学とクローン,ES細胞,組織工学
 最近のバイオテクノロジーの進歩はめざましい.つぎつぎに新しい概念と用語が登場し,再生医学の周辺にもいささか混乱があるようなので,まず著者の考えに沿って再生医学の定義をしてみたい.
 図1を参照していただきたい.はじめに広い意味の再生医学には個体レベルで再生するのか,臓器レベルで再生するのか,組織レベルで再生するのかによって区別される.これらすべてが再生医学に包含されるのだが,どのレベルの再生をめざすのかによって研究戦略も倫理的な問題も違ってくる.つぎに組織工学(tissue engineering;ティッシュエンジニアリング)と,最近よく耳にする“クローン“や“胚性幹細胞(ES細胞,万能細胞)”を区別しなければならない.クローンは“同じ遺伝形質をもつ個体をつくること”を意味している.方法は優良な家畜の繁殖をめざす受精卵クローンと,ドリーで有名になった体細胞クローンがある.再生医学と直接関係しそうな方法は体細胞クローンのほうなので,こちらを簡単に紹介する.
 体細胞クローンは特定個体の体細胞の核を別の個体の除核卵母細胞に導入し,代理母の子宮に移植する.やがて生まれた個体は,体細胞を提供した個体とまったく同じ遺伝情報をもつことになる.したがって,この個体から臓器を摘出すれば,理論上まったく免疫拒絶が起こらずに臓器移植ができるわけである.ただし,いっさいの倫理上の問題を無視した場合である.
 つぎに胚性幹細胞であるが,その多分化能のゆえに万能細胞とよばれたり,英名(embryonic stem cell)を略してES細胞とよばれている.1998年ウィスコンシン大学のThomson博士によって確立された方法で,受精卵が胎児になる前に胚盤胞を開き,細胞を株化する.培養下でいつまでも分裂を続け,人体のどの細胞にもなるので万能なのである.たとえば,糖尿病患者のためのインスリン産生細胞,うっ血性心不全患者のための心筋細胞,Parkinson病やAlzheimer病のための神経細胞などである.将来,ES細胞を使って自在に臓器をつくることが実現すれば,移植臓器づくりに期待がもてる.
 このようにクローン技術では個体づくりも可能であり,ES細胞を使えばまるごとの組織,臓器をつくることも可能である.ともに大きな可能性を秘めているが,この2つの技術は受精卵を使うという点でなお倫理的な問題が残されている.
 これに対して,狭義の再生医学として用いられる概念が組織工学である.組織工学では原則として生殖細胞は用いない.成人の体の中に残っている組織幹細胞を取り出し増殖させて,適切な細胞の足場(scaffold)を組み合せて人工的に組織,臓器を組み立てていく.いわばバイオマテリアル(人工材料)に細胞を組み込み,その性能を限界まで高めた人工組織ということができるだろう.バイオマテリアルを用いず細胞だけを移植する細胞治療も組織工学に含まれる.使用する幹細胞が受精卵由来でないかぎり,組織工学では倫理的問題はほとんど発生せず,もっとも現実的な方法といえるであろう.さらに幸運なことに,組織幹細胞のなかには発生学の常識では考えられない,胚葉起源を越えた可塑性が存在することもわかってきた.これによって,体細胞組織工学がより大きな可能性をもったことは確実である.
 ■再生医学研究の現状
 クローン,ES細胞を使った臓器づくりでは,法的にヒト細胞を使った研究は強い規制を受けている.しかし近年,次第に緩和の方向にあり,近未来にはヒトES細胞を使った臓器づくりが行われるだろう.クローンは技術的な問題ではなく今後は倫理の問題として取り扱われるであろう.ES細胞ではサルの卵細胞から分離したES細胞から複数の臓器がつくられた.ただし望みの組織,臓器を100%確実につくるという段階にはまだ至っていない.
 一方,組織工学による臓器づくりではすでに皮膚,骨,軟骨,神経,角膜などの組織での臨床応用がはじまっている.ただし心臓,肺,肝などの大型で活発な代謝を営む臓器では栄養血管の構築が不可欠であり,さらに複数の細胞種から構成されているため,組織工学技術だけでは限界がある.そこで血液供給の問題と細胞種の問題を解決するために,対外循環回路のなかに肝細胞や膵β細胞を組み込んだバイオリアクターを接続し,肝機能や膵機能を代行させるハイブリッド人工臓器が考えだされた.また,マイクロカプセルのなかに膵β細胞を封入し,腹腔内に移植するカプセル化臓器という方法もある.このカプセルの膜は免疫隔離膜としても働くので,内部に封入する細胞はヒト細胞でなくてもブタβ細胞でもよいとされている.
 いずれにしても再生医学を支える技術であるクローン,ES細胞,組織工学は幹細胞という要素で共通している.今後は相互に補完しあう形で人体再生を実現していくであろう.
はじめに 上田 実
  ■再生医学とクローン,ES細胞,組織工学
  ■再生医学研究の現状
  ■再生医学の役割
1.再生医学の現状と展望 高久史麿
 Regeneration medicine-Present states and future perspectives
2.再生医学における臨床医の役割 上田 実
 The contribution of a clinician to the regenerative therapy
  ■再生医学における臨床医の役割―科学と技術の違い
  ■産業展開における臨床医の役割
  ■ジャパン・ティッシュ・エンジニアリング社の設立
3.再生医学における生物学の役割 立野知世・吉里勝利
 Role of biology for regenerative medicine
  ■生物における再生現象
  ■再生生物学と再生医学
  ■サイエンスと再構築
  ■再生医学としての器官の再構築
  ■幹細胞研究
  ■今後の課題
4.再生医学における材料学の役割 田畑泰彦
 Role of biomedical materials in tissue engineering
  ■組織・臓器再生のための場
  ■医療に用いられる生体材料
  ■再生医学における生体材料の役割
  ■生体材料を用いた組織再生の一例
5.再生医療研究をめぐる最近の状況 佐藤陽次郎
 Administrative movement in regenerative technology
  ■ミレニアム・プロジェクトにおける再生医療
  ■ヒトクローン技術などの規制に関する法律の成立およびヒトES細胞の樹立および使用に関する指針(案)の検討
  ■今後の取組み
6.再生医学における産業界の役割―J-TEC設立をとおして 小澤秀雄
 The industryユs role in the regenerating medicine-Perceptions from foundation of Japan tissue engineering Co.Ltd.
  ■TE産業の現況
  ■産業として発展するための課題
7.再生医学と倫理問題―文明的転換点 米本昌平
 Regeneration medicine and ethical issues
  ■倫理問題への対応の枠組み
  ■アメリカにおけるヒト胚実験の規制
  ■ヒトES細胞の成立と規制問題
  ■アメリカ以外におけるES細胞規制
  ■再生医療に向けての倫理的課題
  ■組織工学と今後の課題
8.心臓の組織工学 福田恵一
 Cardiac tissue engineering
  ■心臓の組織工学とは
  ■血行再建のための組織工学
  ■心不全治療を目的とした組織工学
  ■再生弁,再生血管を用いた組織工学
  ■21世紀の展望
9.血管の組織工学―血管壁をつくる 野一色泰晴
 Tissue engineering of blood vessel-Creation of blood vessel wall
  ■血管成長因子の活用
  ■意図的に血管壁を作製する研究
  ■in vivo tissue engineeringのはじまり
  ■生体内で効率よく血管壁を作製させる研究
  ■生体外で血管壁を作製する研究
  ■異種細胞の混在と細胞塊の活用
  ■静脈組織細切片の移植
  ■骨髄組織の活用
  ■血管壁を活用する研究
10.指関節の組織工学 磯貝典孝・他
 A tissue-engineered phalanx-joint construct
  ■研究の背景
  ■生分解性ポリマーと移植細胞による新生組織の再生
  ■指関節tissue engineeringの現状
  ■今後の課題
11.骨の組織工学―同種移植と遺伝子導入 赤羽 学・他
 Tissue engineered bone formation
  ■新鮮骨髄細胞のHA内での骨芽細胞への分化
  ■培養骨髄細胞の移植
  ■遺伝子導入をした培養骨髄細胞の移植
12.関節軟骨再生のための組織工学 脇谷滋之
 Tissue engineering for caritlage regeneration
  ■軟骨とは
  ■軟骨細胞移植
  ■幹細胞移植
13.造血幹細胞の分化と増殖 堀田知光
 Tissue-engeneering of hematopoietic cells
  ■CD34+細胞の体外増幅
  ■CD34陰性/分化抗原陰性のあらたなクラスの造血幹細胞とその増幅
  ■造血幹細胞の体外増幅の臨床応用
  ■体外増幅研究の問題点と将来展望
14.皮膚の組織工学の現況と未来―21世紀への課題,生着率の向上 矢永博子
 Tissue-engineered human epithelial grafting
  ■皮膚の役割と組織工学
  ■表皮細胞の培養法
  ■培養表皮移植の種類と特徴
  ■培養表皮移植の治療成績
  ■培養表皮の今後の課題
15.角膜の組織工学―培養角膜上皮を用いた眼表面再建への試み 平野耕治・畠賢一郎
 Ocular surface reconstruction with cultured corneal epithelium
  ■難治オキュラーサーフェイス疾患
  ■治療的角膜移植と培養角膜上皮移植への期待
16.末梢神経の組織工学 清水慶彦
 Tissue engineering for peripheral nerve regeneration
  ■末梢神経再建の必要な臨床例
  ■末梢神経再建法の臨床の現状
  ■人工的合成高分子材料による神経ガイドチューブ
  ■生体内吸収性天然材料・酵素抽出コラーゲン性神経ガイドチューブ
  ■抽出コラーゲンと分解吸収性合成材料とのコンポジット神経ガイドチューブ
  ■今後の課題
17.Parkinson病治療への応用をめざした幹細胞工学の現状 澤本和延・岡野栄之
 Recent advances in stem cell technology for treatment of Parkinson's disease
  ■神経幹細胞
  ■骨髄細胞
  ■胚性幹細胞
18.脂肪の組織工学 鳥山和宏・川口信子
 Tissue engineering of fat
  ■脂肪の組織工学
  ■前脂肪細胞の移植
  ■マトリゲル+増殖因子の移植
  ■脂肪の組織工学の展望
19.膵の組織工学 大河原久子
 Pancreatic tissue-Replacement and regenerative medicine
  ■diffusion-chamber型バイオ人工膵(島)
  ■問題点
20.肝幹細胞を利用した肝組織の再構成 寺田邦彦・杉山俊博
 Reconstitution of hepatic tissue from hepatic stem cell
  ■初代培養分離肝細胞を用いた肝組織再構築
  ■小型肝細胞を用いた肝組織再構築
  ■肝幹細胞を用いた肝組織再構築
21.唾液腺の組織工学―唾液腺組織の構造・機能と再生 重冨俊雄
 Tissue engineering of salivary gland
  ■唾液腺の臨床解剖
  ■唾液腺の構造
  ■唾液分泌機構
  ■唾液腺疾患
  ■唾液腺の再生・培養実験
  ■唾液腺の組織工学

■サイドメモ
 胚性幹細胞
 再生医学の研究拠点を
 組織幹細胞の可塑性
 ドラッグデリバリーシステム(DDS)
 組織工学/scaffold/GMP/TLO/アカウンタビリティ
 タスキギー梅毒事件
 四肢の再生現象
 骨髄間葉系細胞
 培養表皮と21世紀の課題
 角膜上皮細胞の重層培養
 コラーゲンの医用材料としての応用
 神経幹細胞
 脂肪形成と血管新生
 肝細胞移植と人工肝
 マトリックスを用いた腺房様構造の構築