やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 二一世紀,この豊かな社会は多くの人々の貢献で築きあげられてきた.高齢者は,今までの社会をつくりあげた貢献者としてだけでなく,その知識・経験・見識の宝庫として敬われるべき社会の一員である.また障害者や子どもなど心と体に痛みをもった人々も同じく社会の一員である.これらの人々が活性化する社会は,質の高い,安心できる社会だ.
 彼らと彼らを取り巻く人々が,安全の確保された癒しの環境のなかで,身体的に元気がみちあふれ,心理的に安心できる総合的な満足のなかで,最期のときまで人間らしく生きていけるのは,当然の権利だ.
 日本の経済は低迷を続け,人々は金利の低い貯蓄に向かっている.老後の不安を払拭するためには,収容施設を作っただけでは不十分だ.施設の中で残りの金を数える一方で,規則にしばられ,幼児のような遊戯をリハビリテーションといわれて一斉にさせられる姿は,人間の尊厳を保っているとは思えない.
 施設に入ると,たとえば一か月三〇万円なら三〇万円払う.それはどんなにいい介護でも三〇万円,どんなに変な介護でも三〇万円払わなければならない.現実にはお客様として選ぶことはできない.きょうはあの人に介護してほしいということはできないのだ.
 規制の中で,介護の基準というのが老人の場合は低い.病院ならば二対一看護とか,夜勤をすればA加算だとかB加算だとかというのがあるが,老人施設の場合はそういうものが全然ない.今まで見あった数の職員がいると痴呆加算というのがあったが,介護保険が導入されてから痴呆加算はなくなってしまった.
 しかし,目の届かないところで,部屋の壁紙を全部はがしてしまうとか,椅子もどこか糸が一本とれるとそこから全部破ってしまうなど,一日中いろいろなことが起きている.本当に目が離せない.その目の離せない人たちを介護保険施設では三対一の介護という名で介護が行われている.本当は三人に一人の介護職員はいない.夜勤があって休日があって,明けがあって,早番とか遅番があるとなれば,いつもいるのは三〇ベッドに対して三人ぐらいである.一人で一〇人をみなければならない.
 老人の利用する有料介護施設は一対一でやっているところがある.人数が多いとよい介護がうけられるか? 否.金持ち老人も固くなって天井の一点を凝視している.
 そこへ入るのに一五年前でさえ二千何百万円,月々二〇万円以上の管理費を要求された.にもかかわらず,おむつの交換時はそれこそおむつ交換所といわれるようなところに全員おまたを開いた状態で並べさせられているところがあった.近所のおばさんらしいパートの人たちが,嫌よね,汚いわねと口に出しながらやっている.自分のやっている仕事が,どれだけ一人の人生を変えるかもしれないということを理解しなければいけない.
 高齢者側にも問題がある.もう仕方がない,家族に迷惑はかけられないから施設に入る.夜になると抑制されるので,自分のほうから両手を出して,はい.それを虐待と思っていないというところに社会の未熟さがある.みんなもっと堂々と生きていていいのに.
 社会も変えたい.子どものときに何になりたいかと聞かれたときに,社長になりたいとはいうが,果たして介護施設の長になりたいといってもらえるか.こんなふうに処遇していると,世間的にも社会的にも認められない.だれがそこで世話をされたいと思うだろうか.
 宇野ひさのさん(仮名)は,足が痛いと三か月入院している間に完全にぼけてしまった.一日二〇時間眠り,子どもの顔も名前もわからなくなった.
 無理やり家庭にひきとった家族が,日中は座らせ,栄養のあるものを食べさせ,ピンクの服を着せ,香水をつけ,「お母さん,きれいね」と呼びつづけた.ひさのさんは一か月で正常にもどった.プールで泳ぎ,子どもの顔も孫の顔もわかるようになった.ヨーロッパ旅行まで行けたのである.
 「お母さん,寝たきりのとき,どんな感じだったの」「そうね,不思議の国のアリスみたいだった.ときどきわかるけど,霧の中でとまどうことが多かったの」.
 アルツハイマー病と診断され,アリスになることがわかってしまう人.私たちはいつアリスになるかわからない.アリスが迷いこむところが癒しの国であるとわかっていれば,安心して新しい世界に入っていける.高齢者でもぼけていても人間的に生きることが保証される世界,それが癒しの国である.
 癒しの国に迷いこんだアリスは,物忘れがひどくなりつつあるお年寄り.でもそれは,著者自身であり,読者であるあなたかもしれない.
 こういう思いから,これまで語ったり書いたりしたものをまとめたのが本書である.人にはだれしも尊厳があり権利がある.アルツハイマー病の患者さんも然りである.そのことをかみしめていただければ幸いである.
 高柳和江

おわりに

 一四年前にクウェートで一〇年間,国際的に小児外科医として,また,たった一人の日本人医師として働いてきたあと,日本に帰り,カルチャーショックを受けた.医療におしつぶされ,小さくなって死んでゆく患者さん.堂々と明るく死んで! 『死に方のコツ』(飛鳥新社刊)はこうして生まれ,多くの方々に読んでいただいた.
 死ぬのはわるいことではなくなった.でも死ぬのはがんばかりではない.年をとって老衰でも死ぬ.高齢でぼけたからと,からかわれ,さげすまれ,卑屈になって生きている多くの人々.これが当時の日本だった.
 この本は,ぼけていても元気でも,高齢者が尊厳をもって生きる「アルツハイマー病患者の権利」に出会ったときからはじまった.
 たまたま東京都が『都立病院の「患者権利章典」』を起草する栄に浴した.ソムリエでもここまでしないというほどに深くつっこんで,一言一句を吟味した.日本の自治体で初めてつくる「患者権利章典」である.すべての病気の人が対象である.これを作ったことが大切である.多くの方々の力になればと思う.
 私は仲間と,多職種の医療提供者や医療環境専門家が建設的に参加する「癒しの環境研究会」を八年前に立ち上げ,研究と国内外での施設見学を続けてきた.とくに近年は高齢者介護のソフトに関する研究を,広く世界中から検索してきた.そうすると,痴呆の方でも生き生きと明るく生活し,介護する方も心からその方のためを思って働いている現場に出会った.
 日本には日本特有の文化があり風土がある.この中でいま,一人ひとりの人間性を尊重しつつ,みんなが魔法にかかったとおどろくような人間的な介護を行う場の実現をめざそう,日本の高齢者の豊かな社会生活,すなわち日本社会の豊かな生活を実現しよう,吠えてるだけでは駄目,行動しなきゃ,というわけで,癒しのライフ研究財団をつくろうと思いたっている.
 癒しのライフ研究財団設立の目的はつぎのようなものである.
 一,高齢者中心の癒しのライフの確立
 二,癒しのライフ方法の研究および支援
 三,チームリーダーの育成・管理者教育
 四,癒しのライフのハードのサポート
 五,癒しのライフの評価
 六,癒しのライフ介護事業支援
 七,研究会,会誌発行,啓蒙運動
 八,国内外視察
 九,その他,癒しのライフ運動に関すること
 話をすれば,みんな大賛成してくれた.読者の皆さんも,私たちの会員になってください.癒しのライフ研究財団設立にご支援とご鞭撻をたまわることができれば,とってもうれしいです.
 実は,この本の担当編集者岸本舜晴さんは,私の人生を変えた人でもある.医学生時代『新小児外科学』(医歯薬出版,一九七五年刊)という一冊の本を手にした.「小児は大人のミニチュアではない」と,子どもの権利を堂々と謳いあげ,その生命を救うために奮闘された感動の本であった.私は神戸から東京へ出て,著者の日本小児外科の父,駿河敬次郎先生の門下に入り,小児外科医となった.その『新小児外科学』の企画者が同じ岸本さんだったのである.高齢者の権利を訴えるこの本を出すのに,これ以上の人がいるだろうか.癒しの環境研究会全国大会で,本書を皆さんにお渡ししたいという私のわがままを聞いて,発刊までの短い時間,奮闘してくれた彼に感謝したい.
 いろいろな方々との出会いのなかに人生がある.その人生が集まり,縦横に織りなして社会をつくっていく.
 この本がきっかけになり,さらに明るく陽気な日本社会にかわっていくことを願っている.暗い話ばかりを掘り下げるのではなく,明るいことを求めていくことで経済も上向いていくことを信じて.
 この本のためにご協力くださった癒しの環境研究会はじめ多くの皆さん,ありがとう.これを読んでくださった方,ありがとう.明るい社会のために,明日の高齢者であるわれわれ自身が楽しむことのできる社会を共につくっていきましょう.
 二〇〇一年六月吉日 柳和江

 温かく包み込むような気持ちを表した癒しの環境研究会のシンボルマーク
 病院 家 笑顔 手をつくす あたたかく 包みこむ
 木下勝弘 株式会社デザイン倶楽部
 癒しの環境研究会 代表世話人 柳和江 日本医科大学医療管理学教室
 〒113-8602 東京都文京区千駄木1-1-5 TEL:03-3822-2131 内線5414 FAX:03-3822-8144
 E-mail iyashi@nms.ac.jp ホームページアドレス http://www.jshe.org/
はじめに

I 癒しについて
 心の癒しと生命力
  砂漠の中では
   クウェートという国 ベドウィンの父と子
  看護と癒しの気
   ゲーム サケ・人の命
  医学の進歩のなかで
   EBMの視点 臨床的貧困とは ネオテニーとは
  子どもと癒し
   ある小児病院 チャイルド・ライフ・スペシャリスト 癒しの環境の例
  がんについて
  育つということ
 高齢者と癒しについて
  高齢者は人間らしく最後まで生きる権利がある
  高齢者をもっと理解しよう
 セクシーに美しく生きること,そして夫婦とは
  セクシーに美しく
  美しい想い出のなかで
  年上と年下
  わが愛しのソウルメイト

II 患者さんの尊厳について
 高齢者の孤独と孤立
  孤独,孤立とは
   孤独の理由 孤独の感情反応 孤独の対処行動
  高齢者の孤独と孤立の対処法
   精神的孤立 隔離孤立 拘束孤立 未来孤独
 患者さんの心理
  言葉かけひとつで患者さんはゆらぐ
   喜ばれる言葉,嫌われる言葉 命令的・指示的・拒否的な言葉は患者さんの人間性をそこなう
  痴呆のはじまり
 その人らしさ,個を尊重しよう
  ぼけのある人の行動と心理
   行動には理由がある 行動には目的意識がある
  アウシュビッツ収容所と心理的変容
   フランクルの分析
  患者さんの七つの心理的特性
  患者像に対する意識変革
  ストレスコーピングスキル
  医療者と患者さんの物事のとらえ方・意識の差
 最後まで上手に生き,そして上手に死ぬためのコツ
  患者さんについて学ぶ
  痴呆ということ
   ぼけを防止するためには よく遊び,たくさん笑って楽しく過ごす 見ざる・いわざる・聞かざるからの脱却 施設の中で
  痴呆と入れ歯
  人間の尊厳を認める接し方
   人間はいくつになっても成長することができる パッチ・アダムス ほめる訓練
  「ぼけても明るく」一〇のポイント
  アルツハイマー病患者からのお願い
  老化を超えて
   社会と関係をもてば元気が出る 癒しの環境をつくろう 老化とは 元気になる方法 年をとったら買うべき三種の神器,必需品 気合いで脳を活性化
  最後まで上手に生きるには
   社会に生きたことを還元していく
  癒しの手紙
 死生観について
   死の教育 一葉の写真から

III 患者さんの権利について
 患者さんの権利とは何か―不思議の国のアリスの権利
  『アルツハイマー病患者の権利』について
   診断名を知らされること 適切な医療が続けられる 可能な限り生産的な仕事や趣味をすることができること 表現することをまじめに受けとめること 可能な限り向精神薬を使わないこと 安全な構造の適切な環境に住めること 毎日を有意義な活動で楽しむこと 定期的に屋外にいられること 抱きしめる・愛撫する・手をつなぐなどの身体的コンタクトをもつこと 文化や宗教を含めて,その人の人生の背景を知っている人と一緒にいられること よくトレーニングされた人に世話されること
  『リスボン宣言』
 患者さんの権利について
   『患者の権利章典』 日本の患者さんの権利 積極的権利と消極的権利 個人の権利 アドボカシー 『医の倫理綱領』 在宅で受ける患者の権利 ホスピス患者の権利 成年後見制度 『都立病院の「患者権利章典」』
 知る権利,知りたくない権利,そして患者団体

IV 医療と癒しについて
 病人は何のために病院へ来るのだろう
 医学の進歩の影で
   EBMと創傷治癒 術後の入浴 カウンタートラクションクウェートにて
介護・医療の質の保証
  質の高いケアのための六つのコンセプト
  高齢者とうつ
  医療の質の保証
  看護婦(士)数
  病室
  ミュージックセラピー
  情感値
  生活習慣病と生活エンジョイ病
 米国の病院散見
   サンディエゴ小児病院 カイザー・ベッドレス・ホスピタル ロマリンダ大学病院
  プレスピタリアンホーム

V 癒しの環境について
 癒しの概念と環境づくり
  癒しの環境とは
   患者さんの権利を守る環境 個人の尊厳を守る環境 生きる実感がわく環境 チーム医療が受けられる環境 社会に参加できる環境 癒しの環境の要素
  ストレス反応と癒しの環境
   ストレスに対する二つの反応
  患者さんが認識する医療環境の分析
   医療環境 身体的環境 生理的環境 生活環境 みとりの環境
  癒しと免疫
  環境のハード,ソフトそしてアプローチ
   環境のハード 環境のソフト 環境のアプローチ
  ストレスをとる環境
  活気を生み出す環境
  みとりの環境
 臨床的貧困を防ぐエデン運動
  エデン運動とは
  エデン運動の一側面
   エデンの環境 エデンの居住者たち
  エデン運動はシステム
   一〇エ則によるシステムづくり ハードはできているか
  エデン運動の教育プログラムの実践
  孤独や退屈
   孤独 退屈
  臨床的貧困
 アートについて
  病院とアート
  どんなアートがよいか
 高齢者の照明環境
  照明と色
   照明と色との関係 色彩による心理的効果
  加齢による照明環境の配慮の必要性
   眼の変化 関節などの変化 精神的変化,心の癒し
  高齢者を取り巻く照明・色環境
   自然光をとりいれる照明 人工照明 時間による照明の強弱と睡眠環境 照明器具のスイッチ 施設内の色と照明 ゆとりとしての照明

参考文献
おわりに