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シミュレーション教育の進歩―序にかえて
 鈴木利哉
 新潟大学医学部医学教育学分野,日本シミュレーション医療教育学会理事長

 医学・医療の進歩はめざましいものがある.日本の医学・医療の世界的な地位はつねに議論されるが,男性・女性ともに世界トップレベルの長寿を誇っていることはその質がきわめて高いことを確実に示している.医学・医療が高レベルである原因としてあげられるのは医学教育の質の高さであり,シミュレーション教育の質の高さである.本書では医学・医療に携わるすべての医療従事者および学生を読者対象として,シミュレーション教育を支えるシミュレータの進歩と普及について紹介する.2017年の第10回アメリカ外科学会議American College of Surgeons(ACS)認定教育施設学術大会のパネルでシミュレーション医学・医療教育に関する議論が行われた結果,シミュレーション教育にはきわめて重要な価値があるという提言が行われた1).シミュレーション医学・医療教育に教育的価値があることがエビデンスをもって示されたのである.この提言をもとに本書の目的を説明していきたい.
 シミュレーション教育を含む日本の医学教育は,2013年から国際基準に基づいて分野別評価を受審することにより,その教育の質が評価され,質保証される仕組みが確立した.わが国の高等教育のなかでは医学,工学,薬学と法学のわずか4専門職領域が分野別評価を行っている.他の高等教育の分野ではまだ分野別評価は行われていない.わが国にまったく存在していなかった医学教育分野別評価制度をはじめて導入することに尽力した日本医学教育評価機構の奈良信雄・常勤理事に「グローバルスタンダードにみるシミュレーション教育のあり方」(p.6)について担当していただいた.医学教育では,それぞれの医学部であらかじめ達成できると宣言した能力を卒業時に獲得した医師を社会に送りだす社会的責務を果たすことが重視されるようになり,世界中でアウトカム基盤型教育の導入が進められた.アウトカム基盤型教育ではシミュレーション教育を重要な教育技法と捉えている.わが国におけるアウトカム基盤型教育の急速な普及に原動力となって尽力してこられた田邊政裕・千葉県立保健医療大学学長に「アウトカム基盤型教育のあらたな展開」(p.10)について担当していただいた.シミュレーション教育の進歩はまさにコンピュータの進歩とそれに伴うICTの発展によるものである.「Technology-Enhanced Simulation(TES)」(p.15)について自治医科大学の淺田義和先生に担当していただいた.
 シミュレーション教育には2つの効果がある.ひとつは学習者の臨床スキルが向上するという直接効果であり,ひとつはシミュレーションを行うことにより医療チームの協働がうまくできるようになるチーム効果である1).これにより患者のアウトカムが改善することが多くの研究で示されている2,3).シミュレーション教育は医学部・看護学部・薬学部・歯学部等における卒前医学教育でも医療者の卒後医療教育においても多職種の医療者チームの教育に活用されている4).シミュレーション教育現場で学生や医療者は (1)患者ケア,(2)コミュニケーション能力,(3)チームトレーニング,(4)批判的思考,を学ぶ1).この4つはいずれも医療ではきわめて重要な要素である.東京医科大学においてシミュレータを活用して卒前・卒後のチーム基盤型シミュレーション教育に阿部幸恵先生とともに尽力されている内田康太郎先生に「東京医科大学のシミュレーション医療者教育」(p.28)について担当していただいた.阿部幸恵先生とともに活躍されている東京医科大学病院の冷水 育先生には「看護シミュレーション教育とシミュレータ」(p.152)について担当していただいた.歯科診療では侵襲性がきわめて高いため,侵襲を伴わずに診療手技を学ぶことができる歯科シミュレーション教育はきわめて大きな役割を持ち,大いに進歩している.東京医科歯科大学においてスキルスラボを運営しておられる荒木孝二先生に「歯学教育における最新の歯科シミュレータ」(p.148)について担当していただいた.薬学や検査医学等,医療チームを構成する医療者の教育においてもシミュレーション教育はきわめて重要であることはいうまでもない.著者が理事長を務めている日本シミュレーション医療教育学会は2011年に設立され,学会では医療者教育に関わる多職種の医療関係者がシミュレータを活用して医療の質を改善するために協働して研究を行っている.現在会員数は325名にのぼり,年1回学術大会を開催し,学会誌を発行している(図1).
 シミュレーション教育には教育スタッフの充実だけでなく,一定の広さのスペースがあることが重要とされるが,日本最大の5,338m2の規模をもつ国際医療福祉大学シミュレーションセンターの石川和信先生に「新しい臨床実習前教育への挑戦―大人数シミュレーション授業」(p.33)を担当していただいた.本書では欧米,とくに英米のシミュレータの進歩を念頭におき,わが国のシミュレーション教育の進歩と普及を特集している.ロシアにおいては新鮮献体を活用する欧米のなかでは異色かつ独自のシミュレーション教育が発達している.新潟大学の伊藤正洋先生に「ロシアのシミュレーション外科医学教育」(p.39)を紹介していただく.わが国のシミュレータのなかには欧米とは無関係に独自に進化したものがあり,それは漢方医学の診療手技を修得するための腹症シミュレータである.開発にあたられた明治薬科大学の矢久保修嗣先生らに「腹証(漢方医学)シミュレータ」(p.157)を担当していただいた.
 アメリカ医療研究品質局Agency for Healthcare Research and Quality(AHRQ)はシミュレーション教育における医療安全教育が医療に,きわめて有用であることを明らかにしている5).「アメリカのシミュレーション施設認証とシミュレーション教育専門家認定」(p.100)については駒澤伸泰先生らに執筆いただいた.シミュレーション教育は学習者にとって安全・安心な環境で繰り返し系統だったトレーニングを行うことを目的としている1,6).シミュレーション教育により,臨床スキル,コミュニケーション能力,カルテを記録する能力が修得されるが,これにより外科医療の危険性は軽減されるのである1).患者の臓器の特徴(解剖学的変異)をシミュレータに取り入れて手術のリハーサルを行うことにより手術の合併症発生を軽減できる.外科手術チームは術前シミュレーションしておくことで,合併症が起こったときに患者と患者家族とコミュニケーションを適切に行うトレーニングを事前に準備しておくことができる.シミュレーション教育において手術で合併症が起きたときにカルテに記載するトレーニングを取り入れることで,実際に医療過誤が発生したときに医療過誤に対してより適切な対応がとれるようになる.「シミュレータを活用した医療安全教育」(p.21)について杏林大学の本保 晃先生と徳嶺譲芳先生に担当していただいた.
 外科の分野では,胆嚢摘出術をはじめとする内視鏡手術の進歩により外科医をトレーニングする教育プログラムが急速に整備された1,7).外科医はシミュレータを用いて外科手技を学ぶことにより,望ましくない合併症がどのように発生し,それに対してどのように対応できるのかを自らバーチャルな環境で経験しながら学ぶ.これにより外科医は最も診療に適した外科手技を獲得できる.このプロセスにより新型,あるいは,改良型外科手技が開発され,医療ケアやクリニカルパスが進歩してきたのである.バーチャル環境下で内視鏡手術のシミュレーショントレーニングあるいは最先端のロボット(ダヴィンチ(R))支援手術のシミュレーショントレーニングが行われるようになっているが,さらなるトレーニング用シミュレータの整備およびトレーニング教育プログラムの整備が必要とされている8,9).シミュレータの進歩により,中堅外科医は自身の手技のどこに欠陥があるのかを同定できるようになってきており,内視鏡手術医の10%はシミュレータによる試験により自身の能力の欠陥部分を発見しているという10).わが国の「内視鏡手術シミュレータ」について九州大学の橋爪 誠先生に,「ダヴィンチトレーナー(dV-Trainer(R))」(p.86)については鳥取大学の藤原義之先生に担当していただいた.
 シミュレーション教育のコストに関わる検討はまだ不十分でこれからであるが,医療保険制度における有用性はすでに明らかにされている1).外科医をはじめとする外科系の医療職は医療過誤訴訟による高額の賠償金を支払うことが多い11,12).アメリカでは医療過誤が主な死因の第3位とされており13),多くが外科系の医療過誤であるとされる11,12).このような理由から外科医がシミュレータを用いて訓練を受けるのである.外科医が医療過誤を減らすために絶え間のない努力を行った結果,シミュレーション医学は大きく進歩してきたということができる.シミュレーション教育のなかではユニークなコストがかからずに容易に準備できる「骨髄穿刺シミュレータ」(p.144)を著者が紹介する.
 欧米で進化したシミュレータおよびわが国で欧米のシミュレータを改良して進化したシミュレータについてそれぞれの専門家に担当していただいた.医学教育シミュレータは飛行機の操縦士を育成するための操縦室シミュレータcockpit simulatorの訓練法からヒントを得た「ハーヴェイ君」(p.64)の開発から始まったということができる.「ハーヴェイ君」の歴史に詳しく,日本製の「イチロー君」(p.106)開発に携われた近畿大学医学部の階經和先生に心臓病患者シミュレータを担当していただいた.わが国において鳥取大学と企業で共同開発された多機能(喀痰吸引,胃内視鏡,および気道管理)をもつ産学共同開発医療系シミュレータ「mikoto」(p.162)についてMICOTOテクノロジーの檜山康明氏らに担当していただいた.そのほか,現在シミュレーション教育において活用されているさまざまなシミュレータについてはそれぞれ適任の専門家に執筆していただいた.
 通常の概念のシミュレータとは異なるが,動物の新鮮臓器を用いて外科手技をトレーニングするシミュレーション教育ウエットラボ(p.168)については東京ベイ・浦安市川医療センターの渡辺弘之先生に,そして遺体保存された献体を医学研究に活用するカダバーラボ(p.173)については千葉大学の鈴木崇根先生に担当していただいた.
 執筆を快諾してくださったそれぞれのシミュレーション教育の専門家に深謝して筆をおく.
 シミュレーション教育の進歩─序にかえて(鈴木利哉)
Chapter 1.シミュレーション教育の進歩
 1.グローバルスタンダードにみるシミュレーション教育のあり方(奈良信雄)
 2.アウトカム基盤型教育の新たな展開─マスタリー・ラーニングとシミュレーション教育(田邊政裕)
 3.Technology-enhanced simulation(TES)(淺田義和)
 4.シミュレータを活用した医療安全教育(本保 晃・徳嶺譲芳)
Chapter 2.大学の特色あるシミュレーション教育
 5.東京医科大学のシミュレーション医療者教育(内田康太郎)
 6.新しい臨床実習前教育への挑戦─大人数シミュレーション授業(石川和信)
 7.ロシアのシミュレーション外科医学教育(伊藤正洋・他)
Chapter 3.シミュレータの進歩:世界編
 8.高機能患者シミュレータHPSとSimMan 3G(大友康裕)
 9.心肺蘇生のトレーニングに使用されるシミュレータの進歩─心肺蘇生用マネキン・AEDトレーナー(西本泰久)
 10.気道管理トレーナー(本多忠幸)
 11.心臓病患者シミュレータ“ハーヴェイ君”─世界初の心臓病患者マネキン(階經和)
 12.周産期医療におけるシミュレータとトレーニングプログラムの発展(田中和美)
 13.消化器領域超音波のシミュレータ─腹部超音波/超音波内視鏡(林 和直・他)
 14.内視鏡手術シミュレータ(長尾吉泰・他)
 15.ダヴィンチトレーナー(dV-Trainer(R))─ロボット支援手術を安全に行うために(藤原義之)
 16.血管インターベンションシミュレータ(伊藤正洋・他)
 17.側頭骨手術トレーナ,シミュレータ(高橋邦行・堀井 新)
 18.アメリカのシミュレーション施設認証とシミュレーション教育専門家認定(駒澤伸泰・他)
Chapter 4.シミュレータの進歩:日本編
 19.新しい心臓病患者シミュレータ“イチロー君”─世界にはばたく“Simulator K”(階經和)
 20.肺音聴診シミュレータ(吉井千春)
 21.質感を追求したシミュレータの開発─腰椎穿刺,胸腔穿刺から腹部診察モデルまで(荒井孝子・天野隆弘)
 22.中心静脈穿刺シミュレータ(ランドマーク・ブラインド法)(山東勤弥)
 23.消化器内視鏡シミュレータの進歩─基本から応用まで(水野研一・寺井崇二)
 24.気管支鏡シミュレータ─医学生・レジデント教育における気管支鏡シミュレータの有用性(木村陽介・菊地利明)
 25.採血・静注シミュレータ(鈴木利哉)
 26.骨髄穿刺シミュレータ(鈴木利哉)
 27.歯学教育における最新の歯科シミュレータ(荒木孝二)
 28.看護シミュレーション教育とシミュレータ(冷水 育)
 29.腹診シミュレータ─漢方で重要な腹診を教育,標準化するシミュレータ(矢久保修嗣・馬場正樹)
 30.医学×工学によって誕生した医療シミュレータmikoto(檜山康明・川上奈々)
Chapter 5.古くて新しいシミュレーション教育
 31.ウエットラボ(渡辺弘之)
 32.CSTは究極のシミュレーション教育だ!(鈴木崇根)

 サイドメモ
  大学機関別認証評価と医学教育分野別評価
  Millerの臨床能力評価ピラミッド(framework for clinical assessment)
  学習分析LA(learning analytics)
  インストラクショナルデザイン(instructional design)
  In-Situ(インサイチュ/インシチュ)シミュレーション
  シミュレーションセンター
  昔の心肺蘇生
  BURP法
  2つのABCD
  シミュレータとタスクトレーナー
  ロボット支援手術の保険適用
  聴こえない呼吸音
  ハプティクス(Haptics)
  近年の気管支鏡の進歩
  歯科におけるスキルスラボラトリー
  ハイブリッド方式
  シナリオ
  漢方の診察法
  遺体の保存方法