やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序文

 著者が咀嚼運動の神経生理学の研究に携わるようになってから30年近い歳月が流れた.その間,国の内外の多くの研究者の解剖学的・生理学的・生化学的・薬理学的解析によって,咀嚼運動の神経機構に関する膨大な知見が蓄積されてきた.私がこの領域に足を踏み入れた当時を回顧するとき,咀嚼の神経機構に関するわれわれの理解はまことに大きな進歩を遂げ,隔世の感に堪えない.当時は実験的に検証不可能と思われた仮説や想定も,新しい解析手法の開発によって検証可能になり,あるものは妥当性が実証され,あるものは誤りであることが明らかになった.最近では,解剖学・生理学をはじめとする古典的・情報科学的解析に加えて,分子生物学的手法が導入され,今や咀嚼運動の神経機構の研究分野は分子のレベルからシステムのレベルにいたる医学・生物学の広範な分野を含む巨大な研究領域を構成するに至った.またこれらの解析的研究に,最近ではさらに数理科学的・工学的手法を用いた構成的研究が加わり,まさにこの研究分野は疾風怒涛の時代を迎えている.
 一方,このように膨大な知識が加速度的に蓄積され,専門化が急速に進行している状況においては,咀嚼運動の神経機構の全体像が見えにくくなり,この領域を学ぶ者が木を見て森を見ずという事態を招きかねない.ある研究領域の知識体系の全体像の把握なしには,その領域の個々の知見の価値を正しく評価できないし,意義のある研究プロジェクトの設定も不可能である.このような認識に基づいて,咀嚼運動の神経機構に関する現在のわれわれの知識の基本的枠組みを紹介することは重要な意義をもつと考え,本書の執筆を思い立った.
 咀嚼運動の共通の特徴であるリズミカルな顎・舌・顔面の協調運動の基本的司令は,末梢からの感覚入力の関与なしに中枢神経系のなかだけで形成され,この中枢司令が咀嚼運動に伴う顎・口腔・顔面領域の運動感覚情報と口腔内の食物の性状に関する感覚情報によって調整されて,食物に適した咀嚼運動が出現する.本書は,咀嚼の神経機構に関するこのような現代の概念の基盤となる知見を,咀嚼運動の基本的運動パタンの中枢性プログラミングと,末梢性調節による多種多様な運動パタンの形成を中心として解説し,あわせて咀嚼運動の生物学的・人間学的意義に考察を加えたものである.
 咀嚼運動は歯科医学の独自の対象であり,基礎・臨床それぞれの専門領域に関連した咀嚼運動の特定の問題については多くの優れた総説や解説がある.また,これらの研究領域全般を網羅した書物もいくつかあるが,それらはいずれも多数の研究者がそれぞれ専門とする狭い領域を対象とした分担執筆であり,ややもすれば著述に首尾一貫性を欠き,咀嚼の神経機構の統合された全体像が把握しにくい怨みがあった.そこで,咀嚼の神経機構の統一像の把握を目的として,不明を省みず,あえて咀嚼の神経機構の膨大な知見を生理学者としての著者の目から見て整理し,この研究領域の現代像を描き出すという冒険に挑戦したわけである.本書を「咀嚼運動の生理学」と名付けた所以である.本書に目を通すことによって,読者が咀嚼の神経機構の全体像を統一的に把握されることを衷心より期待している.
 単著は,一人の著者の考え方を反映するから,内容の統一性が保持される利点があるが,著者の視座に基づいて内容の取捨選択と意味付けが行われるから偏った記述になる危険性をはらんでいる.研究の結果は客観的であるが,研究に対する考え方と進め方はすこぶる個性的だからである.その意味では,本書の内容は,咀嚼の神経機構の全体像を著者はこう理解しているという,「私見・咀嚼の神経機構」とでもいうべきものかもしれない.また,著者自身が実際に経験したことのない分野では,思わぬ考え違い,記述の誤りがあることを畏れている.読者の忌憚のないご批判・ご指摘をお願いする次第である.
 本書の執筆に当たって,国の内外の多くの研究者の業績を引用させていただいた.ここではいちいちお名前を挙げることはできないが,咀嚼運動の神経機構の理解に大きく貢献されたこれらすべての方がたに深い敬意を表すと同時に,心からの謝意を呈する.また,出版にあたって大変お世話になった医歯薬出版株式会社編集部の方がたに厚く御礼申し上げる.
 本書が,この領域を学ぶ人達,とくに若い研究者の道しるべとして役立てば,これに優る喜びはない.
 1998年涼秋 中村嘉男