やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

まえがき

 本書は,以下の方法に関する包括的なガイドを提供する.
 ・生理的変動の個体内および個体間成分の数値データを作成すること
 ・利用できる文献その他でそれらデータを発見すること
 ・日常の臨床検査実践における情報の活用について
 母集団に基づく基準値および個体特有の基準値の設定と同様に,品質規格を設定するための戦略に関して大きく新たな興味がもたれている.最新の関連情報は,他の教科書中ですばやく利用することはできないが,文献を通して散見される.本書はこのような情報を集めたものである.
 ここで意図した読者層は,臨床検査医学における質に関心をもつ人であり,患者検体を扱う検査室で働くすべての人,および特に下記の人々である.
 ・質に関する管理運営に関係する臨床検査専門家集団
 ・臨床検査医学の学生および卒後教育コースに学ぶ人々
 ・専門試験または認定を受けようとする訓練生
 本書の内容の多くは,臨床検査を依頼し数字的な結果を解釈する人々にも興味がもたれ,またこの話題についてしばしば十分に教えられていない医学生の教育に利用されることを希望する.
 ある点では本書は著者の小著『臨床化学検査室のデータの解釈』〔Interpretation of Clinical Chemistry Laboratory Data(Blackwell Scientific Publications Ltd.,Oxford,1986)〕を更新したものである.
 本書を著述することになった推進力は,2000年初頭Zoe Brooks女史(QIK Quality Is Key,Ltd.,of Washington,Ontariko,Canadaの社長)と会ったことに起因する.Zoe氏は,過去20年以上にわたってわれわれが生み出し出版した種々のモデルとデータを実際にどのように使用したかを確かめるために,Dundeeにいる私を訪問した.私は私の初版本の改訂をお断りしたが,彼女は「生理的変動:原理から実践まで」を説明する方法についての最近の考えを文書化するために私を熱心に説得した.
 本書はわれわれの緊密な共同作業の結果である.私はテキストの草案を書き,Zoe氏がすべてを読み,最終稿にさらに多くのアイデアを加えた.Jeanette Devereaux氏がすべての図を作成し,それに細やかなコメントを加えた.さらにAACC Pressが私の著述をさらに簡潔にし,適切な構成にした.もちろん,すべての間違いおよび脱落に関しては私の責任である.
 Callum G.Fraser
 Ninewells Hospital and Medical School
 Dundee
 Scotland
 February 2001


序文

 臨床検査における多くの分析成分は,加齢に伴う生来の生理学的因子により個人の生涯にわたって変動する.これらの変動は,新生児期,小児期,思春期,閉経期,老齢期などのライフサイクルにおける重要なポイントで急速に生じることがある.
 それに加えて,ある分析成分は,予測できるリズムまたはサイクルを有する.すなわち,日内,月内,季節的サイクルである.このようなサイクルに関する知識は良好な患者介護にとって不可欠である.たとえば,患者検体はその検査結果が利用される臨床目的にとって適切なサイクル中の時間に採取しなければならない.良好な基準値を引き出すのは複雑で時間を要するが,特に臨床的に重要な意思決定濃度におけるこれらの値を正しく作成することは重要である.さらに,期待されるリズムまたはサイクルが存在しないことは,疾患の存在について重要な手がかりを与える可能性があり,動的機能検査の最もシンプルなものである.
 しかし,大部分の分析成分は主な臨床的重要性となるようなサイクル的なリズムを有しない.実際,その変動は恒常性調節点の周囲をランダムに変動するというように表現できる.われわれは実務上これを容易に観察することができる.もしわれわれが特定の臨床検査のためにある個人から連続的に試料を採取したとき,その結果が同じ数値になることはない.すべての人の結果は時間とともに変動するが,それは以下の3つの因子によるものである.
 ・分析前の影響――体位のような試料採取のための個人の準備に関連するもの;駆血帯で絞める時間のような試料採取自体による影響など.
 ・分析の偶然誤差(精密さ)――および系統誤差(たとえばキャリブレーションによるかたよりの変化).
 ・固有の生理的変動――恒常性調節点の周囲の変動(これは個体内生理的変動と呼ばれる).
 もし異なる個人に対して同じ検査をしたとき,各個人の平均値がすべて同じ数値にならないことを経験するであろう.個人の恒常性調節点は一般に変動する.個人間のこの差は個体間生理的変動と呼ばれる.
 数値で表した生理的変動の個体内および個体間成分の大きさを測定するために,われわれは以下の手順によって,より簡単な実験を行うことが可能である.
 1.明らかに健康なボランティア(または調査段階で分析成分に影響する疾患を有しない患者)の小グループを募集する.
 2.分析前変動を最小限に保って一定の時間的間隔で各個人から連続的な試料を採取する.
 3.各試料を分析用に保存する.
 4.分析の変動因子を最小限に保って各試料を二重測定する.
 5.データ・セット全体のなかから異なる数値を外れ値として棄却する.
 6.分散分析(ANOVA)の簡単な統計解析法を使用して個体内および個体間生理的変動を求める.

ランダムな生理的変動に関するデータの適用

 この実験的手法によって数値データを作成した場合,下記の内容に関して定量的な知識を得ることができる.
 ・個体内生理的変動の平均値
 ・個体間生理的変動の平均値
 文献には生理的変動成分についての膨大なデータベースが含まれているので,このような実験を自分自身の検査室内で実施することはまれである.これらのデータベースには簡単にアクセスが可能で,日常業務ではこれらのデータを活用することが一般的に適切である.
 生理的変動成分に関するデータは,下記についての品質規格の設定のために利用できる.
 ・精密さ
 ・かたより
 ・許容総誤差
 ・許容できる測定法間差
 ・技能試験(PT)または外部精度評価スキーム(EQAS)の活用
 ・基準法
 個体内生理的変動と分析の精密さに関するデータは下記のために使用できる.
 ・変化(基準値の変化)が重要になる前に個人の連続的な結果中で生じる可能性のある変化の確認
 ・個人の連続的結果の変化が意味深いことを示す統計学的確率の確認
 ・品質マネジメントに使用するための客観的なデルタ・チェック値の作成
 個体内および個体間生理的変動の比較は以下のことを可能にする.
 ・従来の伝統的な母集団ベースの基準値(しばしば正常範囲と呼ばれる)の有用性の判断.
 ・年齢,性別に階層化した基準範囲がたとえば臨床的意思決定を改善することの明確化.
 生理的変動に関するデータは以下のようなことにも利用できる.
 ・疫学的に用いられる信頼性係数の計算.
 ・一定の確率におけるある%内での恒常性調節点の推定値を得るために必要な試料数の決定.
 ・検査結果を報告するうえでの最上の方法,最上の試料収集法,使用する可能性が最も高い検査手順の決定.
 もちろん,生理的変動に関するデータの作成および活用は,あらゆる新しい検査手順の開発における重要な必須条件である.

生理的変動と品質の探求

 時間が経過すれば,品質マネジメントとはわれわれが長年にわたって検査室で日常実施してきた簡単な統計的精度管理技法以上の内容を含んでいることがわかるであろう.すなわち品質マネジメントは,精度管理と同様に,質の高い検査の実施,品質保証,品質改善,品質計画を抱合し統合することを求めているのである.端的にいうと,品質マネジメントは,臨床的に適切で正しく解釈された検査結果を得るための分析前,分析時,分析後すべての段階を満たすものである.
 このように自分たちの日常業務において生理的変動成分に関する数的データをどのように作成または発見し,適用するかを知ることは品質マネジメントに関連して必要不可欠である.大切なことは,臨床検査および検査結果の解釈について,生理的変動の影響を考慮しなければならないということである.

品質の定義

 世界標準化機構(ISO)は品質を「提示および合意したニーズを満たすための能力を有する構成要素の性質の全体」と定義している.このやや複合的な定義は,少なくともわれわれにとっては,臨床検査医学で実施される検査の質は臨床医に良好な医療を実践させるものでなければならないという意味に翻訳できる.われわれが検査の質を管理,実践,保証,改善する以前に,満足な臨床的意思決定を確実にするにはどのレベルの品質が要求されるかを正確に知らなければならない.さらに臨床検査サービスは試料の技術的分析以上のものを含んでいることから,われわれは患者検体が採取された日または月が検査結果に影響を与え,生理的変動が個人からの連続的な結果の変化を確かめるモニター検査および母集団に基づく基準範囲がしばしば用いられる診断と症例発見の両方に影響を与えることを正しく認識しなければならない.

本書の活用

 本書は,生理的変動に関するデータの作成および適用に関する近代的で最新の考え方を提供する.特に,本書は以下の点で役立つであろう.
 ・臨床検査結果における多くの変動因子の認識
 ・周期的な生理学的リズムの臨床的重要性の理解
 ・個体内,個体間生理的変動に関する定量的データの作成および発見
 ・品質規格の設定に利用できるモデルの段階的階級の認識
 ・生理的変動を用いる精密さおよびかたよりの品質規格の設定
 ・生理的変動に基づく総許容誤差のための品質規格の開発
 ・活用するための品質規格が生理的変動から作成しうることの理解
 ・経時的な個人の連続的結果の変化の理由の認識
 ・経時的な個人のモニタリングに使用する基準変化値の計算
 ・患者データを利用する品質マネジメントに使用するデルタ・チェック値の計算
 ・母集団に基づく基準値および層別基準値の作成
 ・生理的個体性によって生じる一般的な基準値の限界に関する理解
 ・生理的変動に関するデータの多くの副次的な使用に関する認識
 ・生理的変動のデータが新しい検査を導入するうえで重要な必須条件であることの認識
 本書の真の目的は,臨床検査医学の多くの局面におけるランダムな生理的変動の定量的データの作成および適用について記述することである.それに加えて,われわれはあらゆる場面で活用できるデータの出典を容易にみつけることができるであろう.


訳者あとがき

 生理的変動には個体内生理的変動と個体間生理的変動が存在することは1960年代から広く知られている.個体内生理的変動については,主として臨床化学検査の精密さの規準を平均的な個体内生理的変動の標準偏差(SD)の1/2とする「生理的変動に基づく誤差許容限界」が,北村(1966),Cotlov(1970)により提唱され,かねてから教科書にも掲載されている.一方,個体間生理的変動は,現在広く用いられている「母集団に基づく基準範囲」の基礎になっていることは周知のとおりである.われわれが数値として報告する検査結果には測定の精密さに関連する偶然誤差と測定値のかたよりに関連する系統誤差が存在し,その両方をコントロールしなければ測定値の信頼性を高めることができない.日本臨床衛生検査技師会では「臨床化学における定量検査の精密さ・正確さ評価指針(改訂版)」を作成し『日本臨床検査標準協議会(JCCLS)会誌』(Vol.14:3〜36,1999)に掲載している.そのなかで精密さの規準は上記の平均的個体内生理的変動のSDの1/2を適用しているが,かたよりの規準は5%以下(Na,Clは2%以下)としており,その根拠は必ずしも明確ではない.
 本書の著者であるDr.Fraserは過去20年間にわたって生理的変動について研究し多くの論文を発表しているが,1990年には測定値を個体内生理的変動と個体間生理的変動の両方を用いて許容総誤差として評価することを提唱し,現在,特にEUおよび米国でこの考え方が広まってきている.残念ながらわが国ではまだこの考え方が十分理解されていない.1999年4月,ストックホルムにおいてWHO,IUPAC,IFCCがスポンサーになって,検査室の大小,公立・私立,発展国・発展途上国に関係なく,広範囲に適用できる臨床検査医学における品質規格設定に関するグローバルな戦略について23カ国の専門家を集めて討議が行われた.その結果,5段階の階層段階が作成され合意が得られている.このなかに生理的変動に基づく品質規格が含まれており,今後はこの考え方が臨床検査医学における品質規格の主流になるであろう.
 Dr.Fraserは本書のなかで,生理的変動を基本とした品質規格の設定および実践について具体的なアプローチの仕方を懇切丁寧に書いている.目次からもわかるように,まず基礎として生理的変動の性質,品質規格の設定の戦略について述べ,基本となる生理的変動に関する多くの発表者のデータから生理的変動は人種,地域などであまり変動がなく,新たに求めなくても,すでに報告されているデータベースを利用することを勧めている.実践編では,検査結果が診断,症例発見,スクリーニング,モニターの4つの臨床的状態に利用されることを述べ,それぞれの利用目的に応じた種々の戦略について具体的に述べている.特に注目すべき点は,個体間生理的変動に比べて個体内生理的変動が著しく小さい項目(多くの項目がそうである)は,個人の値が疾患により変動しても依然として基準範囲内にあり診断において疾患を見落とす危険性があるので,それを検出する規格〔基準変化値(reference change value;RCV)〕を設定して臨床側に情報として提供することを勧めている.また彼の提案している生理的変動を基本とした品質規格は,血中薬物モニター(TDM)や疫学の領域など他の分野にも適用できることを述べている.
 私は本書を読んで,自分だけで読むのはもったいない内容であることから,翻訳することによりわが国の同業の仲間に広く読んでもらいたいと願った.幸い医歯薬出版株式会社が私のこの考えを十分理解していただき訳本の出版にこぎつけていただいたことに心から感謝申し上げたい.
 本書は米国AACC Pressから出版されているが,2002年のベストセラーのトップに上げられていることを知り,その内容に感動を受けたのは単に私だけではなかったことを実感した次第である.
 なお,間違いおよび脱落に関しては私の浅学菲才の結果であり,すべて私の責任である.
検査データの生理的変動─原理から実践へ─ 目次

まえがき
序文

第1章 生理的変動の性質
 生理的(個人的)既往歴
 検査結果の変動要因
 分析前変動
 分析時の変動要因
 生理的変動要因
 ランダムな生理的変動
 生理的変動の構成成分の測定
 要約
  追加的な参考文献

第2章 品質規格
 品質規格の設定
 品質規格の活用
 品質規格設定における問題点
 品質規格設定のためのモデルの階層段階
 総誤差の概念
 品質規格設定のための戦略
 生理的変動に基づく品質規格設定の戦略
 要約
  追加的な参考文献

第3章 連続的結果における変化
 基準変化値と確率の計算
 実践における患者の品質モニタリング
 要約
  追加的な参考文献

第4章 母集団に基づく基準値の有用性
 “基準値”の考え方
 基準値に関する用語
 基準個体の選択
 異常値の調査
 基準値と基準範囲の誘導
 基準値に影響を与える因子
 基準値の階層化(細分類)
 通常の基準値における問題
 基準値の作成――実用的なアプローチ
 基準値の伝達性
 基準値に対する個体性の影響
 高齢者母集団における血清クレアチニン
 生理的個体性
 生理学的個体性と基準値
 個体性の指標
 個体性指数と診断
 血液学における個体性
 健常者における個体性と繰り返し検査
 個体性と疾患時の繰り返し検査
 要約
  追加的な参考文献

第5章 生理的変動データの他の利用
 疫学
 必要とされる試料数
 結果報告
 収集する最上の試料の選択
 最上の検査の選択
 測定法の開発と評価検討
 要約
  追加的な参考文献

第6章 次のステップ
 復習,次のステップ,追加的な文献
 最終メモ
 用語解説
 付属文書1 生理的変動の構成要素に関するデータ
 付属文書2 精密さ,かたより,許容総誤差に対する品質規格

 訳者あとがき
 索引