やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 作業とは,人が何かを行うことです.さわやかに目覚め,お気に入りの服に着替え,やりがいのある仕事をし,美味しい夕食を食べ,ゆっくり風呂に入り,穏やかな眠りにつくといった日常を送ることができれば,人は健康で幸せです.
 ところが,病気や怪我をしてしまい,起き上がることもたいへんで,服を着るにも一苦労,仕事も趣味もなく,空腹を満たすだけの食事は味気なく,面倒くさいので風呂にも入らず,なかなか眠ることができなければ,翌日からも不健康な生活が続くことになるでしょう.
 スポーツ好きな人が,スポーツをすることができなくなったら,スポーツができないばかりでなく,自分自身をスポーツマンだと思うこともできなくなります.着る服も変わり,生活習慣も変わり,日常出会う人の顔ぶれも変わります.しかし,自分でスポーツをすることはできなくても,スポーツ観戦に行く,後輩の選手にアドバイスをする,などという作業を行う機会があれば,自分自身を以前と同様にスポーツの専門家だと認めることができるようになるかもしれません.自分にとって大切な何かをすることで自分を取り戻し,社会のなかでの居場所を得ることができるのです.
 このように,作業を通して社会参加を実現する方法として作業療法があります.動けない人が外出できるよう援助する,ふさいだ気持ちが晴れ晴れするような作業を行う機会を提供する,といった仕事が,リハビリテーションのなかで作業療法士によって行われてきました.
 作業療法は,治療のために作業を使う知識や技術ですが,1980年代後半から,治療として作業を使う前に,作業そのものについて,もっと考えてみようという動きが,世界のあちこちで起こってきました.こうして誕生したのが作業科学です.本書の目的は,作業について考える経験を提供し,学問として発展しつつある作業科学を紹介することです.
 園芸療法,絵画療法,音楽療法,芸術療法,ダンスセラピー,ヨーガセラピーなど,特定の作業がもつ治療的効能が注目されています.作業科学では,特定の作業から考えるというよりも,特定の人の生活のなかにある作業から考えていきます.
 「園芸」とよばれる作業は,ある人にとっては「庭いじり」であり,別の人にとっては「ガーデニング」とよばれます.この作業の意味は,「気晴らし」であったり,「挑戦」であったり,「癒し」であったりします.共通するのは「植物を育てる」,「枯れないように世話をする」という目的で行われる活動ですが,人によって,「料理に使うハーブを育てる」,「インテリアの一部を整える」,「友人に株を分けてあげる」という固有の目的があるでしょう.さらに作業科学では,ある作業が生活のなかに入ることによる,他の作業や生活習慣への影響についても論じていきます.“花を育てるようになってから,部屋の片付けをするようになったし,友人を招待することも増えた.““間食もしなくなって,体重も減って,スタイルがよくなった”というように,生活全体が作業によって変化していくことに注目していくのが作業科学です.
 作業療法は,健康の回復のために作業を役立てていく分野ですが,作業科学は,人々が行う作業を探求しようという分野です.作業の性質を理解し,作業のもつ可能性を知っていることで,より効果的に作業を治療に用いることができます.
 本書は,作業療法学科の学生が作業とは何かを学ぶ際の教材として,作業療法士が作業科学の研究結果を実践に取り入れる際の情報源として,使用できます.また,作業を通して治療やケアを行うことに興味をもつ作業療法士以外の人々にも参考になるでしょう.
 作業科学は作業に焦点を当てた知識の体系化を目指す学際的分野です.作業科学の研究は,作業療法士だけではなく,文化人類学,心理学,教育学,地理学,哲学,神経生理学など様々な分野の人々によって行われています.作業という観点から現象を見直すことで,個人や地域社会が抱える複雑な問題を新しい視点で理解することができ,解決の糸口を見つけることができます.
 人々の生活や社会にとって,何かに取り組むこと,すなわちどんな作業をどのようにするかが重要であるという気づきが,作業科学を発展させてきました.作業科学の研究結果は,臨床や社会での実践に貴重な示唆を与えています.具体的には,子どもの成長を促進する遊びや学習の仕方,虐待や外傷を経験した人を癒す作業,過労や引きこもりといった問題を作業バランスという視点からとらえること,退職後の生活再構築,障害者の社会参加のきっかけやこれを促進する環境などといった研究が,作業科学専門誌に掲載されています.
 日本の作業療法は,第二次世界大戦後,主に米国から輸入され,医学のなかの整形外科のなかの「後療法」と位置づけられ,リハビリテーション医学の一分野に含まれてきました.リハビリテーションという範囲のなかでも,教育的・心理的・社会的リハビリテーションという領域が発生していますが,現在行われている作業療法には依然として医学的性質が強く現れています.日本の作業療法教育においても,医学系科目が大半を占めているのが現状です.
 しかし,世界作業療法連盟が2002年に改定した作業療法士のための教育基準では,作業と健康との関係の理解を軸としたカリキュラム構成が推進されています.この作業療法士養成教育基準の改定に強く影響を与えたのが,作業科学です.世界作業療法連盟やヨーロッパ作業療法高等教育連盟には,作業科学のプロジェクトグループがありますし,アメリカ,カナダ,オーストラリア・ニュージーランド,イギリス・アイルランドには研究会があり,シンポジウムなどが開催されています.台湾にも100名以上が加盟するメールグループがあるそうです.アメリカやカナダでは,学部教育で作業科学を専攻し,修士で作業療法を学ぶというスタイルが始まり,増えています.
 日本では,1995年に日本作業療法士協会が作業科学をテーマとして全国研修会を開催し,1997年から毎年1回セミナーが開催されています.2006年12月藍野大学で第10回作業科学セミナーが開催され,日本作業科学研究会も設立されました.世界でも,日本でも,作業科学がますます発展することが予想されます.そして作業という視点から経験を分かち合い,世の中に起こる様々な現象を解き明かしていくことが,世界中の作業科学に関心をもつ人々によって進められていくことでしょう.
 本書の読者が作業科学に興味をもち,作業という視点から問題をとらえ,解決することの可能性を感じていただけたら幸いです.
 吉川ひろみ
 はじめに(吉川ひろみ)
第1章 作業の広がりと深さ
 生活のなかの作業
 作業科学の歴史
 作業の定義
 作業の種類
 作業の階層
 練習
 文献
第2章 作業の主観的意味
 生産的作業
 愉しい作業
 休息になる作業
 作業バランス
 練習
 文献
第3章 作業の文脈
 空間的側面
 時間的側面
 社会的側面
 文化的側面
 練習
 文献
第4章 作業による成長と回復
 進化と作業
 作業と健康
 一生涯の作業の変遷
 社会改革と作業
 練習
 文献

 索引
 あとがき(吉川ひろみ)