やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

 わたくしが大学を卒業した昭和33年(40年前)ごろの歯科補綴分野は,アメリカから輸入した生物学的補綴物のあり方を求めて,バンドクラウン撤廃の狼煙が上がり,フルキャストクラウンは近代歯科の花形として注目された.大学の授業でもシェルクラウンや咬合面鋳造バンドクラウンは次第に姿を消し,フルキャストクラウンに変わっていった.一歯単位の歯科治療は一口腔単位へと発展し,咬合の重要性が叫ばれるようになった.そのころわたくしは,より適合精度の高いフルキャストクラウンや陶材焼付前装冠作製の技術修得や国産の半調節性咬合器の開発に明け暮れていた.
 歯科臨床の技術修得に十数年を費やし,一息ついて自分の臨床を振り返ってみると,修復・補綴物のマージンに起因する修理や再製が多く,補綴処置歯の機能期間が短いことに気付いた.この事実から,歯を大切にして延命をはかるには,どうすればよいかを考えるようになった.クラウンに隣在する健全歯の隣接面二次齲蝕の発症もトラブルの一つで,対策には,極力エナメル質を削除しない部分歯冠補綴で対応し,維持の補強にはピンを応用した.合着セメントの練和にも気を配った.当時,ほとんどの患者は口腔衛生の認識はなかった.修復・補綴処置歯が短命なのは,歯質の多量削除,マージンの不適合もさることながら,口腔の不衛生もかなりの要因と考え,オレゴン大学に出向き,パーカー教授から最新の予防歯科の手ほどきを受けた.以後,口腔衛生の確立のためのブラッシング,フロッシング,ショ糖の制限を,すべての患者に徹底教育した.この口腔衛生指導は修復・補綴治療の前処置にとどまらず,齲蝕,歯周病予防の立場からとくに重要視し,口腔衛生が確立できない患者には,修復・補綴治療しないことを原則とした.
 数年後には,日本の歯科界にも口腔衛生の認識が次第に高まり,歯の命を大切にしようとする気運はやがて8020運動へとつながっていった.しかし,卒後二十数年を過ぎたわたくしの歯科臨床効果はそれほど変わらず,修理や再製が診療の6割をも占めていることに少なからず焦りを覚える毎日であった.遅ればせながら,ここ数年,わたくしは歯を保全し,真の医療効果をあげるには基本的に何が必要なのかを突き詰めて考えるようになった.
 辺りを見回してみると,医科においては,勘や経験の積み重ねの医療から脱却し,より科学性をもたせ,医療効果を評価するなどの変化が起こっていた.医療が健康の改善に役立っているかを調べた報告では,その寄与率は,なんとわずか10%前後に過ぎず,遺伝の影響が10%前後,残りの60〜70%は環境要因であるとされる.その傾向は10年来ほとんど変わっておらず,最近では,まともな研究(good research)結果に基づいた有効な治療法が少しずつ増えてはいるが,15〜20%にとどまり,歯科では多くの疫学データや歯科治療に関する技術的な情報がありながら,その治療法がどの程度患者にとって有効・有益であるかは残念ながら不明なことが多いとしている.
 このような背景から,1990年代に入って歯科でも臨床疫学研究の必要性とともに,科学論文として認められる必須要件が強調されるようになった.この要求は,医療概念がDoctor/Disease-Oriented System(DOS)からProblem/Patient-Oriented System(POS)に変遷し,インフォームドコンセントが強調されることからも当然の成りゆきと考える.すなわち,患者に示す治療オプションは科学的根拠に基づいたもの(Evidence-based Medicine,EBM)でなければならないのである.
 しかしながら,わたくしの講座も含めて,歯科医療における信憑性の高い臨床事実の研究の絶対量はいまだに少ない.本文中に詳しく述べるが,もっとも信憑性の高い臨床研究デザインは,多施設にまたがり,よく研究計画が練られた「無作為化比較対照臨床試験(RCT)」とされ,もっとも信憑性の低いのが,その道の大家の意見(エキスパートのオピニオン)である.もしかすると,わたくしの臨床もこれまでは,エキスパートオピニオンでしかなかったのかもしれない.つまり,歯科医師が日常正しいと信じて行っている治療行為でさえも,ときとして間違っていることがあるのである.事実は良薬にも似て口に苦いものなのかもしれないが,患者も,歯科医師もこの事実を知らないで,保険制度に縛られて,害にしかならない治療行為を繰り返している可能性があるのである.
 たとえば,現在,歯科治療で有効性が科学的に示されたものは,フッ化物の上水道添加の安全性と有効性,フッ化物含有歯磨剤,選択的フィッシャーシーラント,唇顎口蓋裂骨移植の4点に止まっており,はなはだ少ない.一方,予防的智歯の抜去,無制限なパノラマX線写真の撮影,顎関節症治療の一部などは害であることが明らかになっている.また,口腔癌の放射線治療など,治療効果がいワだ証明されていないものが歯科医療の大半を占めている.もちろん,これらは氷山の一角であり,今後さらにショッキングな事実が明らかにされるはずである.
 21世紀は,科学的根拠に基づいた医療を理解し,作り,使って,その効果を示し,国民の健康科学に貢献しなければならない.いや,健康に貢献できなくとも,まずは「少なくとも害にならない治療」を目指す必要があるはずである.このためには歯科医師養成のための卒前教育がまず,変化しなければならない.歯学教育者は,今一度,大学は歯科医師を養成するところでなく,健康をつくりだすところであるとの言葉の意味を吟味すべきではなかろうか.
 1968年Weedが唱えたDOSからPOSへの変革は,医学教育に波及している.すなわち,POSでは患者のもつ問題を中心にした医療が科学的に展開される.これまでの伝授方式の教授法が間違っていたのではなく,近年の医学・歯学教育の背景因子(医療の質・量の変化,社会環境・ニーズの変化,学生と教員,教育機関)が大きく変化したのに追随するために,Problem-based Learning(PBL)は恰好なのである.学生は自分自身で問題を解決する能力を身に付け,新しい知識もスムーズに取り入れ,問題を解決することができるようになる.PBLを最初に教授したマックマスター大学やハミルトン大学医学部では,早くからPBLとEvidence-based Approach(EBA)を組み合わせた教育を行っている.21世紀に向けて科学に裏づけされた,臨床的有効性と経済的効率の高い治療法を生むために,EBAは必須なのである.EBAが今後伸びるかいなかは卒前・卒後の教育でこれらをマスターさせるか,させないかにかかっているとさえいわれる.
 振り返って,日本の歯科医療を,材料,技術,設備の面からみると,一見完成の域に近づいたかにみえる.しかし,その基盤となる教育,研究も含めて,一歩外へ出てグロ-バルな立場からみると,「歯の命を大切にして,噛むことによる全身への健康寄与」の目標に向けて努力が重ねられたにもかかわらず,臨床,研究,教育ともに,先進諸外国とは20年に近い差がついていることに気づく.
 この小書は,立ち遅れの原因をわたくしなりに紐解き,先進諸外国の仲間入りを願って,あえて劣文をつらねたものである.
 第1章では,20世紀の歯科医療効果を振り返りつつ,新しい「患者中心の医療概念」の理解を深め,治療志向から予防志向への理念の切り替えの必要性,個体医療としての齲蝕予防のあり方,ゼロの概念に基づく生体保全や接着材を用いた歯の延命法,カリオロジーに基づく修復・補綴歯の二次齲蝕再発予防法など,21世紀に向けて大きく躍進するために,患者中心の歯科臨床の基本と実際について述べた.
 第2章では,臨床の基礎となる,歯学研究,インフォームドコンセントに必須のEBMを作り,EBMを使うための研究デザインとは,臨床家のためのEBM,メディカルテクノジーアセスメントとは,21世紀の歯科学の目標などについて記述した.
 第3章では,歯学部教育の見直しがなぜ必要なのか,21世紀の歯科学繁栄の鍵,テュートリアル教育など,その実際について記した.
 この小書が21世紀の歯学を担ってくれる新進気鋭の学徒,若き臨床家ならびに歯学教育者に少しでもお役に立てば望外の喜びである.
 最後に,この小書のために貴重な資料を快く提供して下さった京都大学医学部附属病院総合診療部福井次矢教授をはじめ,UCLAのGlenn T.Clark教授,第一生命保険日比谷診療所主任診療医長豊島義博先生に厚くお礼申し上げます.また,徳島大学医学部衛生学久繁哲徳教授ならびに酒田市の熊谷 崇先生には,貴書からの図表転載のご快諾をいただき,誠にありがとうございました.感謝申し上げます.
 また,立案から資料の収集,校正まで終始手伝ってくれた矢谷博文助教授,窪木拓男講師,松香芳三講師ならびに講座諸兄に心から感謝の意を表します.ありがとうございました.
 平成十一年退官の弥生月に記す 山下 敦
はじめに

1章 歯科臨床
 I 医療概念は変化しつつある……2
   1.患者/問題中心主義 Patient/Problem-Oriented Systemとは……2
   2.新しい医療概念における問題志向型診療記録……4
   3.新しいPOカルテの理念……4
   4.新しいPOカルテの構造……4
   5.新しいPOカルテの実際……4
 II 20世紀の予防・修復系の医療効果は……25
   1.幼児,小児の齲蝕有病者率は減少したか……25
   2.修復物の二次齲蝕罹患率は減少したか……26
   3.修復・補綴物の使用年数はどれほどか……26
   4.8020にどこまで近づいたか……27
   5.イギリスと日本の成人平均DMFの差……28
 III カリオロジーを修復・補綴治療にどう生かすか……30
   1.カリオロジーとは……31
   2.集団(マス)医療から個体医療へ……32
   3.サリバテストは歯科治療に必須である……33
   4.サリバテストとその実際……33
   5.成人におけるサリバテストの診断精度および有用性……35
   6.サリバテスト結果への対応の仕方……37
   7.修復・補綴患者に手渡す『口腔健康管理ノート』……39
 IV 齲蝕病態の区分とその対応の仕方……40
   1.プロセス治療とは……42
   2.初期エナメル質齲蝕の対処法……42
   3.咬合面齲蝕の対処法……44
   4.象牙質齲蝕の対処法……45
 V ゼロの概念を基盤にした修復・補綴治療……45
   1.ゼロの概念とは……45
   2.なぜG.V.Black窩洞の見直しが必要か……46
   3.接着ブリッジは短期に脱落しないか……47
   4.さらに生体浸襲の少ないピンブリッジの可能性……49
 VI 歯髄保全を目的とした接着技法による修復・補綴治療……51
   1.確実な接着と歯髄保全のできるADゲル法……51
   2.三種混合抗菌剤と接着材併用による歯髄保全の効果……52
   3.ADゲル法による形成歯歯面強化法……53
   4.ADゲル法による接近髄の修復……56
   5.ADゲル法による露髄歯の修復……57
   6.ADゲル法による高位切断レジン覆髄法……58
 VII 接着材によるコア,クラウン,ブリッジの接着は歯の延命につながったか……59
   1.メタルコア,レジンコアの生存率……59
   2.クラウンの生存率……60
   3.ブリッジの生存率……60
 VIII 修復・補綴処置歯の二次齲蝕再発予防……62
   1.補綴治療患者への対応……62
   2.修復・補綴治療におけるサリバテストの必要性……62
   3.予防的修復・補綴治療カルテ・サリバテスト・……63
   4.修復・補綴治療におけるパーソナルケアの実際……64
   5.修復・補綴治療におけるプロフェッショナルケアの実際……65
   6.口腔インプラント患者への対応……68
 IX 高齢者の歯頸部齲蝕への対応……68
   1.歯頸部齲蝕の細菌の種類……68
   2.歯頸部齲蝕になりやすいタイプ……69
   3.歯頸部齲蝕の対処法……69
2章 歯学研究
 I 21世紀の歯学研究の目標……74
 II 歯学研究の動行……76
   1.臨床研究……76
   2.疫学研究……77
   3.基礎研究……77
 III 患者中心の医療の必須要件……78
   1.POカルテ……78
   2.インフォームドコンセント……78
   3.EBMと臨床判断学……79
 IV EBMを行う手順……80
   1.EBMの第1段階……80
   2.EBMの第2段階……80
   3.EBMの第3段階……81
   4.EBMの第4段階……81
 V 臨床疫学における研究デザイン……84
   1.研究デザイン……84
   2.研究手法の信頼性と評価法……97
   3.医学・歯学研究と研究デザイン……98
   4.臨床判断分析……99
   5.臨床検査……102
 VI 臨床家にとってのEBMの採り入れかた……107
 VII メディカルテクノロジーアセスメント……108
   1.テクノロジーアセスメントとは……108
 VIII マス医療から個体医療へ……110
 IX 歯学生・大学院生のための臨床研究の進め方に関する示唆……111
 X おわりに……113
3章 歯学教育
 I 歯学部教育の見直しの必要性……118
   1.教育部門……123
   2.患者ケア部門……125
   3.研究部門……125
 II 21世紀の歯科医学繁栄の鍵……128
 III テュートリアル教育の試み……128
 IV 問題解決型学習とは……129
 V 問題解決型学習の形式……130
 VI 問題解決型学習の必要性と利点……130
   1.医学情報量の増大……130
   2.著しいパラダイムシフト……131
   3.社会構造,疾病構造の変化……131
 VII テュートリアル教育とは……131
 VIII 岡山大学歯学部歯科補綴学第1講座におけるテュートリアル教育……133
   1.カリキュラムの基本理念……133
   2.学習法……133
 IX カリキュラムの内容と実際……136
 X テュートリアルに用いる課題シートの実際……137
   1.課題1 カリオロジー……137
   2.課題2 予防的修復法……144
   3.課題3 POSに基づいた欠損機能回復法……147
   4.課題4 ゼロの概念……151
    現時点での反応……154

おわりに……156
さくいん……159