やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

監訳者の序

 声をコミュニケーションに使用する動物は人だけではないことはよく知られている.しかし,人ほど声を多彩に使用している動物がいないことも論を待たない.人を人たらしめている重要な機能の一つは話しことばを繰ることである.また,音楽を楽しみ歌を唄うことも人だけに与えられた楽しみである.このように我々の生活の質を高めるのに大切な働きである発声について,私たちはあまりにも知らないことが多い.
 その理由は,発声が多くの要素からなりたつ行動だからだと思う.呼吸器の生理を知らなければ,声を出すための呼吸が理解できないし,喉頭の解剖がわからなければ声帯の振動も理解できない.振動という特別な運動を知るためには物理学がある程度理解されていなければならない.しかも古典的な物理だけでなく非線形的な物性を持つ声帯の振動を知らなければならない.音として空気中に出てしまえば音響学の世界である.聞き取りまでを考えれば心理学の知識が無ければ理解できない.
 この本はこれらの多くの領域をバランスよくカバーしている.著者のIngo Titze氏は,広い知識を持った音声科学の専門家である.同時に氏は,歌をこよなく愛する人でもある.学会などで彼のテナーを聞くことがまれではない.
 邦訳するに当たって最も苦労したのは,専門的な英語の単語に適切な日本語訳をみつけることであった.たとえば最も基本的な単語であるvoicing,phonation,vocalizationなどですら適切に訳されたかどうかはまだ自信がない.一貫して同じ邦訳が使われているとは限らないことをあらかじめお断りしておく.賢明な読者諸姉諸兄が,文脈の中で言わんとしている概念を形成されることを期待している.
 博学多才なIngo博士の文章を邦訳するのに,力不足であったことをあらかじめお詫びしておく.誤解を招くような部分があれば,すべて訳者一同の責任であることを最後に付け加えておく.また,出版にご協力いただいた医歯薬出版の編集担当者に感謝する.
 2003年初春
 那須野が原にて
 新美 成二



 この本は,声に興味を持っているひとのために書いたものである.とくに発声器官を研究したり,教えたり,あるいは診療したりしているひとにはいっそう興味が惹かれることと思う.この本を書くための材料を集めているときに目標を二つ立てた.一つは,出版に要する時間を考えると,学会の報告書や雑誌にはかなわないことは明らかであるが,できるだけ新しい知見を盛り込むことである.二つめの目標は,発声のあらゆる面に科学的な理論を持ち込むことである.したがって,どちらかというと観察された事実より物理学的な法則に重きをおいた.データは比較的少ないが,用語の定義,事実の因果関係,体の内外で起きている,さまざまな物理現象の関係などに力点をおいた.
 雲の湧き上がるさま,大海原の海流,木の葉,宇宙のなかの銀河,たんぱく質の分子,あるいは地震のときの音響の研究などにみられるように,複雑なシステムのなかで単純化し,構造を解明することが現代科学の真髄である.最初に見ただけでは,明らかに混乱しているように見えることがある.しかし,ばらばらになっているものをきちっと並べて分析してみると,しばしば違いよりも相似性が明らかになってくる.私が,この『Principles of Voice Production』という本のなかで書こうとしたことは,音声科学やその実践のなかでばらばらになっている新しい知見を統一し,さまざまな相似性を明らかにすることである.
 入門書のようなスタイルで書かれているが,この領域を表面的に解説するだけではなく,より深い解説を心がけた.音声科学,音声言語病理学,音楽音声,劇場音声といった2学期続きの科目では,最初の1学期でこの本を使うのが適当である.2学期目ではこの本を音声障害,歌唱,演説,芝居といったより専門的な本で補うのが良いであろう.卒業後のレベルの人にとっては,音声言語病理学者,歌の先生,発声指導者,耳鼻咽喉科医,音声科学者,音楽音響技術者,音声伝達を扱う情報技術者などが実際に参考にする本となるであろう.しかし,このような専門家は背景がさまざまであり,すべての人に適切な解説がされているとは言えない.
 少なくとも高等学校レベルの物理の入門書は読みなれていることが望ましい.そこで可能な限り,三つの方法を用いて解説した.それは,さまざまなことばで言い直したことであり,数式を使ったことであり,図を用いたことである.読者は少なくともこれらのうちの一つで,ほとんど数学的な知識なしでも言わんとしていることが吸収できるはずである.
 最初の六つの章は少々難しい.運動中の空気や生体組織の物理学的な基礎について書かれている.さらに,気流に乗った音響現象についても言及している.ひとたび,空気,生体組織,波動運動といったものの物理的な原理がわかれば,この本の残りの部分はより実際的な声の調節や声の上手な使い方に及んでいることがわかる.
 カール・シーショア以来,アイオワ大学では半世紀にわたってコミュニケーション技術,芸術そして科学について学問領域を超えて研究対象としてきた.この施設の専門職達は,基礎科学,医学,工学,劇場,そして音楽といった領域にわたって関係を持ってきた.このような多方面にわたるアプローチは現在も熱意を持って続けられている.発声や発声指導,劇場芸術,後で述べるが音声言語病理学の専門としての発声法についての大学院生はすべて音声や言語の生成についてまず学ばなければならない.耳鼻咽喉科医も研修医や一般耳鼻科医の時代にやはりこの領域を学ばなければならない.このようなシステムは,後になって訓練や治療や正しい発声法を学ぶのによい機会となっている.アイオワ大学が中心になっている国立音声言語センター(National Institute for Voice and Speech)は施設の壁を超えて他分野にまたがるアプローチを取り入れている.とくに,Denver Center for the Performing Artsは音声の研究と直接劇場芸術への応用が行われる中心的な組織になりつつある.

謝辞

 この本を書き上げるのに十年来の時間がかかった.この間,多くの人たちがこの本の内容にもあるいはこの原稿を書き上げるためにも協力をしてくれた.まず心に浮かぶのは書き直しに忍耐強く協力してくれたLinnie SouthardとJulie Lemkeである.彼らは単に技術的なことだけでなく,毎日がつらくなったときに私を励ましてくれた.
 Mark Petersは計算機を使って図表を作成するのに大変協力してくれた.何を説明するにしても詳細にわたるMarkの図面は大変役に立った.Julie Ostremは最終的に文体を整えしかも私の独断的な視点について指摘をしてくれた.彼女はまた,適当な写真を選んでくれたし,不足しているときは彼女自身の写真を提供してくれた.Julieと Markとのやり取りがこの本を新鮮なものにしてくれた.
 この本の内容についてご意見をいただいた次の人たちも忘れてはならない.Ronald C.Scherer,The Denver Center for the Performing Arts; William J.Strong,Brigham Young University; John F.Michel,The University of Kansas; Joseph S.Attanasio,Montclair State College; Lorraine Olson Ramig,University of Colorado at Boulder; Ron King,Tulane University.さらに多くのアイオワ大学の音声生成のクラスの学生諸君も忘れてはならない.Emily Linは学生としてさらには研究助手として協力しくれた.
 私がいないときに文字通り代講をしてくれた教育助手のStephen Austinと Kenneth Tomの二人にとってそれが彼らの将来に有意義であってくれることを切に望んでいる.
 Ingo R.Titze

はじめに

 声は私たちの,大切な表現方法である.顔の表情や手の動きと一緒になって,我々は誰なのか,何がほしいか,何を感じているのかなどを発信する.日常生活のなかでは,自分を主張したり,意見を交換したりするために声を張り上げたりする.一人でいるときでも,自分だけで話したり,歌ったりして楽しむことがある.声が出せるようになる特定な年齢などはなく,生まれてすぐに声は出せる.生まれ出たときの第一声は,この社会の新しいメンバーになったという宣言だと長い間言われてきた.産声は生命力や個性の証であると言われる場合もある.文化や個人の習慣,健康状態や年齢などを反映して,声は一生変化し続ける.死と結びついた特別な発声はないが,家族や友人は故人をしのぶ話や歌を心安らかに聞くだろうし,去ってゆく魂は次の世界で彼らをたたえる天使の合唱を待ち望む.
 声をこんなに重要な表現方法にする“発声”とはいったい何なのだろう.まず,声は我々の五感のうち二つを使って感じられる.我々は声を聞くだけでなく,感じることができる.生まれる前の赤ちゃんは子宮のなかでお母さんが声を出したときにそれを振動として感じ,それに慣れ親しんでいる.この状態は乳児から子どもの時代まで続いていく.子どもに頬を擦り寄せて,話をしたり歌ったりしてあやすことは簡単である.接触と振動は気を休ませ,楽にするようである.コンサートに行ったり,ラジオを付けたりしたとき,「音を感じたい」という欲求は時に強くなる.多分それは我々が自分の発声を感じることに近いからかもしれない.頭や首や胸の振動は音がつくられていることの証拠である.難聴者が話すときはこの感覚を使っているし,普通は聴覚は優れた歌い手といえども同様なことをしているのだ.とにかく,発声を感じたり聞いたりすることは純粋に感覚の問題である.
 音声 voicing,
 音声化 vocalization,
 発声 phonation
 発声に関連していくつかの用語を説明しておかなければならない.音声voicing,音声化vocalization,発声phonationは互いに使い分けされない場合もある.しかし,厳格には違いがある.音声voiceも,狭い意味と広い意味で使われることがある.狭い意味では,声帯振動によってつくられる音だけを音声voiceという.この定義で言うなら,話しことばのために発する音(肺から唇までの間でつくられるのであるが)は音声を伴ったり(有声voiced)であったり音声を伴わなかったり(無声unvoiced)する.もし,どんな音(しーしー音,舌打ち音,など)と一緒に発せられていても声帯が振動している限りは有声ということになる.一方,広い意味では音声voiceは言語音speechとほとんど同じ意味で使われる.遠距離での情報通信ではしばしば,データとか音声ということばが使われる.この場合,音声voiceは全ての言語音を意味している.面と向かった会話においても自分の意見を“ささやき声”で音声として表すことができる.しかし,狭い意味ではこれは声を伴わないことになる.
 音声化vocalizationもやはり声帯振動によってつくられる音であるが,非言語音や言語以前の声を表現することに使われる.したがって動物や新生児は,歌手が発声練習として音階を歌うのと同じように音声化vocalizeするのである.音声化は,たとえば,歌詞のない歌のようなものである.この本のなかで,たびたび発声者vocalistということばを使うが,それは音声を使ったり,音声の使い方を専門に学んだ人のことを意味している.
 発声phonationは声帯振動の物理学的あるいは生理学的な過程を表現するときに用いられる.喉頭でどの程度音をつくることができるかを定量的に記述するときにも使われることばである.したがって,声帯がまともに振動しない状態を発声障害dysphonicというし,まったく振動しないときは無発声(失声,aphonic)ということばを使う.昔は発声phonationは言語音を発するという意味で使われていたが,現在は発声phonationは音源が喉頭である場合にのみ使われている.ある言語に使われる言語音(それが無声であっても,有声であっても)を音素phonemeといい,音素の定義や分類にかかわる科学の一つの分野を音声学phoneticsというのである.
 音声の物理的な計測単位
 昔から,物理的な計測には体の一部が用いられてきた.長さを計るには,足であったり前腕であったり歩数(これはいずれ標準的なメートルになったのだが)が使われたりした.時間の単位は安静にしているときの心拍数であったり,楽に歩いているときの歩数であったりした.これらは現在の秒に近い.
 しかし,仮に声についての解剖がもう少しわかりやすかったとしたらどうだっただろうか.発声はいろいろな物理学的な出来事から成り立っているので,声を基準のものさしや基準の時計にあてはめて,成人女性の声を“基準”の声とすると,
 声帯の振動部分は1センチ
 振動の振幅は1ミリ
 声帯の質量が1グラム
 声帯振動の最小の周期が1ミリ秒
 粘膜波動が声帯表面を伝わる速さが1メートル/秒
 発声中の最大流量率が1リットル/秒
 喉頭での最大流量変化率は1立方メートル/秒
 発声時の空気力学的パワーは1ワット
 声を出して会話をしたときの肺内圧は1キロパスカル
 最大肺内圧は10キロパスカル
 声帯筋組織の最大能動的応力は100キロパスカル
 声帯筋組織の最大受動的応力は1000キロパスカル
 ということになる.このように音声生理学とメートル法の計測システムとの強い関係を考えてみると,メートル法以外の計測システムを用いるということは考えられない.
 音声を専攻しているまじめな学生は,前に示した数値を記憶するだろうし,手元に適当な参考書がなくとも頭のなかで計算するのに都合がよい.音声生成の原理を理解するためには,覚えておかなければならないことはそんなに多くはないが,それぞれの学習領域は“もし孤島に閉じ込められたら,本当に何が必要か”というリストが用意されている.先に述べたデータと本文のなかで出てくる数式は必要最小限のものである.
 声のことを考える際は性の違いをはっきりさせることが大切である.成人男子の声よりも成人女子の声のほうが基準としては適当である.この本の第7章で詳しく述べるが,成人男子の声は,基準とした成人女子の声の変化したものと考えられる.しかし残念なことに音声・言語科学の領域のデータは成人男子のものであることが多い.20世紀初頭の音声学者や音声工学者はほとんどが男であった.実験の被験者として,データが得やすいので自分自身や同僚を使ったのである.この事実は,Cooperが書いているように(1989a,b),声の研究についてよく知られたことである.その結果,多くのデータ(音声機器までも)は成人男子向きのものであり,女子や子どもには適当であるとは言えない.もし全ての観察や,推論が性や年齢で大きさだけを変えればすむというものであれば問題はないのだが,そういうわけにはいかない.これからの検討事項として成人女子や子どものためのデータや新しい方向性が必要なのである.
 日常生活での音声の役割
 最も基本的な音声は生存のためのものである.とくに新生児においては空腹や痛みは声で表現される.空腹にしても痛みにしても,それを表現する泣き声は,強くそして無視しがたい音色を持っている.そういう泣き声は同情と支援したくなる気持ちを引き起こす.自分を守るための泣き声は他人の注意を引く.警戒のためのものはほとんど反射的なものである.“気をつけろ”という音声は,とくに動物の世界ではいろいろな変化がある.攻撃的な状態にあるときは,音声は相手を驚かせ,怖がらせるために使われている.確かに,ライオンの咆哮や,象のラッパを吹くような声は恐怖心を引き起こす.同じようなことが言い争いや戦闘の際のヒトの叫び声にも言える.喧嘩の最中,相手を殴るときにヒトは効果的な叫び声をあげる.生存のための声は,位置を知らせたり位置を知ったりする目的で使われる.たとえば,子羊は母親や群れの仲間と離れていてもコミュニケーションをしていないとなかなか生き残ることは難しい.
 感情表現も声を使っている.六つの基本感情-恐れ,怒り,喜び,悲しみ,驚き,そして嫌悪-は全て音声で表現される.いくつかの感情は実際に声を表すことばで表現される.たとえば,幸福を表す笑いや微笑み,悲しみを表す泣き声や忍び泣き,退屈を表すた(,)め(,)息やあくび,嫌悪を示すうめき声,怒りの叫び声,驚きを表す悲鳴など.いくつかの文化においては,感情をあらわにすることは控えられているが,一般的には感情を声に出すことは健全であるし,また有意義なことでもある.
 話しことばのなかでの音声の役割は明白である.音素の大部分は母音,半母音,鼻音などを含んだ有声である.残りの子音は有声と無声の対になっていて,結局全体の音素は有声が多いことになる.さらに,声は話しことばのリズムとメロディをつくる.それらは音素や音節,句,文章をひとまとめにしているピッチ,大きさと長さのパターンである.文章が話される代わりに歌のなかで歌われた場合は,有声の部分がより強調される.母音は通常長くなり,それに芸術的な表現がのせられるのである.
 我々の個性はかなり声に反映される.とくに話の内容に反映される.多くの人たちは,ラジオや電話の声を聞くだけでその人のことを知る.声を聞いただけで我々は話し手の個性や表情までも想像する.太っているのか,やせているのか,背が高いのか低いのか.ひげがあるのか,メガネをかけているのか.何を着ているのか.面と向かっている人でさえも,声で印象が変わる.たとえば「この人は自信家なのだ」 という判断は,話す速さ,全体的な声の大きさ,あるいは一気に話をするなどから下される.話し方が遅かったりウムとかアーなどの感嘆詞をたくさん使ったりすると,肯定的にとれば思慮深いという印象に結びつくが,否定的にとると,能力が低いという印象になる.威厳は必ずというわけではないが大きなそして低い声によって表現される.場合によるが,静かにしゃべる人は偉大な指導力を持っている.やさしさ,正直さ,快活さ,色っぽさなどの人格の一面は特別な音声の特徴と関連しているようであるが,音響学的にどの音響特性と結びついているかの研究はほとんどなされていない.
 多くの専門職ではその仕事を遂行するのに,声は最も大切である.思いつくだけでも,販売員,講師や教師,俳優,歌手,電話交換手,法律家,外交官,株の仲買人,スポーツのコーチ,放送関係者などである.こういった人たちにとって声を失うことは,職業を失う(あるいは仕事が減ってしまう)ことに等しい.声が悪いとか適当な大きさや高さの声が出ないとか,声を出すとすぐ疲れるとかいった症状は何とか我慢できるかもしれないが,音声の専門職としての仕事はやりにくくなる.我々の多くのように,声を専門的に使わない人間にとっても,良い声が出るということは美容的な意味だけでない何物かを与えてくれる.
 このように考えてくると,日常生活での声の最終的な役割は健康と元気の良さということになる.声は,肉体の働きの“窓“といっても良かろう.かすれた声はウイルス感染を示唆することもあるし,弱々しい震え声は神経系の疾患の初期であったり,声の高さが変わることは体の液体のバランスが崩れたことを示すこともあったり,“苦しそうな”声はひどい感情的なトラウマの結果であったりすることがある.なぜ声がこんなに体の状態を示すのだろうかということを理解するために,声をつくり出す喉頭の位置づけをまずしてみよう.
 さまざまな出入り道の交差点にある気管
 喉頭は頚のなかにあり,脊髄の前に位置し,多くの血管,神経,腺やヒトの体にとって大切なものの供給源に取り囲まれている(詳しくは第1章).こういった,大切な供給源が密に存在しているので,声を出す以外のことをやっているときには喉頭の喋ったり歌ったりする働きは制限を受ける.声を出すことよりも命に直接関係あることをやらなければならないこともある.とくに,空気は喉頭を通らなければならないし,食べ物は喉頭の後ろを通らなければならない.血液は喉頭の脇を沿って上ってゆく(これは外から見えることもある).同じ領域を大切な神経が上行していたり下行していたりする.このようにいろいろなものを一緒に使っているような場所に傷害が加われば(たとえば,頚を強く押したり,頚を絞めたり)発声が障害されたり,声が出なくなったりする.発声とは一緒にできないような動作,たとえば嚥下,重いものを持ち上げる,深呼吸,咳あるいは窒息状態などでは発声の過程はうまく運ばなくなる.たとえ,完全に閉じてしまうような状態でないとしても,体にいろいろなものを供給する大切な通路に近いということで,体に起こるさまざまな出来事に声は大変敏感なのである.健康を害したり,病気になったりすると,声にその足跡のような痕跡が残るのである.
 発声と非発声行動との間に常に悪い関係があるとは限らない.あくび(少なくともあくびのし始め)はある種の発声のための喉の開放感をつかむのに良い.その方法はこの本のなかに書かれている.また,呼吸のときに反射性の喉頭の開閉運動は発声練習のために良い方法である(これについても後述する).一方(喉頭の閉鎖力が弱く,他の方法で閉鎖を代償しなければならないときは別であるが),重たいものを持ち上げたり,子どもを抱き上げたりするときのような,声帯を強く合わせることは一般的には発声のためには良いことではない.
 声を出すためには,喉頭は特定の動作を要求される.生体組織が振動し,速い繰り返しでぶつかりあう.しかもそれがかなり長い時間続くのである.このようなぶつかりあいによる障害から守る機構が体には備わっているのだろうか? 喉頭のいちばん大切な機能は気道を保護することであることはすでに一般的に認められていることであり,発声はそれに随伴した機能であると考えられている.もしこれが本当なら,より良い発声のために自然に喉頭そのものがつくられたり,修正されたりするとは考えにくい.医師や言語聴覚士や歌の先生は自然に治ることを考えるより,発声のためにはどんなことが健康的で好ましいのかを考える必要がある.声の診断や治療の専門家や声の訓練をする人たち,これが最後の話題である.
 声に関連する専門職
 音楽や劇場芸術,コミュニケーション科学,音声言語病理学,医学などいくつかの専門分野では音声生成は学ばなければならない正式な科目である.この領域の研究者と実践者は確かに関係を持っているが,しばしば理想的な関係であるとは言い難いことがある.実際に働いている人の間では,音声訓練と音声治療にはあまりに多くの共通点があるため学科や組織によって機械的には分けることはできないという感じになっている.
 それらの一つの共通の要素はリハビリテーションということである.つまり何かができるようにするとか,道具を与えるとか,能力を与えるといったことである.音声を使いこなすことは声を直すことや正常にすること以上のものであり,ある特別な目的のために声を鍛えることなのである.我々のなかのある特定の人たちにとって,職業上や楽しみのためには“正常”では不足な場合がある.いまや教育機関や専門の団体が,発声学vocologyつまり,音声の正しい使い方および音声障害の治療に関する学問の発展を支える時期にきている.この事実は,聴覚の正しい使い方あるいは聴覚障害に関する聴覚学audiologyとパラレルな関係にある.
 音声言語の診療施設を訪れる代表的な人たちは(しばしば疲れていても,心理的なストレスがあっても),長い時間話をしなければならない人たちである.従来の治療はこういう人たちが直面している肝心な問題(劣悪なあるいは異常な環境で声を出すということ)に向かっていない.発声器官に対する極端な要求それ自体が病的であるということが認識されていない.ニューヨーク株式市場の株の仲買人や,バスケットボールのコーチについて言ってみるなら,声をひかえろ,ということはボクサーに打たれるなと言ったりバレリーナに爪先立ちをするなと言うようなものである.声の訓練がうまくいったということは,静かに部屋で普通の会話ができるということ以上を標準として評価されなければならない.こう考えてくると,目標は単に楽しく会話ができるというだけでなく,特別なコミュニケーション場面でも最良の声が出るということでなければならない.
 音声に関連した専門の関係を図で考えてみよう.
 図の下からはじめてみると,聴覚科学と音声科学は音声言語科学と関連を持っている.音声言語科学は生成と知覚に分けられている.音声言語生成は音声科学,音声言語知覚は聴覚科学に関連しているのである.いずれの場合でも,音声言語の枠組みのなかでは音の特別な変換機(喉頭あるいは耳)を使っている.しかし,これらの音の変換機は音声言語以外の働きもしている.図のなかでは医学専門分野を示している.耳科学や喉頭科学は聴覚科学と音声科学とに並んで書いてあるが,音声言語科学はいくつかの医学専門分野(神経学,歯科学,精神科学,鼻科学など)と関連している.同じように,非医学的,行動学的な方法である音声言語病理学,聴覚学とここで新たに出現した発声学vocologyに近い関係を持っている.発声学とはもう一度繰り返して言うと,音声を正しく使うこと,音声障害を治療することを目的とした科学(あるいは実践)である(Titze1989,1992).現在は音声・言語病理学の一部として教育されているが,独立した特別の学問であるとみなされるほど進歩している.発声学は音声芸術(音楽や劇場芸術)に用いられている技術と強い関連を持っている.声の芸術家は運動選手のように最大の出力と効率を遂行するように訓練されている.彼らは,発声器官を一生にわたって長い期間良い状態にする原理をよく教育されている.
 聞き取りの側でも同様に,音楽知覚は高度のパフォーマンス能力と協調的に働いているのであろう,つまりピッチや大きさや響きや音色を聞き分けるということである.“運動”と同じだとはみなされていないが,聴覚系の能力を限界にまで引き上げている.最後の言語獲得も音声言語生成能力に関係している.とくに多言語獲得についてである.その場合は,言語システムはより多くの音素の組み合わせと,音声学的な規則を処理しなければならないのである.
 これで声についての導入は終わりである.音声システムの機能がよく理解されると,以上述べてきたいくつかの点はさらにはっきりするであろう.まずは,喉頭の解剖から始めよう.それは音声生成の生物学的な器官である.
 監訳者の序……新美成二
 序……Ingo R.Titze
 はじめに――(新美成二)

第1章 喉頭の基本構造――(田山二朗)
 解剖学的用語
 硬組織の形態学
    喉頭の軟骨 舌骨
 喉頭の筋肉
    内喉頭筋 外喉頭筋群
 声帯軟部組織の形態学
 喉頭の血管と神経支配
第2章 声帯組織の生体力学――(田山二朗)
 音生成の材料
 生体力学とは何か?
 基本力学の復習
    力学量の定義 力学の細分化 自由物体系 力学系
 連続力学の要素
    応力と歪み 構成方程式 時間依存と速度
 組織粘弾性の基礎
    声帯組織の一次元応力-歪み関係 筋肉の簡単な紹介 筋線維の種類 筋のactive stress
 臨床的・教育的問題点
    多重定義が要求される言葉 声帯結節に対する生体力学の応用
第3章 気道における流体の流れ(呼吸)――(田山二朗)
 流体の圧力
    パスカルの法則 肺(肺胞)圧 胸腔圧,胸膜圧と腹圧 肺圧の測定
 肺のシステム
    肺の容積 呼吸の生理的過程(ボイルの法則) 会話と非会話における空気流 肺の出力
 管の中の流れに対する保存の法則
    圧縮できない流れの連続性の法則 エネルギー保存の法則(ベルヌーイの法則) 流抵抗(声門抵抗)
 呼吸における臨床的・教育的問題点
    なぜ呼吸を教えるか? 何が適切な方法を支援するか? 気流の適正使用
第4章 声帯振動――(今泉 敏)
 声帯振動の古典的記述
 簡単な振動
    振動の条件 振動の型 簡単な振動系としてのブランコ 質量とバネ振動系 身の回りの振動系
 振動運動の視覚的,数学的表現
    周期 単純な調和的運動(単振動)
 声帯の自励持続振動機構
    声道との干渉:単質量モデル 組織の多様な運動:多質量モデル 声帯組織の正規振動モード 声門圧と流れの時間パターン 起声閾値圧
 臨床的・教育的問題点
    適正な湿度保持 喉頭と声道の関係を自由に保つこと 発声の開始と終止における無音H法ないしため息の使用 臨床的に有用な計測法
第5章 音の生成と伝搬――(今泉 敏)
 音の生成
    音源 声門音源の関数 喉頭における2次的音源
 音源の周波数スペクトル
    スペクトルの意味 スペクトル傾斜
 音の伝搬
    伝搬速度 音の時空概念 正弦波 波長 波のインピーダンス
 音の反射
    媒質の境界 反射係数 波干渉と定在波
第6章 母音の音源・フィルタ理論――(今泉 敏)
 音響管内での音波伝搬と共鳴
    音響管の音響インピーダンス 反射係数 1/4波長共鳴管 半波長共鳴管 共鳴管の周波数スペクトル ホルマントバンド幅
 母音の構音と音響
    F1対F2母音図 母音の形 声道の2音響管モデル 3音響管モデル
 母音のスペクトル分析
    フーリエ変換 フィルタ サウンドスペクトログラフ
 臨床的・教育的問題点
    母音形成の規則 音圧の感知:母音の焦点
第7章 声の分類と年齢変化――(山口宏也)
 形に基づいた分類
    基本周波数と声帯の長さ 声道の長さ
 副次的要素による声の分類
    筋力 音楽性 役柄と文化 職業と市場性
 声の重要な時期
    幼少時期 成人 成熟と高齢
 臨床的・教育的問題点
    合唱編成の生理学的不合理性 分類法のまとめ
第8章 基本周波数の調節――(田山二朗)
 F0調節の概要
    神経系の関与 声帯の緊張と質量:3つの定義された量 緊張に影響する生物学的要素 筋電図での研究
 F0調節のカバーモデル
    声帯伸張の機構 振動する弦とリボンの類似点 カバーモデルに対する定量的F0 解析
 F0調節のボディー・カバーモデル
    振動における活動組織 ボディー・カバーモデルでの筋活動図
 肺圧のF0に対する影響
    振幅―長さ比 気道と喉頭調節
 臨床的・教育的問題点
    最良の会話ピッチをみつける 準備運動 F0 範囲の限界
第9章 声の強さと効率の調節――(田山二朗)
 いくつかの用語の定義
 音の放射
    音の強さのレベル(Sound Intensity Level)と音圧レベル(Sound Pressure Level) 単一音源の放射 口腔からの放射
 内転,肺圧,F0と強さの変化
    声門源出力と逆フィルター 内転における声門源出力(Glottal Source Power)の依存 発声閾値圧(Phonation Threshold Pressure) 肺圧とF0 の声門源出力への影響
 声道の変化と強さの変化
    声道の伝達による増加 ホルマント同調 肺圧とF0 による強さの関連変化 声域プロフィール 声の響き(歌声ホルマント)
 声の効率
    多目的機器における効率 声門効率 出力損失 喉頭効率の定義と計算における問題
 臨床的・教育的問題点
    会話と歌における強さの変化 強さ対明瞭度 Call(呼びかけ)とY-Buzz 圧迫声の危険
第10章 声 区――(山口宏也)
 声区の聴覚印象
    声の時間間隙とスペクトラル傾斜 パルス-中声区変換 中声区-ファルセット移行
 不随意な声区変換:2つの仮説
    仮説1:声門下の共鳴 仮説2:甲状披裂筋の最大活動
 臨床的・教育的問題点
    喉頭調節と肺内圧による声区の均一化 声道の調節による声区の均一化
 まとめ
    声区に関する用語 声区:あるアイオワのとうもろこし
第11章 声のゆらぎと動揺――(山口宏也)
 いくつかの定義
    動揺とゆらぎ 変動性 ジッターとシンマー 周期性と変調
 ゆらぎと動揺の原因
    神経学的音源 生体力学的原因 空気力学的原因 音響的原因
 芸術的原因
    ビブラート トリル トリロ
 音声信号の型と物理学的尺度
    小さな動揺を持った音声信号 流動性と傾向 分裂とカオス
 臨床的・教育的問題点
    発声検査 基本周波数表示 発声における不規則性,つまらないもう一つの場合
第12章 音声障害――(山口宏也)
 先天性音声障害
 組織変化に伴う障害
    組織の感染 全身性変化 機械的な外力 声帯表面の刺激 その他の組織変化
 神経筋の異常と音声障害
    神経疾患 原因不明の筋活動異常
 音声の疲労
    声の疲労のサイン 筋肉疲労 神経筋組織の歪み 組織粘性の増加 音声疲労の音響による評価