やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 近来,多くの医師が日常的に漢方薬を使用しており,医療の中でも漢方薬が市民権を得たようにみえる.筆者が中医学(漢方医学)を学びはじめた30数年前の状況とは隔世の感がある.しかし,体系的な医学として中医学を学ぶのではなく,単に西洋薬と同列に存在する別の薬剤として,症状や病名にもとづいて安易に投薬しているにすぎないという印象がある.中医学に「同病異治」という考え方があるように,症状や病名が同じであっても,個々人によって内部状態が異なっていることもあり,同じ処方が有効であるとはかぎらない.逆に「異病同治」ともいわれ,症状や病名が異なっていても,内部状態が似通っている場合は,同じ治療法が有効なのである.大切なのは内部状態,すなわち病態を把握することであり,それほど簡単な作業ではない.
 本書は,日常的によく見かける症状に対して,何を根拠に病態を診断(弁証)し,それに対してどのような方法と手段で適切に治療(論治)するかを示している.また,その病態がどのような原因と機序で出現するかという病理機序(病機)について略述している.症状の選択に際しては,某医薬品メーカーの統計を参考にさせていただいた.
 外来診療や薬局のOTCで対応するような,ありふれた病態を対象にしており,入院・救急を必要とする重篤な病変は割愛している.病機や弁証論治の内容は筆者の経験をもとにしており,他の成書とはかなり異なっている.当然,誤った部分や欠落があると思われるので,ご批判をいただければ幸いである.
 以下,老婆心ながら気にかかっている面に言及する.

1)西洋医学の病名から中医学(漢方医学)の治療法を選ぶことについて
 中医学は,人間が不快・苦痛に感じたり,変だと思う「自・他覚症状」をもとに病変をとらえ,数千年にわたる治療上の試行錯誤を繰り返し,経験を積み重ね,自然界の草根木皮を用いた治療医学の体系を形成してきた.人間という生き物にとって自然な治療医学であり,はるか千年以上も前に創作された「方剤」が,現在でもそのままで有効に働くことからも,病変のとらえ方の正しさが証明される.
 一方,西洋医学は病原微生物や臓器の病理変化に依拠した診断医学であり,特に検査を重視し,症状はほとんど度外視される傾向にある.検査値や病理学上の変化にもとづいた西洋医学の病名診断は,個体全体が現す自・他覚症状から病態を判断する中医弁証とは,まったく異なっている.喘息・気管支炎・鼻炎といった症状にもとづく疾病については,その症状に関する豊富な文献や経験が蓄積されているので,中医学的な治療法を選ぶことに何の障害もない.しかし,測定値や検査値によって決められる高血圧症・慢性肝炎・高脂血症などの疾病は,はっきりした症状を現すわけではないので,病名をもとに中医学的に対処するのは難しい.ただし,熟達した中医であれば,注意深い問診や舌・脈・身体の所見から,病態や治療法の判断を得ることは可能である.
 西洋医学の病名と特定の漢方薬を短絡的に結びつけ,「××病には○○湯」といった治療を行っても,有効な場合はあるとしても,危険性のほうが高いと考えられる.

2)漢方薬に「副作用」があるか?
 中医学には副作用という考え方はなく,漢方薬にも副作用はないと断言できる.
 漢方薬は個々の薬効がもつ偏った性質を利用して病態を矯正するのであり,当面の病態に必要な性質を他の薬物で強めたり,望ましくない性質を別の薬物で相殺するという方法で,複数の薬物を組み合わせて処方をつくり,特定の病態を改善するのである.そのため,ある方剤(処方)には必ず適用する病態があり,ぴったり合わない場合には加減を行って対処する.エキス製剤であれば「減」はできないので,他の方剤を組み合わせてしのぐことになる.
 病態の判断を誤ったり,不適切な処方を投与すれば,不良な反応が現れるのは当然であり,適用の誤りであって「副作用」ではない.「副作用」とは,適用は合っているのに,その薬物のもつ性質のために不可避的に現れる不良な反応である.
 投薬後の反応に十分注意を払って不良な結果を引き起こさないようにすべきで,漫然と投与してはならない.悪い結果が現れるのは,投薬した側に責任があり,薬物側に問題があるのではない.

3)漢方薬は長期間服用しなければ効果はないか?
 薬であるかぎり効果は判断ができる程度に現れ,急性病であれば数時間〜数日で,慢性病でも1〜2週間で何らかの好ましい変化が認められる.そうでなければ,弁証論治や投薬(量・処方)を見直す必要がある.明らかに不良な反応が生じた場合は,速やかに改変すべきである.慢性化し固定したような病変では,明らかな好転や治癒に長期間を要することは確かである.

4)漢方薬を西洋薬と併用してよいか?
 この問題に対する確かな回答はまだできないが,作用機序がまったく異なると考えられ,特に不良な反応を経験したこともないので,まずまず可ではないかと思われる.ただし西洋薬は頓服や一時の使用に限るべきで,毎日毎回に同列の薬物として併用するのは好ましくない.
 一方,血糖・脂質・コレステロール・血圧などの検査値・測定値を目標とした投薬は,中医学がそれほどの経験を積んでいない分野であり,ある程度の予測は立てられるものの,ポイントに作用する西洋薬には有効性において及ばない.全身状態の改善を漢方薬で取り組みながら,検査値・測定値の正常化は,西洋薬でまかなうという方法は許されると考える.漢方薬の服用だけで数値の正常化が認められれば,それに越したことはない.
 中医学は西洋医学とは異なる整然とした体系を備えており,西洋医学とは別の医学として体系的に学ぶことが実りを豊かにする.少なくとも,臨床効果を高め治療レベルを引き上げるためには,基礎知識の習得が必須であり,そのため附録として中医学のあらましを述べているので,必ず参照されたい.また,医歯薬出版から多くの中医学の書籍が出版されているので,詳しくはそれらを学習していただきたい.
 本書をもとに試行錯誤によって経験を積み,もっと高い水平へと登られることを期待している.

 2004年2月
 森 雄材
漢方・中医学臨床マニュアル 目次

■症状による診断と治療
全身の症状
 かぜによる発熱
  寒気が強い
  寒くなったり熱くなったりする
  熱感が強い
   注意─かぜと紛らわしい発熱
 ねあせ
 浮腫
  急性の浮腫
  慢性・反復性の浮腫
 疲労倦怠感
 るい痩(羸痩)
  食べるのに痩せる
  食べられずに痩せる
 肥満
 のぼせ・ほてり
 痙攣(けいれん)
  局所的痙攣
  全身的な痙攣
 出血
  急性の出血
  慢性・反復性の出血
 冷え症(冷え,冷え性)
精神・神経の症状
 いらいら
  急性のいらいら
  慢性・反復性のいらいら
 不眠
  急性の不眠
  慢性・反復性の不眠
 めまい
  強いめまい
  めまい感・ふらつき
 頭痛
  急性の頭痛
  反復性・慢性の頭痛
肢体の症状
 肩こり
 四肢のしびれ
 四肢の痛み
  急性の疼痛
  経過が長いあるいは慢性の疼痛
 腰痛
  急性の腰痛
  慢性の腰痛
心肺・胸脇部の症状
 咳
  急性の咳
  やや長びく咳
  慢性あるいは反復する咳
 喘息
  発作時
  間歇期
 動悸
 胸痛
  胸痺
 脇痛
  急性の痛み
  反復性あるいは慢性の痛み
消化器・腹部の症状
 食欲不振
  腹がすかない
  食べられない
  腹もすかず食べられない
 口内炎
  急性の口内炎
  慢性・反復性の口内炎
 胸やけ
 胃のつかえ
  一時的な胃のつかえ
  反復性・慢性の胃のつかえ
 腹満
  急性の腹満
  反復性・慢性の腹満
 胃痛
  急性の胃痛
  反復性・慢性の胃痛
 腹痛
  急性の腹痛
  反復性あるいは慢性の腹痛
 吐き気・嘔吐
  原因がわかりやすいもの
  原因がはっきりしないもの
 下痢
  急性の下痢
  慢性・反復性の下痢
   注意─肝気横逆と脾虚肝乗について
 吐き下し
 便秘
  腹満・腹痛を伴う便秘
  あまり不快感を伴わない便秘
   大黄の使用について
泌尿器の症状
 頻尿
  急性の頻尿
  慢性・反復性の頻尿
 夜尿
 排尿困難
  急性の排尿困難
  反復性・慢性の排尿困難
 排尿痛
  急性・亜急性の排尿痛
  慢性・反復性の排尿痛
女性の症状
 月経不順
  月経周期の異常
   月経周期が短い(経行先期)
   月経周期が長い(経行後期)
   月経周期が一定しない(経行先後無定期)
  月経血量の異常
   月経過多
   月経過少
 月経痛
  月経前半に現れる月経痛
  月経後半に現れる月経痛
 帯下(たいげ)
  悪臭を伴う帯下
  臭気のない帯下
 不妊(男・女)
 陰部掻痒
皮膚の症状
 蕁麻疹(じんましん)
  急性の蕁麻疹
  慢性・反復性の蕁麻疹
 にきび
   皮膚病について
目・耳鼻咽喉の症状
 かすみ目
 白内障
 急性の耳鳴と難聴
 耳漏(滲出性中耳炎について)
  急性・亜急性の耳漏
  慢性・反復性の耳漏
 鼻づまり
  一過性の鼻づまり
  反復性・慢性の鼻づまり
 鼻水・鼻汁
  急性の鼻水・鼻汁
  反復性・慢性の鼻水・鼻汁
 咽の痛み
  急性の咽の痛み
  反復性・慢性の咽の痛み

■附録
基礎知識
 人体の成り立ち
  基本的な構成成分
   気(陽気)
   血(陰血)
   津液(陰津)
   精(陰精)
  人体の構造と働き
   心と小腸
   心包と三焦
   肺と大腸
   脾と胃
   肝と胆
   腎と膀胱
   女子胞
   脳・髄・骨
   脈
   経絡
 疾病の起こり方
  内傷
   七情内傷
   飲食不節
   労逸不当
   先天不足
   老化
  外感
   風邪(外風)
   寒邪(外寒)
   火邪(熱邪・外熱)
   湿邪(外湿)
   燥邪(外燥)
   暑邪
  病理的産物
   内湿・痰・飲
   内寒(虚寒)
   内熱
   内燥
   内風
   気滞
   血お(お血)
   その他
 病変のとらえ方
  表裏
  寒熱
  虚実
  陰陽
 治療法
  治療の原則
  治療法と薬物
   補法(補益法・扶正法)
   汗法(解表法・去風法)
   下法(攻下法・瀉下法)
   和法(和解法)
   温法(散寒法)
   清法(清熱法))
   潤燥法(治燥法))
   消法
   固渋法
   安神法
 舌象の意味
  正常の舌象
  舌体の厚薄と剥離
  舌質の変化
  舌苔の変化
 脈象の意味
  正常脈
  浮と沈
  力の強さ
  太さ
  速さ
  緊張度
  部位

方剤索引(〔出典〕,構成生薬)
用語索引
病名症状索引
あとがき