ローマは
一日にして成らず
わが社の歴史といっても、たかだか半世紀の短い歴史で、たいしたことはないと言えば、そうも言い切れる、ささやかな歴史である。
しかし創立者である私にとっては、二十四歳の時の苦しい発足であり、家族もろともに、辛苦の生涯であったので、振り返れば、限りなく思い出は湧いてくるのであるが、ここでは歴史という姿勢で一通りのことを書かせていただくことにしよう。
創立者である私が、歯科開業医であったので、創業以来三十年の間は歯学専門の出版社であったことはいうまでもない。

創業者:今田見信
1971(昭和46)年
私が夢を抱いて郷関を出る時、父から“一燈を提げて暗夜を行く、暗夜を恐るるなかれ、ただその一燈を守れ”と書いた教訓の紙片を渡された。初志を貫くためには、一燈を消さぬように懸命にそれを守りぬくことを約束して東京に出てきたので、私は人一倍の努力をして、早く歯科医になり、また後輩を指導する仕事から、かたわら雑誌を発行することになったのだ。
1921(大正10)年1月に『歯苑』というA5判四十八頁の月刊雑誌を友人とともにはじめた。一燈を守りながら今日の状況に発展したことは、思い起こしても感慨無量である。


1917(大正6)年12月、東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)の卒業記念アルバムから。満20歳。島根県三瓶山麓の志学で代々の医師の次男として生まれ、若くして単身上京、歯科医師となる。
『歯苑』から『日本之歯界』に改題し、株式会社歯苑社を起こした時は、二人位の書生と妻などが、仕事を手伝ってくれた。その後五十年の間には、関東大震災があり、太平洋戦争があった。私たちは生活におびえながら仕事を続けてきた。


1928(昭和3)年、埼玉県志木にあった自宅・診療所での写真。31歳。この頃は、午前中に志木の自宅で診療し、午後は駒込片町30番地(現社屋の近所)の事務所の2階で診療しながら、階下で出版事業(歯苑社)を続けていた。診療であげた収入を事業に注ぎ込むという苦しい時代であった。この頃肺炎にかかり、3週間もの間意識不明の大病を患った。