やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社


 このたび「楽しい医学用語ものがたり」が上梓じようしされることになったことは,私として望外の幸せと感じています.本書は過去20年間,臨床検査学の専門誌「Medical Technology」に毎月書き続けてきた「軽笑室けしようしつ」,および(株)ビー・エム・エルの季刊「Vita」に掲載してきた「医学用語ものがたり」に,医師をはじめ,すべての医療スタッフの方々にひろく読んでいただけるよう手を加え,さらに今回新たに書き下ろしたものを追加して,まとめたものです.
 「軽笑室」は,当時私が編集委員をしていた「Medical Technology」の編集会議で,空いたスペースを埋めるために,“医学や検査にまつわるなにか面白い話でも…”といって一文を書いたのに始まります.いわば「埋うめ草」としてスタートしたのですが,予想外にご好評をいただき,読者の励ましやらおだてに乗せられて,とうとう20年間書き続ける羽目になりました.
 毎月毎月,“面白い話を…”といわれて書き続けることは大変な重荷で,時には種切れ,時には締切りに追われ,ノイローゼに陥ったこともありましたが,我ながらよく続いたものと感慨無量です.これをライフワークと諦あきらめ,楽しみながら書き続けようと決心したのはようやくこの10年来です.
 私は元来,何事によらず詮せん索さく好きで,学生時代の講義で,教授から“これはギリシア神話の神様の名前から付けられた言葉である”などと聞くと,それはどんな話なのだろうと,講義の主題はそっちのけで,調べては満足していたものです.大学の講師,助教授時代,医学部,歯学部,付属の検査技師学校,看護学校などの講義のたびに,医学用語をなんとか覚えてもらうために,あるいは講義を興味深く聞いてもらうために,これらの話は大いに役立ちました.
 さて西欧民族の文化に,ギリシア神話と聖書が強い影響を与えてきたことはご承知のとおりで,
 “Nothing moves in this world which is not Greek in its origin”
 (この世に活動しているものでギリシアに起源しないものは一つとしてない)―― Sir Henry James Sumner Maine,Rede Lecture
 などとさえいわれています.医学用語の語源,由来も例外ではありません.したがって,本書の内容もその多くがこの両者に関係しています.
 語源の探索には,文献的調査のほかに,学会,出張,留学などで諸外国へ赴おもむくチャンスも多かったので,そのつどできるだけ現地を見て歩きました.とくにギリシア,トルコ,イタリアへは何度か足を運ぶことになりました.
 かねてより単行本出版の話がありましたが,9年前に私が青梅市立総合病院の院長として着任し,しばらくは慣れない病院経営に忙殺されたため,それどころではありませんでした.約3年後には病院財政もなんとか健全化し,1989年には新病棟も完成し,一息つける状態になりました.
 1989年7月,当院の新病棟落成記念式典で,壇上に座って来賓各位の祝辞を拝聴しながら考えたことは,“これから自分はなにをすべきであろうか?もはや研究もできないし,残りの人生で,病院経営以外になにかを残さなければ”ということでした.
 その時決心したことの一つは,“頼まれていた医学用語の語源が楽しく覚えられる本を書こう“ということでした.以来,休日はもっぱら図書館通い,夜はワープロ打ちという生活が始まりました.上述のように,「軽笑室」で書き溜めたものが元になりましたが,そのほとんどを書き直すとともに,新しい話もかなり書き加えました.とりあえず100話を上梓しますが,南米,イタリア,北欧の話,“医学のメッカ”エーゲ海の話,トロイア戦争にちなむ話など,残り100話くらいを続編として近く出したいと考えています.
 読者の方々には,お読みいただいたあと,“ふっ,ふっ“と軽く笑い,“なるほど”と感じ,“そうだったのか”と納得していただければ幸いです.
 さし絵の作者鈴木敏恵氏は,私の教え子で,東京医科歯科大学臨床検査技師学校の専任講師時代から,そして現在も文京女学院医学技術専門学校の専任講師として忙しいなかを,毎月毎月私のために女性らしい繊細なタッチの絵を描き続けてくれた,よきパートナーです.
 最後に,「Medical Technology」の初代の編集委員長で,わが国の臨床検査医学のパイオニアであられた順天堂大学名誉教授 故小酒井 望先生に深く感謝したいと思います.毎月の編集会議で,“星さん,今月の「軽笑室」は面白かったよ“とか,“私はこの雑誌が届くと,真っ先に「軽笑室」を読むのが楽しみでね”とかおっしゃったお言葉が,どれだけこれを書き続ける原動力になったことか.ここにあらためて先生のご冥福をお祈り申し上げる次第です.
 1993年3月
 著者

 注
 1)ギリシア・ローマ神話の神名,地名などのカナ表記には色々あるが(例;Aphrodite=アプロディーテー,アフロダイティ,アプロディテなど),原則として,“高津春繁著「ギリシア・ローマ神話辞典」岩波書店”によった.
 2)欄外の数字は参考文献で,片かっこの次の数字が巻末の文献No.である.
 3)医学用語は本文中でゴシック字とし,索引にも掲げた.
 序
 表紙解説
1 ガスとエーテル(ワンタンの中のみなぎる精気)
2 クリニック(無床診療所がクリニックとは?)
3 ホスピタル(客を暖くもてなす病院)
4 ヘマトキシリン(海賊の根拠地の血のように赤い木)
5 エオジン(女神が染める真紅の夜明け)
6 頭と脳(頭のきれいな狩人)
7 リンと電気泳動(光を運ぶ暁の明星)
8 ヨウ素(スミレ色した蒸気)
9 ヘリウム(太陽神の放つ光)
10 石炭酸(フェノール)(光り輝く太陽神の息子)
11 マンニット(これはなんだ,神の贈り物?)
12 オナニー(哀れなユダの息子)
13 ソドミー(神も怒った悪の町)
14 男性同性愛(ユーラニズム)(天空の神の娘は愛と美の女神)
15 くも膜(織物上手な機織り娘)
16 精巣(睾丸)(ランと睾丸は同じ?)
17 テストステロン(男の証拠“睾丸”とプロテスタント)
18 ペニスとペニシリン(尻尾,鉛筆,ペンダント)
19 ヴァギナとヒーメン(アイスクリームと美青年)
20 バニリルマンデル酸(VMA)(トラーキア王女とトロイア戦争の勇士)
21 塩素と葉緑素(緑萌え出る春の女神)
22 浮腫とマザコン(悲劇の王オイディプース)
23 病気と風邪(生命と“気”のバランス)
24 インフルエンザとフッ素(星から悪いものが流れ込む)
25 アスピリン(孝行息子がよみがえらせた薬)
26 スタミナとアトロピン(糸を紡いで測って断つ運命の3女神)
27 ベラドンナとロートエキス(ベラドンナで目がぱっちり)
28 サフラニン(秋咲きの黄色いクロッカス)
29 ミイラ(女神の怒りにふれて没薬の樹に)
30 おならと噴霧(はかない定めのアネモネ)
31 アンモニアとアモン角(羊の角を生やしたエジプト最高の神)
32 バルサム(神の警告でも告げられた傷薬)
33 アルカリとカリウム(木炭から抽出した“ザ・木炭”)
34 インジゴとインジカン(インドからきた藍で染めたブルージーンズ)
35 アルコール(アイシャドーに使った“ザ・コール墨”)
36 メチルアルコール(恐ろしいバクダン)
37 アリザリンとアマルガム(西洋アカネの“ザ・液汁”)
38 ガーゼ(サムソン最後の舞台ガザ)
39 筋肉とハツカネズミ(力を入れるとネズミが走る)
40 ワクチンとアズール(牝牛とマドリッドの空)
41 ヌベクラと比濁計(雲で作られた女性)
42 蒸留水と純水(ウイスキーは生命の水)
43 水と液(アクアもリカーもインドから)
44 フマル酸(ちょっと煙草を一服)
45 ウロカニン酸(犬の島カナリア諸島)
46 キヌレニンとキヌレン酸(犬の尿と鶏の……)
47 オレアンドマイシン(危険なキョウチクトウは清浄無垢)
48 オーレオマイシンとオーラミン(恋人を蝉にした後光がさす女神)
49 テラマイシンと苛性マグネシア(豊産を司る大地の女神)
50 ガラクトース(牛乳を運んだ橋)
51 ガランタミンと乳糖(乳のしずくが天の川)
52 狂犬病(パストゥールに負けた狂気の女神)
53 水素と炭水化物(英雄に殺された泉の番人)
54 ヘスペリジンと夜盲症(聖なる園を番する3人娘)
55 アトラース(石になった天空の担い手)
56 メドゥーサの頭(不死身でなかった末娘の怪物)
57 クリソイジンと湿疹(黄金の剣を持つ男)
58 梅毒(神の怒りをかった羊飼い)
59 サルバルサン(人を救うヒ素)
60 トレポネーマ・パリダム(死神の乗る蒼ざめた馬)
61 タリウム(泥の中から出た緑色の若々しい芽)
62 ガリウム(フランスの雄鶏)
63 トリカブト(世界初の乳癌手術に)
64 水銀(神出鬼没の泥棒の神様)
65 虹彩(神々の忠実な使者)
66 瞳孔(ひとみ)(冥界の女王になった乙女)
67 性と性別記号(一体を切り裂いた結果)
68 女性と胎児(オッパイを吸う人,吸わせる人)
69 半陰陽(間性)(ニンフにからまれた少年)
70 性交とエクスタシー(“go”と“come”に関する語源学的考察)
71 イオン(旅人は神々の贈り物)
72 患者と病理学(病の苦痛にじっと耐える人)
73 グルカゴンと拮抗剤(それは戦いから始まった)
74 プライマリー・ケアと初産婦(春に先がけて咲くサクラソウ)
75 タンパク質(なにが一番大事なものか)
76 プロテウス属(次々に変身する海神)
77 大流行とパニック(ときの声をあげる牧神)
78 注射器(牧神に求婚されて葦になったニンフ)
79 カプリン酸とカプロン酸(山羊座になった牧神)
80 パントテン酸(すべての災いと1つの希望が入った箱)
81 膵臓とクレアチン(管腔でなくすべて肉)
82 アンドロゲン(男らしく,勇敢なダンディ)
83 先端巨大症と幽門(山頂の町アクロポリスの門番)
84 パラジウム(処女神は戦いの女神)
85 アカデミー(プラトーンが開いた学問の園)
86 カドミウムとゲンチアナ(テーバイの土とリンドウ)
87 臍とマグネシウム(2羽の鷲が出会った地球の中心)
88 ドクターと博士(教える人の足の裏に付いた飯粒)
89 症状とシンポジウム(偶然出会って一緒に酒を飲む)
90 症候群と前駆症(前もって走るもの,集まって一緒に走るもの)
91 痂皮と湿布(パンの耳とかさぶた,封筒と湿布)
92 麻薬(痺れる死人の花の香)
93 エコーグラフィー(しゃべれなくなった森のニンフ)
94 リンパ(泉から湧き出る清い水)
95 阿片とオピアム(苦痛を忘れる野菜のジュース)
96 モルヒネと催眠剤(形を真似る夢の神と眠りの神)
97 セレンと眠り(月の女神の願いをかなえた眠りの神)
98 ハルシオン(幸せすぎたカワセミ)
99 パパベリン(疲れ果てた女神を回復させたポピー)
100 アンチモン(“修道僧をやっつける薬”は作り話)

 参考文献
 索引