やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 一九六○年に大阪大学歯学部を卒業し,京都大学口腔外科での十年間の臨床および研究生活の後,市中の京都第一赤十字病院に移った私は,子どものむし歯のひどさに驚き,治療に追われるなかで,予防の必要性を強く意識した.そして,予防の方策を模索しつつ,その間ヒマラヤに三度遠征し,そこで村人と生活を共にしながら,村人の歯の調査を行った.
 やがて,小児齲蝕の洪水時代は終わり,かわって,一九七五年頃から歯周疾患が脚光を浴びる時代となってきた.歯周疾患が細菌によって発症するという考え方に基づいて治療法が徐々に確立されてきたのである.幸いなことに三名の歯科衛生士に恵まれていた私は,歯周疾患の治療にも真剣に取り組んだ.
 さらに七○○床もの病院であるから,入院中のさまざまな疾病を持つ患者さんの歯科治療を行ってきたが,高齢者や,有病者の治療を近辺の歯科医や,一般医から紹介されることが近年多くなってきた.高齢社会を迎えた現在,歯科治療はその対象を,高齢者や,さまざまな疾病を有する人たちへと拡大せざるを得なくなってきている.
 初めて遭遇するケースに対して,とまどいためらいながらも,ほぼ四○年間,私なりに診療を行ってきた.特に高齢者や有病者へ歯科の治療は,講義では具体的に学んだことがなかったので,一つ一つのケースに対し,自分の教科書を作るように,私の経験した知識を総結集して対応してきた.また,一方,“口から食べることの重要性”を姑の介護から再認識し,摂食・嚥下障害にかかわりはじめたが臨床の奥の深さを実感しつつあり,興味がつきない毎日である.
 まだまだこれらの臨床を続けていきたいと思ってはいたが,そろそろ,若い人にバトンタッチをする時が来たようである.
 たまたま平成九年度の日本有病者歯科医療学会総会のシンポジウムにおいて“有病者歯科医療における問題点およびその対策“という演題で演者の一人として,講演のチャンスを得た.そのとき,私はこれまでの臨床とヒマラヤ遠征などの経験をとおしてみてきた「患者のための歯科医療」というテーマを折りまぜながら話しをしたつもりである.その会場で私の話を聞いていた,医歯薬出版の編集者から“四○年間模索してきたなかで感じている思いをまとめてみては,との話をいただき,拙ない文章であるが,少しでもお役に立てばとの思いでまとめたのが本書”である.
 さて,わたしの夫である岩坪五郎は,京都大学学士山岳会員であり,ヒマラヤ登山歴七回という人物である.私は,彼に支えられ,おだてられ,あるいは軌道修正させられてここまでやってきたきがする.
 私たちには子供がいないので,お互いが邪魔をしあわない程度に,好きなことをやりながら共同生活をするという方針で暮らしてきた.
 現在彼は,“頚椎前方除圧固定形成術”を受けた直後であり,頚を固定され五週間という入院生活を送っている.
 私にとっても,夫にとっても,今が大きな転機である.生命ある限り,私たちは助け合って前を向いて歩んでゆくだろう.
 一九九九年二月二十三日
小児歯科診療の原点…………………10
  おびえる子どもたち………………10
  栄養不良の子ども時代………………11
  潤いを与えてくれた砂糖…………………13
病院歯科医としてのスタート…………………16
  苦手だった鉤持ち…………………16
  医学部に吹き荒れた闘争の嵐…………………18
  歯科医としての再出発を決意…………………19
  小児齲蝕に闘いを挑む…………………20
  ストレスにむしばまれる子どもたち…………………21
  子どもと真剣に向き合う…………………22
  小児齲蝕の後遺症…………………24
初めてのヒマラヤ遠征…………………26
  虚しい日々からの脱出…………………26
  徒歩でのキャラバン…………………28
  ゴマでの村人の暮らし…………………28
  少ない齲歯と発達した顎骨…………………30
新たな出発…………………34
  予防教育の必要性…………………34
  院外での予防教育…………………35
  ヒマラヤ遠征の手記を出版…………………36
  予防活動を実践して…………………37
  規則正しい生活がつくる健康な歯…………………38
  子どもをとりまく環境…………………38
  アンケート調査からみえてきた予防教育のポイント…………………41
  環境因子とむし歯の発生…………………42
  さまざまな機会をとらえての予防活動…………………42
  子どもに語りかける…………………43
  ますます重要になる予防教育…………………46
  患者の治療におわれる日々…………………47
病院歯科の役割と今後の課題…………………48
  ある雑誌の対談で浮かびあがった病院歯科の役割…………………48
  連携の取れない現状…………………50
  今後の課題について…………………51
二度目のヒマラヤ遠征…………………52
  シミコットをめざして…………………52
  ネパール系,チベット系住民の暮らし…………………54
  食生活の比較…………………56
  歯科的調査結果から…………………58
有病者・高齢者の歯科診療…………………64
  有病者・高齢者診療のむずかしさ…………………64
  適切な治療を見極める…………………66
  宮古島における口腔調査に参加…………………67
病院歯科を訪れる高齢者・有病者たち…………………70
  有病者・高齢患者の疾患と治療…………………72
 症例…………………72
 顎堤萎縮症―義歯不適合
 顎関節症
 骨折
 炎症
 軟組織疾患
 有病者の歯周治療
 歯牙移植
 さまざまな症候群
 ICU入院患者の口腔内びらん
 腎不全患者の口腔内出血
 糖尿病患者の抜歯後出血や治癒不全
 血液疾患を有する患者の口腔症状
  これからの高齢者・有病者の歯科診療を考える…………………81
第三回目のヒマラヤ遠征…………………84
  再びチベットをめざして…………………84
  診療と口腔内調査…………………86
  村人を取り巻く生活環境…………………86
  村人の食生活…………………90
  砂糖の消費量…………………94
  繁忙期の食事…………………95
  ハレの日の食事…………………96
  三地域における食生活の比較…………………98
  スノン村の齲蝕罹患状態…………………99
  齲蝕の原因…………………101
  ヒマラヤの人々にみるディスクレパンシー像と今後の歯科保健…………………103
21世紀の歯科医療を考える…………………106
  20世紀後半を歯科医として生きて…………………106
  いま,病院歯科をいきいきと…………………109
  十分な人手の確保と保険点数の加算……………………110
  総合的な診断のできる医師の育成…………………111
口から食べることの重要性…………………114
  姑の介護から学んだこと…………………114
  摂食・嚥下障害に取り組む……………………117
  繊細な食事を楽しむ…………………118
  精神的なよりどころおやつ…………………120
歯科医としての足跡をふりかえる…………………122
  私を支えてくれたひとたち………………122
  歯周疾患の変遷…………………128
  講義を通して伝えた予防教育…………………132
日々これ戦い…………………134
  ある日の診察風景…………………134
  トータルで口腔を診る…………………141
  歯科衛生士の指導にあたって…………………142
  診断の困難な症例…………………144
  最も大切なのは確実な診断…………………146
  やりなおしの治療…………………147
  出産直後の母親に対する齲蝕予防の効果…………………148
  医療を受ける身になると…………………152
  生きている喜び…………………155