やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

『矢崎正方の総義歯に学ぶ』の上梓に寄せて

 日本の補綴学のパイオニアであり,総義歯学をはじめ局部義歯学や歯冠継続架工学等の名著を遺され,日本の補綴学に偉大な業績を挙げられた矢崎正方(やさきまさかた)先生の,特に総義歯について,御子息である矢崎秀昭氏が,理論と実際を近代の事情に即して解説した著作が上梓の運びとなった.著述や講演などで臨床医の指導者としての活動が知られてきている秀昭氏が,御尊父から直接に学んだ総義歯を,自分の臨床で工夫を加えた内容を数多くの症例写真を盛り込んで解説した秀れた著作である.臨床医にとって価値の高い著作の上梓に,心から敬意を表したい.
 秀昭氏は,東京歯科大学を卒業後直ちに,父上が初代部長として築かれた補綴学教室に助手として残り,補綴を勉強したが,私の講座で研究に従事,歯学博士の学位を受領している.その後も今日まで,非常勤として後進の指導にあたっている.秀昭氏は,正方先生の晩年の数年間,直接の教育を受けられ,正方先生の長期経過症例を観察しえたと同時に先生の没後においても患者を引き継ぎ,長期経過の症例から貴重な教訓を学んでいる.本来熱心な臨床家である秀昭氏は,それらを糧として,自分の臨床を組み立てている.過去に,後継者による著書の改訂版の例としては,有名なSwenson,Merril G.の“Complete Dentures“を,雑誌J.P.D.の編集主任として名高いBoucher,Carl O.による改訂版 “Swenson's Complete Dentures” が出版されているが,Swensonはオレゴン大学およびニューヨーク大学,Boucherはオハイオ州立大学であり,矢崎父子のような同じ患者による直接薫陶の成果とは全く異なったものである.この意味で秀昭氏の著作は世界唯一のものであり,最も適切な『………に学ぶ』という解説書であろう.
 矢崎正方先生については,あまりにも著名な先達であり,またここに秀昭氏の解説書ができたので今更述べる必要はないが,私の覚えとして,いささか触れてみたい.私は旧制東京歯科大学の第1回,昭和28年の卒業生であるが,学生時代に正方先生の講義を聴き,基礎実習の指導を受けた,ほとんど最後のクラスに属している.先生の補綴学の理論と実際は,溝上喜久男先生や北村勝衞先生をとおして補綴の医局に継承されて長く訓(おし)えとなっている.先生の著書は大正9年の『最近継続及架工術』に始まるが,続く『局部義歯学』の上梓は初版が1927年(昭和2年),有名なKennedyの“Partial Denture Construction“ 初版の1928年の1年前である.この当時,局部義歯についての記載は世界的にきわめて乏しく,先生の設計理論は画期的な意義があり,ここで局部義歯の矢崎式分類法が述べられている.そして遂に『総義歯学』が昭和10年に上梓となる.前述したSwensonの“Complete Dentures”の初版1940年に先立つ1935年のことである.咀嚼運動理論を骨子とした矢崎理論が展開されている.御自身の序文に「従来補綴学が下顎骨の全運動に理論の根底を置きたるに反し,本書は咀嚼運動に立脚せるものなれば,他の補綴学書と異なる点多かるべしと信ず.之れ余の聊か自負せんとする所なり」と記されている.
 矢崎咀嚼運動理論は,天然歯の咬耗面の精細な観察に基づいて,下顎骨の運動が,咬合平面上における正中線の遥か後方にある1点を中心とした円運動を呈する.すなわち,上顎頬舌側咬頭内斜面の約半分の量に咀嚼運動を限局するならば,この円弧運動は,正中に対してほぼ直角の側方運動とみなすことができるという点が骨子となっている.そして,この下顎運動論に基づいた矢崎咀嚼運動器の上に表現される下顎の動きは,左右側後部および前部にある3個の咬頭傾斜角度板に沿った側方運動を呈することになる.このとき,均衡側の臼歯部も正中に直角方向に動くことは,顆路咬合器において近年指摘されているイミディエート・サイドシフトともつうじると考えられなくもないが,矢崎先生はむしろ矢崎咀嚼運動器上の下顎臼歯部の動きは,左右側を別々に,それぞれ作業側(動側)となるときの動きを採り,均衡側のことは必要なしと考えておられたように思える.
 それには次のようなことが根拠として指摘できる.すなわち,咀嚼運動時の下顎の側方運動では,均衡側臼歯部は離開するという記載があることと,総義歯であれ局部義歯であれ,義歯の安定には,徹底して片側性均衡を重視することを貫いておられることである.正方先生の著書には,人工歯の排列・削合について明確にこのことが示されている.また秀昭氏が講座の研究集談会等で見せてくれた正方先生の総義歯には一見してわかるような特徴がある.前歯部は自然観すなわち天然歯の排列条件を重んじ,臼歯部は片側性均衡を厳守するという点である.また,局部義歯の左右側床間の連結に用いられる連結装置にビームバーを推奨されていて,片側性均衡を確保するならば,連結装置の曲げ強度は,大きな値を要しないことに気づく.さらに,後の改訂版で取り込まれた無口蓋義歯についても片側性均衡が大前提となる.また,顎堤の頬舌径が劣型の場合に,上顎臼歯頬側咬頭内斜面の咬頭頂寄りの一部に均衡面と名づけられた削去面を設けることを推奨されている.これも義歯の維持安定を損なう原因を取り去るという片側性均衡に徹せられた,確信のある理論体系の一環であると考える.世界的に用いられている両側性均衡のための均衡接触にでてくる均衡面あるいは均衡小面とは全く異なるものである.
 さて,昭和10年の初版『総義歯学』は,その後3版を重ねながら戦争のため,新しい大改訂は昭和33年の上梓となる.その間の正方先生は,記載された数多くの文献にも見られるように,研究を重ねられて,free way spaceや唇面の形相等の成果が織り込まれているが,特筆すべきは咬座印象法と無口蓋義歯であろう.義歯製作過程の種々のステップで生ずる歪や操作上のエラー,そして軟組織の状態や上下顎間関係の非生理的状態をワックスデンチャーによる咬座印象の操作で修正を一挙に行う術式の発想は,当時としてはまさにユニークであった.しかもこの手法の導入で無口蓋義歯を完成されたことは,まさに有終の美という言葉がぴったり当たるような気がする.素晴らしいことである.
 類い稀な学者,矢崎正方先生に直接手ほどきを受けた秀昭氏が,本来の真面目さをいかんなく発揮して,今様の臨床に工夫して実績を解説した労作の上梓に,心から賛辞を贈り,江湖の諸賢に必読を希う次第である.
 平成7年(1995年)5月吉日 東京歯科大学学長 関根 弘

まえがき

 父の矢崎正方(やさきまさかた)は,大正4年(1915年)に東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)を卒業後,すぐに米国イリノイ州のロヨラ大学に留学し,当時の最新の補綴学を学んで大正7年に帰朝した.そして母校の補綴学教室で研究を開始し,大正12年に教授となり,数々の研究業績を発表している.
 総義歯学の集大成として,昭和10年(1935年)に歯科学報社より『総義歯学』を出版している.その序文のなかで正方は,「本書の編集に当りては,理論と操作を相関せしめ,読者をして操作の根拠を明らかならしめ,且つ操作に基き全書の統一を図かり,各法の得失を明らかならしめ,以って補綴学の真髄を会得せしむる事に努めたり.又従来補綴学が下顎骨の全運動に理論の根底を置きたるに反し,本書は咀嚼運動に立脚せるものなれば,他の補綴学書と異なる点多かるべしと信ず.之れ余の聊か自負せんとする所なり.」(原文)と記載し,理論的根拠をもった総義歯の作製と,実際の臨床をとおして到達した咀嚼運動論に自負を感じていたことがうかがえる.
 さらに昭和32年から33年にかけて而至社より矢崎補綴学叢書として,『歯冠継続架工学』,『局部義歯学』および『総義歯学』の3冊を出版した.この『総義歯学』の序で,「過去40年の補綴学書は多くは外国文献の部分的集録に依って作られた為,臨床補綴に統一を欠き,理論と実際とが一致しない恨があり,之を統一し一貫せしめた補綴学書の必要を感じていたが,今日漸く其構想を得たので之を公にし,一般臨床家の参考に供し,今日までの考え方を一新したいと望んでいた.」(原文)と記述している.
 最初の『総義歯学』を出版した昭和10年ごろは,Gysiを頂点として,顆路と顆頭の動きを主体とした下顎運動論が世界の補綴学において主流をなしていた.しかし矢崎正方は,実際の生体における天然歯の咬耗状態や口腔内における義歯の咀嚼状況から,食物を咀嚼する範囲においての下顎運動は,開口などに伴う下顎全運動とは異なる咀嚼運動が発現しているとして,咀嚼運動理論を発表している.世界的な権威を恐れることなく,より実際に食物の咀嚼ができる義歯を作ることを目標として,臨床をつうじて独自の理論を構築し,応用している.
 さらに40年前の昭和30年ごろには,それまでの総義歯の作製順序を大幅に変え,より生体に適合しやすい印象法として,咬座印象法を考案している.そしてこの咬座印象法を応用して,それまで上顎の総義歯の維持の源としていた口蓋部の床を大幅に除去した,より生理的な無口蓋義歯の作製法とその理論を発表している.
 このように矢崎正方は,それまでの補綴学の既成概念にとらわれず,実際の口腔内で起きている現象を自分自身で調査,測定し,その結果に基づいて,どのようにすれば患者にとって最も快適な状態となるかを,研究と工夫の原点としていたと推察される.たんにその時代における海外の業績の紹介だけではなく,自ら実態を調査し,新たなる手法とその理論を確立するという姿勢は,その時代的背景を考えると,なおいっそう卓越した研究者であり臨床家であったと思える.臨床に携わる者としては,このような歯科医学に対する情熱を常に持ち続けていかなくてはならないと考える.
 矢崎正方が昭和30年代後半から40年代にかけて作製した総義歯が,25年から30年間近く経過した最近まで,大幅な義歯の改造をすることなく,快適に使用されている症例が複数例ある.これらの義歯の人工歯咬合面の磨耗状態などからも,意図した咀嚼運動が,実際の臨床でも生かされているものと思われる.今日,総義歯の作製にさいして,より口腔内組織と適合した義歯とするため,顎堤粘膜と顎位の調整を治療用義歯などを使用して行ったあとに,咬座印象に近い方法で義歯の最終印象とする技法が多くの臨床家によって行われている.下顎の運動も,一時期の顎関節における顆頭の位置と動きのみを基準として考えるだけでなく,歯の咬合面による影響もあることを,理論的に解析する研究者もいる.
 このようなことから,今日においても多数の臨床家の術式のなかに採り入れられている“矢崎式咬座印象法や総義歯に関する理論”を,現在の臨床状況にある程度あわせながら紹介しておく必要があるのでは,という諸先生方からの勧めがあり,本書を刊行することとなった次第である.
 特に多くのご助言を賜った,恩師の関根 弘 東京歯科大学学長・日本歯科医学会会長,および日ごろから多くのご教示を戴き,本書発行の機会を作ってくださった染谷成一郎先生に対して衷心より感謝いたします.さらに技工部分を担当している小林靖典技工士をはじめ,矢崎歯科医院勤務のスタッフ一同の努力に改めて深謝いたします.また,このような出版の機会を与えてくれた医歯薬出版株式会社に,お礼申し上げます.
 平成7年(1995年)陽春 矢崎秀昭
『矢崎正方の総義歯に学ぶ』の上梓に寄せて……関根弘 iii
まえがき…… v
矢崎正方略歴…… vii
矢崎正方著書・考案器械の発表年表…… viii
矢崎正方発表論文…… ix

第1章 診査……1
   1 一般的な診査……2
   2 外貌の診査……6
   3 口腔内診査……8
   4 X線診査……16
第2章 前処置……17
   1 顎堤と顎堤粘膜の調整……18
   2 顎位の安定……20
第3章 作業用模型の作製……27
第4章 咬合採得……35
   1 咬合床の作製……36
   2 咬合床の試適と咬合床の安定……38
   3 咬合採得の実際……38
   4 標示線と結合……42
第5章 矢崎咀嚼運動理論と矢崎式咀嚼運動器……45
   1 矢崎の咀嚼運動理論(咬合面展開角説)……46
   2 矢崎式咀嚼運動器……48
第6章 人工歯の排列と削合……57
   1 前歯部の排列……58
   2 人工歯の排列順序……62
   3 臼歯部の排列……64
   4 人工歯の削合……68
第7章 咬座印象……71
   1 咬座印象の手順……74
   2 咬座印象の実際……76
   3 咬座印象法の特徴と問題点……86
   4 床裏装材を応用した下顎咬座印象法……88
   5 機能位咬座印象法……90
第8章 装着と維持・管理……97
   1 義歯装着時の調整と指導内容……98
   2 義歯装着後の数日間における調整と指導……104
   3 長期間装着されている義歯の維持・管理……106
   4 義歯床の改造の時期とその方法……108
第9章 無口蓋義歯……111
   1 無口蓋義歯とは……112
   2 無口蓋義歯の設計……112
   3 無口蓋義歯の適応症と不適応症……114
   4 無口蓋義歯の適応時の留意点……114
   5 無口蓋義歯の維持と口蓋板……116
   6 無口蓋義歯と咬合……116
   7 無口蓋義歯の作製ポイント……118
   8 無口蓋義歯の装着後の経過とトラブルへの対応……120
第10章 難症例・特殊症例への対応……123
   1 下顎総義歯の安定が特に得にくい症例……124
   2 フラビーガムの症例……129
   3 咬合に異常がある症例……130
   4 下顎総義歯による咀嚼時の痛みへの対応……136
   5 金属床義歯の応用……140
第11章 長期経過症例から学ぶこと……143
   1 長期経過症例の考察……144
   2 長期間使用されている総義歯に共通していること……150
臨床ヒント 1 床裏装材の種類とその使い分け……26
臨床ヒント 2 フラビーガムがある時の効率のよい作業用模型の作り方……34
臨床ヒント 3 咬座印象時におけるラバー印象材用の接着剤の塗布……44
臨床ヒント 4 咬座印象時の印象材の盛り方……56
臨床ヒント 5 咬座印象法の効率的な技工操作……70
臨床ヒント 6 高齢者の床裏装時の留意点……110

参考文献……153
索引……155