やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 本書は大正昭和の歯科界で多くの分野のパイオニアとして活躍した岡本清纓の伝記である.
 清纓は白河で生まれ,早くに父母を亡くして苦学はしたものの,野球や文学に親しんで充実した青年時代を過ごしていた.しかし,東京の攻玉社中学校に通っていたときに急性肋膜炎に罹患し,郷里での療養を強いられた.福島種馬所で働いたり,尋常高等小学校の代用教員を務めたりしながら療養し,快癒してからは発心して東京歯科医学専門学校を受験し合格した.
 学生時代に幼なじみのゆきと結婚し,卒業後は臨床家の道を進まず,ライオン歯磨本舗小林商店に入った.経済的な理由で心ならずも一年後に退職し,その後数年間,網走・斜里で開業医として働き,借金を返済したのである.再びライオンに招聘され,本邦初の小児歯科専門病院であるライオン児童歯科院を立ち上げ,軌道に乗せた.その傍ら学校歯科,口腔衛生のパイオニアを務め,また成蹊学園の校医,町会議員や諸学会の要職に就き活躍した.学生時代に卓球選手として名を馳せ,後年,日本卓球協会の会長まで務めたのは歯科医師として異例である.
 ライオン児童歯科院は戦時下の昭和十三年,時勢のためにやむなく閉鎖に至った.清纓は会社の命で大阪に移り,ライオン歯科衛生院を始めたが,予防専門で治療は行わなかったためか思惑通りには運営できず,数年後には閉院した.清纓も長年勤務したライオンを退職し,そのまま大阪で開業医生活を始めるが,その傍ら大阪大学で教鞭を執ったり大阪府歯科医師会理事を務めたりした.
 六十歳にして東京医科歯科大学口腔衛生学教授に就任し,日本初の口腔衛生学教室教授となったが,これも異例のことである.定年後には愛知学院大学歯学部の設立に関わり,初代学部長に就任し,その任を長く務めた.俳句に親しみ句集も三冊を数える.退職後,愛知学院大学歯学部は顧問(学部長待遇)の地位を用意し清纓の労に報いた.晩年の清纓は常に愛知学院大学歯学部への愛情に満ちており,大方の話題はそれについてのものだった.愛知学院大学歯学部が本邦有数の歯学部に育ったのを見届け,在職のまま,八九歳の生涯を閉じた.
 こう振り返ると清纓は常にそのときの仕事に専心していたことが感じられる.何事もおろそかにせず,たくさんのことに興味を持ち,常にリーダーとして振る舞っていた.仕事が苦しいのではなく,仕事を楽しみ,その仕事についてリーダーシップを発揮した.歯科という狭い世界の人だけでなく,自然体で多くの人びとと深く交際し,その幅広い教養でどんな身分の人とも対等以上に対峙できた.教え子との関係も単なる師弟関係を超えるものだった.清纓の教え子はおそらく清纓から教授された「知識」,「学問」より清纓の「精神」を記憶しているに相違ない.師弟の心と心の共鳴,精神的接触によって清纓から歯科医師としての倫理観を伝えられた教え子たちは心身を陶冶させられ,その自覚に基いて歯科医師としての日常を実践したのではないか.
 「リベラルアーツ」という言葉がある.これは「人間として自律的に生きていくための教養」という意味であるが,清纓はまさにリベラルアーツを持った歯科医であったと言っていいだろう.歯科界に於いては今後も学問的進歩,技術的進歩がなされるではあろうが,社会との関係において絶対に必要とされるのが,この「リベラルアーツ」を兼ね備えた歯科医であろう.今,歯科界はまさに多くの「岡本」を求めているのではないだろうか.
 二〇一〇年十月 編者
 はじめに
 序章
第一章 転校を重ねた中学校時代
 1 逗子の第二開成中学校
  ・品川駅で見た初めての海
  ・お国訛りを乗り越え英語は大の得意に
  ・運動会でも競泳でも好成績
  ・最初で最後の修学旅行
 2 安積中学校
  ・転学の頃に母との別れ
  ・本格的な野球生活のはじまり
  ・東京遠征で慶應普通部との対戦に出場
  ・忘れ得ぬ野球仲間たち
  ・校長弾劾とストライキ
  ・予期せぬ落第
 3 攻玉社中学校
  ・苦学を覚悟の東京行き
  ・「通信簿を見せなさいよ」「ずいぶんできるのね」
第二章 ライオン歯磨に入るまで
 4 代用教員
  ・十代で経験した代用教員生活
  ・宿直室から農家の土蔵へ
 5 水道橋の三年半
  ・東京歯科医学専門学校では卓球選手に
  ・文学青年でもあった水道橋時代
  ・長女苑子がジフテリアに
  ・奥村鶴吉教授の至上命令
  ・ライオン歯磨の会社へ
 6 株式会社小林商店
  ・広告部に集う変わり種
  ・歯刷子について大論争
  ・口腔衛生の普及と児童専門の歯科診療所の実現に向けて
  ・株式会社小林商店を退社
第三章 北海道,網走・斜里時代
 7 網走へ
  ・二,三昼夜以上かけて網走へ
  ・さすがの直行歯科医
  ・北海道開業歯科医第一号
  ・家族で斜里村へ
 8 岡本歯科医院の開業
  ・岡本歯科医院の開業
  ・医院の拡張移転開業
  ・はじめての伝達麻酔
  ・雑穀景気の農夫の総入歯
  ・長男の病気
  ・「もう一度東京に帰ってくれないか」
  ・鳳凰は荊棘の地に棲むべからず
第四章 ライオン児童歯科院十八年
 9 ライオン児童歯科院
  ・児童歯科院の開院まで
  ・歯科院設立反対運動の理由
  ・一日に一〇〇名以上の来院も
  ・小児の取り扱い方と乳歯の治療
  ・学校歯科巡回診療班で感じた東京市嘱託の威力
  ・焼け落ちた歯科院
  ・震災歯科救護班について
 10 歯科衛生士のはしり
  ・行政の二十数年先を進んだ口腔衛生手の養成
  ・子供や教員に向けての口腔衛生普及事業
  ・年々盛んになってきた口腔衛生運動
  ・「良い歯の日発祥記念碑」にその名を刻まれて
第五章 武蔵野・吉祥寺時代
 11 学校歯科医として
  ・学園内の歯科診療室
  ・吉祥寺の新居で聞いた崩御の報
  ・「御拝診申し上げます」
 12 講演法の研究
  ・学校歯科医に必要な話術の研究
  ・思い出深い秋田,山形,千葉,島根への巡回講演
  ・歯科界のベストセラー『口腔衛生と講演法』
  ・熱帯性腸カタルで挫折した台湾講演旅行
 13 慶應義塾大学で得た学位
  ・慶應義塾大学での研究時代は野球やテニスの花形
  ・三年がかりで書き上げた論文
  ・町会議員の経験
  ・遊郭に一人で乗り込んだ妻
  ・待合室に据えられた機関銃
  ・歯牙清掃部署が盛んになる中での閉院
第六章 大阪,そしてまた東京へ
 14 大阪時代
  ・大阪にライオン歯科衛生院を開設
  ・第二の故郷に錦を飾る
  ・荒れる戦局の中で
  ・二度目の開業
  ・「巨万の富を得ている」と誤解された役員時代
  ・大阪大学歯学部の講義に向けて
 15 東京医科歯科大学教授に
  ・齢六十にして東京医科歯科大学教授に
  ・附属歯科衛生士学校長を兼任
  ・「臨床をやらない臨床教授はやめた方がいい」
  ・はじめてのキャラバンシューズと旅の一句
  ・忘れ得ぬ最終講義
第七章 愛知学院大学歯学部の二十年
 16 愛知学院大学歯学部とともに
  ・艱難辛苦を乗り越えて愛知学院大学歯学部を創設
  ・関係者すべての念願が叶った日
  ・五十何年ぶりの修学旅行
  ・先陣を切って
  ・歯学部増設後の四年間
  ・長男の死
  ・第四回卒業式
  ・学部長交代
  ・妻ゆきの死
  ・教授定年退職第一号
  ・愛知学院時代の教え子,友人知己
  ・四つの部門のパイオニア
附章 先輩,心の友を偲ぶ
 ◆緑川宗作先生の追憶─四〇年忌に際しての思い出
  ・福島県出身の歯科医人
  ・履歴のあらまし
  ・ライオン入社のいきさつ
  ・緑川と私の出会い
  ・ライオン講演会
  ・口腔衛生講演の創始者─その特性
  ・学校教職員講習会の開催
  ・印刷物の利用─白い玉の発行など
  ・ライオン児童歯科院創立当時のいきさつ
  ・緑川と学校歯科衛生
  ・学校歯科医講習会
  ・おわりに
 ◆森田五郎さんを偲ぶ
 ◆中尾清さんを偲ぶ
 ◆今田見信君との交友五十五年の追憶

 あとがき