やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

いまなぜ「口腔の成育」なのか

 本書のテーマである「口腔成育(育成)」は最近の造語ではないのですが,残念ながら現状では広く認知された概念ではありません.本書ではより主体的な意味の強い『口腔の成育』としましたが,ひらたくいえば「口が育つ」という意味で,大意はご理解いただけると思います.さてここでいう「口」は食物の入口でもありますが,言葉を発し微笑むといった意思や感情表出の窓でもあります.「言葉を話す」「調理して味わう」行為は人間特有の行動であり,「口」は,ヒトが人として生活するうえで欠かせないエネルギーや情報が出入りする外界との重要な接点にほかなりません.また,乳児期の授乳と抱擁により満腹感と幸福感を繰り返し体験することから「気持ち良いこころ」が形成されるばかりか,幼児期に家族や集団で食べものを分かち合うことから他者との関係の理解や「よろこび」の共有などの社会性が生まれます.つまり,「口」は心を育む栄養の取り込み口でもあるわけです.また,こうした「口」の働きは,学習経験によって中枢との間で形成されるネットワークにより作動することも忘れてはなりません.
 明治以降の近代歯科医学では,口腔にある硬組織(歯)の疾患を治す,あるいは喪失後の補綴を専らとしてきたことから,「むし歯がなければよく噛めるはず」「良い入れ歯が装着されれば自然に食べることはできるはず」「歯列矯正すれば上手に話せるようになるはず」といった考え方が定着し,こうした「口」がもつ本来の働きを改善する・育てるといった概念は一般化しませんでした.また,従来は家族や地域社会がこれを伝承する機能を果たしていたために,問題が表面化することもありませんでした.それぞれの地域社会で独自の言語文化・食文化・暮らしぶりが守られ,こころ豊かな暮らしが伝承されていたからです.
 しかしこの状況は,戦後の半世紀で大きく変わってきました.産業構造から日常生活に至るまで社会構造は激変し,少子化・核家族化のみならず子どもを育てる環境も一変しました.「個」を大切にする理念は否定すべきものではありませんが,価値観の多様化が意図に反して世代間,また個人間の意思疎通を疎外したために,子どもや育児担当者の孤立は電子情報の激増に相反して深まるばかりです.
 このような状況のなかで医療や福祉領域での対応は,疾病・障害への対応ではなく,疾病・障害を有する個人の現在から将来に至るまでの生活上の問題への対応が求められています.健康生活を創るのは個々の生活者で,医療従事者が担うのは,個々の生活環境やライフサイクルに沿った専門的支援です.さらに究極的には,ヘルスプロモーションの手法を用いた健康づくりの推進により,健康感を共有できる地域社会創生(コミュニティ創り)を,生活者とともに積極的に推進する役割が重要となるでしょう.これを発達系の歯科医療に携わる職種に求められる役目として端的にまとめれば,「障害や疾患の有無にかかわらず,子どもがもつ“口”の働きが十分に生かされ,健やかなこころと身体が育つよう保護者(育児・養育担当者)と考え,育児・子育て・自立支援を行うこと」となります.これが本書で取り扱うテーマ「口腔成育」なのです.これは,従来の専門領域の口腔衛生学,小児歯科学,矯正歯科学の専門知識を平面的に集結したものではなく,発達心理,言語病理や行政,教育など他の専門領域との連携が不可欠な,包括的かつ全人的な体系です.そして携わる職種は,何より地域に生活する住民の座標軸に立った視点と解析力を養う必要があるといえます.
 これらの展望をもって活躍する歯科医療従事者の理解と実力アップに,本書が貢献することを願ってやみません.
 2003年 盛夏
 佐々木洋
 田中英一
 菅原準ニ

1巻をお読みいただく前に

 従来の疾病対応と異なり,「口腔成育」では子どもや養育者が主体となります.支援する専門職には,生活者の視点で問題を検討する姿勢が求められるわけですが,専門領域に長く携わっていると,どうしてもこの発想を忘れがちです.
 そこで本書は,
 1巻:問題を生活者の座標軸でとらえてみよう
 2巻:口腔成育の実践例を通じて,口腔成育の模擬体験をしてみよう
 3巻:どんな個別の背景にも応じられるような,解析力を身につけよう
 というように,口腔成育へのステップアップの段階を踏まえた編集になっています.1巻をお読みいただくにあたり,その特徴を生かすポイントをお伝えしたいと思います.
 ● 1巻の基本的スタイルは,生活者とともに考える生活機能(障害)と解決策としました.一見,生活者の質問に答えるQ&A集のような体裁は,こうした意図のもとにつくられたものです.タイトルの「こんな問題に出会ったら」の主語は,子どもであり,養育者であり,またさまざまな領域の専門職でもあるわけです.読み進んでいくうちに,生活者と同じ目線で問題をとらえる習慣が,違和感なく定着していくことを願っています.
 ● そして視線の先の対象は,子どもの生活機能全体です.歯や口を育てることではなく,「口」から育つ子どもの心と身体が,口腔成育の目的だからです.
 ● 1巻では,第1章の妊娠期・乳児期から第4章の思春期後期・成人期まで,ライフステージに沿った順序で項目を配置しました.単に成長・発育段階が異なるだけでなく,生活背景も変化しますので,同じ範疇の問題でも,ステージが異なれば内容や解決法は違います.必要に応じて各項目を検索していただくだけでなく,最初から順にお読みいただくことを,ぜひお勧めします.
 ● 1巻の後半になると,お伝えしたい専門的情報が増えていきますので,限られた紙面の都合上,専門職の語り口が自然と増えていきます.この変化に気づいていただけたら,本書のコンセプト(生活者の視点)をご理解いただいた証拠です.
 ● さらに,生活者と同じプラットホームに立ちながらも,さまざまな視点から俯瞰的に問題をとらえる演習として,誌上ディベートのように複数の執筆者が担当した項目もあります.どちらの見解を選択するというのではなく,視野の拡大に役立ててください.
 ● 参考文献ならびに索引を巻末に掲載しました.視野の拡大には,索引で関連するキーワードを検索するのも有効でしょう.
第1章 出産前から乳幼児期の口腔成育
 口から育つ赤ちゃんの心と身体 田村文誉
 おっぱいの吸い方が弱い 田村文誉
 妊娠中,歯や歯ぐきはボロボロになる? 田中英一
 赤ちゃんのむし歯予防はおなかにいるときから 伊藤智恵
 おなかの赤ちゃんのむし歯はいまから退治 田中英一
 舌小帯,上唇小帯が短いといわれました 井上美津子
 まだ歯も生えてこないのに白くて硬い粒がある 田中英一
 同居する親と育児方針が違い困っている 育児書と違う 井上美津子
 そろそろ離乳の準備かな 上手な離乳 田村文誉
 口唇や前歯を使うことで発達が促されます 田村文誉
 うす味は健康な味覚を発達させます 佐々木美喜乃
 おっぱいはいつどうやめたらいいの? 井上美津子
 歯磨きを嫌がります 井上美津子
 歯磨きは指を使ったマッサージから 佐々木洋
 手づかみ食べは自立への第一歩 田村文誉
 指しゃぶりはいけないの?おしゃぶりは? 佐々木洋
 子どもにとって指しゃぶりとは? 井上美津子
 食欲がない 井上美津子
第2章 幼児期から就学前の口腔成育
 なかなか飲み込まないよく噛まない 田村文誉
 食べものの好き嫌いが多い 佐々木美喜乃
 朝食をとらずに1日が始まります 田中英一
 お友だちにむし歯がないのに,なぜウチの子はむし歯になったの? 伊藤智恵
 お友だちにはむし歯がないのに 安井利一
 どんな歯磨剤を使うフッ化物塗布はいつから? 安井利一
 歯磨剤選びはどうするフッ化物塗布ってなんですか? 伊藤智恵
 子どもが入園してやっと余裕ができたお母さんのお口もチェック 佐々木美喜乃
 歯の色が変わった 歯をぶつけた 宮新美智世
 赤ちゃん言葉が直らない 藤井和子
 歯科健診で不正咬合といわれました 佐々木洋
 乳歯のうちに治しておきたい噛み合わせ 嘉ノ海龍三・片芝辰也
 反対咬合なんだけど 佐々木洋
 反対咬合といわれたけれど? 菅原準二
 伝えたい楽しい食べ方 直したいこんな食べ方 田村文誉
 言葉がはっきりしないこのままでよいの? 藤井和子
 指しゃぶりがやめられないやめても開咬が治らない 佐々木洋
 いつもポッカリ口を開けている 井上美津子
 むし歯やけがで乳歯がなくなった 田中英一
 X線写真を撮ったら余分な歯があった 今村基尊
 永久歯が生えてきたのに乳歯が抜けない 田中英一
 コラム:過剰歯はなぜできるの 佐々木洋
第3章 学童期の口腔成育
 後ろに大きな歯が生えてきた 歯の周りが痛い 嘉ノ海龍三・岡本篤剛
 歯をぶつけた,折った,抜けた 宮新美智世
 学校給食が苦手で困っています 田村文誉
 朝食をとらないで登校してしまう 井上美津子
 生えてきた永久歯の形や色がおかしい 宮新美智世
 下の前歯が生えてきたけれど凸凹に並んでいる 佐々木洋
 上下前歯の真ん中(正中)がずれている 佐々木洋
 上の前歯が開いてる・曲がって生えている・出ている 河内満彦
 前歯が生えてこない 佐々木洋
 歯の数が少ないといわれた 高さの低い乳歯がある 嘉ノ海龍三・田中 匡
 前歯が噛み合っていない(開咬)といわれたけど? 梅森美嘉子
 噛んでも上下の前歯が開いて噛み合わない(開咬) 佐々木洋
 犬歯の生える場所がない・八重歯になった 今村基尊
 犬歯や小臼歯の生える場所がない・八重歯になった 佐々木洋
 犬歯が生えてこない 嘉ノ海龍三・加藤尚子
 第二大臼歯が生えてこない 高橋 勉
 健診で歯肉炎といわれた 安井利一
 学校歯科健診で不正咬合の欄に丸がついてきた 五十嵐薫
 学校歯科健診で不正咬合の欄に丸がついてきた 佐々木洋
 歯科健診で不正咬合といわれたけれど? 菅原準二
第4章 思春期から成人までの口腔成育
 思春期のセルフケア支援 佐々木洋
 口を開けると音がする,痛い 山田一尋
 矯正治療を始めたいけれど…… 菅原準二
 口もとが出ているのを治したい 仁平義明
 顎の変形(顎変形症)を治したい 河内満彦
 矯正治療期間を気持ちよく過ごすために 伊藤智恵
 顎関節症でも矯正はできる? 顎関節で音がする 山田一尋
 矯正治療中に転居することになった 伊藤智恵
 矯正治療が終わったら保定という大切な治療があります 伊藤智恵
 親知らず(智歯)は抜かなければならないの? 春山直人

 文献
 索引