やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

 1960年代(昭和35年)から始まった,歯科補綴における鋳造歯冠修復法は,おりからの経済成長をベースにして飛躍的な発展を遂げた.日本の歯科臨床から無縫冠をなくすることを悲願として,さまざまな努力を傾けられた当時の補綴学研究者や教育現場の先達に感謝すること大なるものがある.
 しかし,大いなる発展を示した鋳造歯冠修復法ではあるが,あらためて4半世紀前の成書を読んでみると,その臨床技法は現在とほとんど同じであり,いったい何が“飛躍的な発展”であったのかと考えこんでしまうのも事実である.
 たしかに,歯冠修復に関連した材料の発展には目覚ましいものがある.しかし,臨床技法に関するかぎり,鋳造歯冠修復の間接法が一般臨床医に広く普及したというだけであり,内容的にはいずれも20数年前から使われている技法そのままである.ことに今回のテーマである「印象」は間接歯冠修復法の原点であるが,ことさらに材料の発展だけが目につき,技法に関する進展は不明確である.これまで補綴系雑誌の花形であった印象技法に関する記事も,このところほとんど目にしなくなった.印象には問題がなくなったのであろうか.
 そのように考え今一度身の回りを見れば,日常の臨床でみかける不適合冠は多いし,臨床医の間でかわされる話のなかにも,むずかしい印象テクニックの話題が結構多い.印象技法に関する記事が少なくなったのは,問題がなくなったということではなく,その限界をみたことによる諦めとも思えるものである.諦めであればその原因は何であるのか,印象とはどこまで突き詰めなければならない問題なのか,精度を追う印象操作を“病を癒す”医療行為のなかでどう位置づけするのか…….印象が抱える問題は,歯科医療が抱えている問題をも凝縮していると思えてくる.
 印象とは使いこなしのテクニックである.そのテクニックは理論で裏づけができるはずである.そして印象には,その術者の歯科医療に対する理念が映しだされる.本書の企画には,技術要素の大きい印象操作を基礎学で立証しながらも,印象をとおして歯科臨床のあるべき姿を模索したいという意図があった.たんなる技術書に終わらせたくなかったのである.
 私には臨床に携わって以来,長いこと解決できずに抱えつづけてきた問題がある.歯冠修復物について教育で教わる必要精度と,臨床で可能な再現精度との間にある大きなギャップがそれである.このギャップを埋めないかぎり,現在の間接歯冠修復法は未完成のままであると考え,この問題解決に印象がどこまで関与できるかを追求してみたかった.
 抱えつづけてきたもう一つの問題に,寒天・アルジネート連合印象法がある.歯科理工学的にはどう考えても安定した印象法とはいえないのに,臨床的には高い評価を受けている.このことが印象の抱える問題を浮き彫りにしていると思う.すなわち,歯科理工学的データと臨床における再現精度とを比較し,この両者間の擦れ違いを明確にすることによって印象の抱える問題を鮮明に浮き上がらせ,解決の糸口をつかめるものと考えた.寒天・アルジネート連合印象法に多くの紙面を割いたのはこのためである.
 印象の問題をとおして歯科臨床そのものを語る.企画当初はそのように考えたが,力のなさはいかんともしがたかった.このような編者に最後までご協力くださった執筆者の諸先生には,ただただ感謝申し上げるのみである.
 編集を終えていま思うことは,“お釈迦様の掌のなか“での悪戦苦闘であったという思いである.“飛躍的な発展”も地道な足元の見極めができて初めて可能となるものであって,そう簡単に生まれるものではなさそうである.よくいわれる過去の検証の大切さということが,これであろう.
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 巡り会いがその人の人生を変えることがある.私にとって幸せであったことは,基礎学問を歯科理工学のパイオニア的存在である金竹哲也先生(東京歯科大学学長)に教わり,臨床を齲蝕予防の先駆者である丸森賢二先生(横浜市開業)にご指導いただいたことである.金竹先生には,“臨床あっての歯科理工学“という基本姿勢のもとで問題提起と問題解決の手法を,そしてなによりも大切な歯科医療人が持つべき基本姿勢を,かくあるべきと教わった.また,丸森先生には真の臨床のなんたるかを教わった.現状に甘んじることなく常により高い質を求める診療姿勢,および思考の組み立て方と技術練磨の方法論を学んだ.“一つの内容が上がれば他の内容もそれに伴い引き上げられる.一人の臨床医の質が上がれば全体の臨床医の質が引き上げられる.時間がかかるようだがそれが歯科界をレベルアップする一番の早道”.丸森先生がよく聞かせてくださった言葉である.あふれる患者を前にして質を追う歯科医療に邁進することに疑問をいだき,一度はそれに背を向けた私ではあったが,いまはこの言葉の重さを噛み締めている.
 両先生の精神を多少なりともこの本のなかに映しだせれば幸いである.そしてまた,これから自分の臨床を確立しようとしている若い先生がたに,この書がなんらかの巡り会いをもたらすことができれば望外の幸せである.
 昭和63年(1988年)9月30日 眞坂信夫

 わが国の歯科臨床は,欧米の臨床に追随して上昇線を描いてきたといわれております.特に昭和39年以降の海外旅行の自由化はこの傾向に拍車をかけ,欧米のハイレベルの臨床が,高度成長時代と軌を一にして急カーブで導入され,未整理のまま48年のオイルショックを迎えました.そして,今なおその歪み,混乱を露呈しております.
 そのなかにあって,新しい理論・技術を日常の臨床にどのように活かしてゆくかを模索し研修する「臨床家」がふえてきております.欧米追従からの脱却であり,新制大学発足(27年)から約26年,当然の帰結であり,また生涯研修の意義もここにあります.
 日常の臨床―決してスマートではなく泥くさいものといわれておりますが―に根ざした問題提起,その解答または解答へのヒント,それを臨床に活用する努力,いずれも歯科臨床とはなにかを自ら考え,自ら実践している臨床家のみがなしうることであります.このような臨床家が企画し,書き,読む本,これがシリーズ「現代の歯科臨床」です.
 具体的には,
 (1) テーマはゲスト・エディターが選定することにより,目的と主張をもった個性的な本
 (2) 執筆は臨床家が主体
 (3) 読者対象は基本をマスターした臨床家
 (4) 要点のみを“狭く深く”まとめ,教科書的・総花的内容を避け,雑誌と書籍の特徴を活かしたムック(Mook)形態
 (5) シリーズではあるが,各号のテーマは継続的なものとはしない
 (6) コンパクトで読みやすい本
 などです.
 講座制のもとでの教育,研究,臨床がますます細分化してゆくなかで,歯科臨床を統合して実践する臨床家側からのテーマの提起と執筆,このシリーズが「考える臨床家」への情報提供に資することを願ってやみません.
 昭和53年(1978 年)12月 編集部
1.私の印象遍歴 真坂信夫…… 1
2.歯冠修復における印象の寄与率 愛知徹也……85
3.印象における歯科理工学的データの意味するところ 野口八九重…… 107
4.歯科技工と印象 田中 宏・渡辺登夫…… 125
5.ポリサルファイドラバー印象の要点 藤本順平…… 137
〈付〉ポリエーテルラバー印象…… 162
6.シリコーンラバー印象の要点 中尾勝彦…… 165
7.寒天印象の要点 山下 敦…… 179
8.寒天・アルジネート連合印象の要点 河野暢夫…… 199
9.接着性レジンによる鋳造歯冠修復と印象――接着性レジンの出現によって印象はどう変わるか―― 諸星裕夫…… 235