やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

序にかえて

 岐阜大学医学部麻酔・蘇生学教室 土肥修司

 ■痛みの本体
 人間が訴える“痛み“の本体はなにか,どのような物質か.過去の十数年間に,医学はこの問題に明確な答えを出すよう懸命に努力をし,その本体はいまだ明らかではないものの,痛みの情報伝達に関する私たちの理解は飛躍的に向上した.電気生理学的な知見を基礎に分子生物学的手法も加わり,“痛みの訴え”には,末梢組織・神経,脊髄,脳幹,大脳などの複雑な神経ネットワーク,神経ペプチドや興奮性アミノ酸など多種多様な神経伝達物質,シナプスを介してのニュ ーロンの細胞内情報伝達系への影響,ストレス遺伝子の転写活性化や生理活性物質の合成の促進などが関与することが明らかとなってきた.しかし,ニュ ーロパシックペインなど難治性疼痛のメカニズムは単純なものではなく,その治療法はすぐに解明されるものではないようである.
 ■痛みの分子生物学的分析
 “脳がどうやって視覚,聴覚,味覚,臭覚,体性感覚情報を伝えるか“は過去20年間の大きな課題であり,近年私たちの理解は飛躍的に増加した.さらに,“痛み”がどう伝達され,修飾されるかに関しての理解は,細胞レベルはもとより分子レベルまで大きな進歩を呈したといえよう.この急速な進歩は,神経生物学,行動学的分析,遺伝学そして分子生物学的方法によって可能になったわけであるが,さらにこの長足の進歩は,痛みが末梢組織から中枢神経系に伝達される機序の理解を深め,難治性の慢性痛への新しい治療法を見出す努力への刺激となり,そして慢性痛の病態解明の発展につながったといえる.
 侵害受容の情報は損傷局所の末梢から複数の神経経路を介して脳へ到達する.末梢損傷部位から末梢神経線維・脊髄後根神経節を介して,脊髄後角ニュ ーロン,脊髄から脳幹,脳幹から大脳皮質へのあらゆる伝導部位で,痛み信号の情報伝達は,さまざまに変換,分化,統合される.分子生物学的解析によって,これら痛み信号の情報伝達の複雑さは,上行性の侵害受容経路にあるニュ ーロンのそれぞれが,末梢損傷部位からの持続的な信号によってその遺伝子表現型を変える力をもっていることに加え,損傷やその修復の過程では侵害受容の特殊な神経系の分子蛋白や意識にあがってこなかったサブシステムの役割が顕在化してくることも明らかとなってきた.遺伝子の表現型の変化はそれぞれは異なった分子構成をもち,異なった痛みの病態を形成していると推測される.この特徴が痛み情報伝達の制御に生かされるなら,当然治療にも反映されてしかるべきであろう.
 ■急性痛,慢性痛そしてニュ ーロパシックペイン
 痛みは,その時間的背景から,急性痛と慢性痛に分類され,さらに神経系の直接的な損傷によるニュ ーロパシックペインとに分類されている.それぞれの痛みを抑制するには,一般には異なった薬理学的アプローチがあってしかるべきであるが,いくつかのニュ ーロパシックペインは現有する治療に抵抗し,その臨床はいまだ大きな困難を伴っている.分子生物学的アプローチによって得られた痛みの本体への研究が見出した新しいターゲット物質が,それに関連する新しい鎮痛薬の開発を促し,小動物を用いての行動学的研究を推進している.新しいCOX2の発見は臨床開発競争に拍車をかけ,新しい創薬の刺激となっている反面,モルヒネ,オキシコドン,そしてマリファナに代表される古いオピオイドがまた,あらたなチャレンジを受けている.
 外傷や手術後の痛みなどの“急性痛“への対応も同じといえる.20年前の医療の現場を思うと,麻酔の安全性はもとより,呼吸・循環・代謝の急性管理など,痛み以上に早急に解決しなくてはならない多くの課題があった.さらに,痛みは身体の中の異常の警告であって,診断の重要な糸口なのだから,それのみを治療してはいけないものと認識されていたような時代背景であった.手術後に“麻薬”を使うことは患者の生命を危うくしかねない危険なことであったし,“手術後の痛みの本体“もみえてはいなかったのである.手術後は患者が“痛い痛い”と訴えているほうが,外科医にしても麻酔科医にしても安心できた時代でもあった.“切った“のだから“痛い”のはあたり前,痛みを訴えるのは“わがまま“,痛みをとるのは“無意味なぜいたく”といった雰囲気が急性痛の臨床であった.“痛みをなくす“ことそのものが,“本来の健康を取り戻す早道である”ことに医学全体が気づいたのはごく最近のことであったのである.慢性痛の治療の実態は,いまでも当時の時代背景のままにおかれているといってもよい.分子生物学的アプローチによるさまざまな新しい知見は,ニュ ーロパッシクペインの治療,慢性的な痛み刺激のneuromodulationに大きく貢献するに違いない.
 ■最近の進歩
 手術後などの急性痛はもとより,ニュ ーロパシックペイン,腰痛,背部痛,筋・筋膜痛,リウマチの痛み,そして癌の痛みといった日常的な痛みの訴えを多面的にとらえる方法の開発も進んでいる.末梢神経から脊髄・脳への疼痛の情報の伝達に関係する神経伝達物質や神経系の可塑性変化や病態がさまざまな見地から,分子生物学的アプローチをはじめさまざまな方法を用いて研究されている.
 ニュ ーロパシックペインにおける脊髄神経細胞の易興奮性は,中枢性の痛覚過敏状態を伴いシナプスの可塑性が引き起こされる過程とみることができる.この過程では熱を感受するvanilloid受容体に関するチャネルやH +感受性のチャネルのサブユニットが関係するという知見もある.たとえば,Nicholsらは,サブスタンスPを発現する脊髄細胞をサポニンで除去しておき,ニュ ーロパシックペインや炎症に基づく痛覚過敏状態やアロデニアを完全に,しかも永久的に生じない状態をつくることに成功している.この研究結果のもたらす効果は膨大であるように思われる.しかし,マウスやラットから得られた知見はそれらの1000倍以上の大きさの脳や脊髄をもつヒトにすぐあてはめることは難しい.動物とヒトの間には越えることのできない生物学的な異なりがある.痛みの問題を考えるとき,この認識を忘れてはいけない.
 本特集では,“痛みの複雑なメカニズム”に関する最近の分子メカニズムの知見について,臨床の治療に役立てるという視点から編集した.
 文献
 1)Besson,J.M.:The neurobiology of pain.Lancet,355:1610-1615,1999.
 2)Woolf,C.J.and Mannion,R.J.:Neuropathic pain:aetiology,symptomes,mechanisms,and management.Lancet,353:1959-1964,1999.
 3)Nichols,M.L.et al.:Transmission of chronic nociception by spinal neurons expressing the substanceP receptor.Science,286:1558-1561,1999.
 4)伊藤誠二:痛みの分子機構とGenetic Pharmacology.蛋白質・核酸・酵素,44:1349-1359,1999.
 序にかえて 土肥修司
  ■痛みの本体
  ■痛みの分子生物学的分析
  ■急性痛,慢性痛そしてニューロパシックペイン
  ■最近の進歩
  ■疼痛の生理機構と分子メカニズム

1.痛み発生の生理機構 角田俊信・花岡一雄
 Emergence of pain-physiological mechanism
 ■痛みの定義
 ■痛みの分類
 ■いろいろな痛みのメカニズム
 ■痛みの抑制
 ■痛みの記憶
2.侵害受容器における受容変換と感作の機構 水村和枝
 Transducing and sensitizing mechanisms in nociceptors
 ■侵害受容器における受容変換機構
 ■侵害受容器の感作機構
3.アロディニアのメカニズム 南 敏明・伊藤誠二
 Mechanism of allodynia
 ■アロディニアの発生機構
 ■アロディニアの維持機構
 ■アロディニアの抑制機構
 ■神経因性疼痛におけるNa+チャネルの役割
4.鎮痛および疼痛にかかわる神経ペプチド 中馬吉郎・下東康幸
 Opioid peptides and nociceptive peptides
 ■鎮痛にかかわる神経ペプチド―オピオイドペプチド
 ■オピオイド受容体の多様性
 ■オピオイドペプチドの高活性誘導体
 ■混合アゴニスト/アンタゴニスト
 ■痛みにかかわる神経ペプチド―ノシセプチン
5.オピオイド鎮痛の分子メカニズム 福田和彦
Molecular mechanism of opioid analgesia
 ■オピオイド鎮痛の作用部位
 ■オピオイド受容体の構造的特徴
 ■オピオイド受容体の細胞内情報伝達機構
 ■オピオイド受容体のノックアウトマウス
6.痛みとセロトニン―受容体サブタイプについての最近の知見 仙波恵美子
 The roles of 5-HT and its receptors in the pain transmission system
 ■セロトニン受容体サブタイプ
 ■末梢組織におけるセロトニンと痛み
 ■片頭痛とセロトニン
 ■中枢におけるセロトニンの役割―痛みを抑制
 ■カルシトニンによる鎮痛とセロトニン
7.プロスタグランジンと痛覚修飾 倉石 泰
 Prostaglandins and pain regulation
 ■痛みと末梢組織のプロスタグランジン
 ■痛みと脊髄後角のプロスタグランジン
 ■神経因性疼痛とプロスタグランジン
8.疼痛制御におけるATP受容体の役割 井上和秀
 The role of ATP and adenosine receptors in the control of the pain
 ■イオンチャネル型ATP受容体の関与
9.脊髄鎮痛機構とイオンチャネル・トランスポーター 土肥修司
 Spinal antinociception and ion channels,ion transporters
 ■神経細胞膜のバリアーと担体輸送蛋白
 ■イオンチャネル
 ■イオントランスポーター
 ■イオンチャネル,イオントランスポーターと脊髄鎮痛機構
10.痛覚伝達路の可塑性と遺伝子 福岡哲男・野口光一
 Neuronal plasticity and gene expression in the nociceptive pathway
 ■ニューロパシックペイン/侵害受容性疼痛
11.末梢性/中枢性ニューロパシックペイン 平戸政史・後藤文夫
 Central/peripheral neuropathic pain
 ■末梢性ニューロパシックペイン
 ■医原性のニューロパシックペイン
 ■中枢性疼痛の臨床的特徴と病態
 ■疼痛に関する脳機能画像法による最近の知見
 ■中枢性疼痛の機序に関する最近の見解
 ■微小電極法,PET scanを用いた中枢性疼痛の研究
12.Complex regional pain syndrome(CRPS)の病態 真下 節
 Pathogenesis of complex regional pain syndrome(CRPS)
 ■CRPSの病態
 ■CRPSの疼痛発症メカニズム
13.交感神経と痛み 小川節郎
 Sympathetic nervous system and pain
 ■内臓求心線維と交感神経
 ■痛みの悪循環
 ■知覚神経自体の感受性の増加
 ■炎症による痛みと交感神経
 ■神経損傷による痛みの発生と交感神経
 ■痛みの交感神経依存性
 ■交感神経効果器における感受性の増加
 ■交感神経遮断術後の皮膚C侵害受容器のアドレナリン感受性の獲得
 ■神経因性疼痛患者における交感神経繊維の密度の増加
 ■神経因性疼痛動物モデルの交感神経依存性
 ■交感神経依存性疼痛の臨床診断
14.ニューロパシックペインの動物実験モデル―その薬理学特徴 山本達郎
 Animal models of neuropthic pain
 ■薬理学的特徴
15.手術後の痛み 表 圭一
 Postoperative pain
 ■組織損傷性・炎症性疼痛の機序
 ■術後痛モデルにおける術後痛機序
 ■治療の最前線
16.片頭痛 藤木直人・田代邦雄
 Migraine
 ■頓挫療法
 ■予防療法
17.心および末梢血管における虚血性疼痛 澄川耕二・小野剛志
 Pain associated with cardiac and peripheral ischemia
 ■虚血性疼痛のメカニズム
 ■心虚血性疼痛の治療
 ■末梢虚血性疼痛の治療
18.反射性交感神経性ジストロフィ(RSD) 宮崎東洋
 Reflex sympathetic dystrophy(RSD)
 ■特徴的症状および誘因
 ■治療
19.カウザルギーの治療 弓削孟文・仁井内浩
 Causalgia
 ■診断と治療の手順
 ■治療計画
 ■治療法
20.帯状疱疹後神経痛 比嘉和夫・四維浩惠
 Post-herpetic neuralgia
 ■帯状疱疹後神経痛の定義
 ■帯状疱疹後神経痛の特徴
 ■帯状疱疹後神経痛の病理
 ■帯状疱疹後神経痛の治療
21.リウマチの痛み 星 恵子
 Rheumatic pain
 ■リウマチの疼痛機序
 ■リウマチの薬物治療
 ■リウマチの手術療法
 ■リウマチの物理的療法
22.癌性疼痛 下山直人・下山恵美
 Treatment of cancer pain
 ■痛みの性質と評価
 ■痛みの治療法の基本
 ■癌の痛みの多様性とそれに対する対応
23.PCAって知っていますか?―患者管理鎮痛法の実際 近藤陽一
 Patient controlled analgesia
 ■PCAとは
 ■PCAの適応
 ■PCAの設定にかかわる用語
 ■PCAの記録データにかかわる用語
 ■PCAの実施手順
 ■PCA施行上の注意点
24.交感神経遮断 平川奈緒美・十時忠秀
 Sympathetic nerve block
 ■星状神経節ブロック
 ■胸部交感神経節ブロック(thoracic sympathetic ganglion block)
 ■腹腔神経叢ブロック(celiac plexus block)
 ■腰部交感神経節ブロック(lumbar sympathetic ganglion block)
 ■胸腔鏡下胸部交感神経遮断術(endoscopic thoracic sympathetectomy:ETS)
 ■局所静脈内交感神経ブロック
25.急性痛に対する先制鎮痛―オピオイド鎮痛薬と局所麻酔薬の併用 高崎眞弓
 Preemptive analgesia-epidural coaministration of opioid and local anesthetic agent
 ■どのような手術で先制鎮痛効果が認められるか
 ■オピオイド鎮痛薬は侵害刺激が加わる前に与えないと効かないか
 ■オピオイド鎮痛薬と局所麻酔薬との併用はより有効か
26.イオンチャネルに作用する薬物による疼痛治療―Naチャネル遮断薬を中心にして 長櫓巧
 Pain treatment with ion channel blockers and openers-special reference to Na-channel blockers
 ■Naチャネル遮断薬
 ■その他のイオンチャネルに作用する薬物
27.非オピオイド系・非NSAID系鎮痛薬―リガンド感受性イオンチャネル型受容体/G蛋白共役型受容体への作用薬 濱屋吉拡
 Non-opioid,non-NSAID analgesics
 ■GABA受容体作動薬
 ■NMDA受容体拮抗薬
 ■α 2アドレナリン受容体作動薬
28.NSAIDs-末梢および中枢作用 増江達彦・土肥修司
 NSAIDs-analgesic action in peripheral and in the central nervous system
 ■NSAIDsの中枢神経系への作用
 ■COX-2選択的阻害薬
 ■NO-NSAIDs
29.脊髄電気刺激法―その鎮痛機序 飯田宏樹・土肥修司
 Mechanisms of spinal cord stimulation
 ■SCSの臨床適応
 ■SCSの臨床使用における作用の特徴
 ■SCSの作用機序
30.レーザーによる疼痛緩和 劔物 修・大塚浩司
 pain attenuation by laser therapy
 ■適応疾患
 ■照射方法
 ■疼痛緩和の作用機序
 ■注意点,問題点

■サイドメモ
 心頭を滅却すれば,火もまた涼し?
 小型脊髄神経節細胞
 ノシセプチン(nociceptin)とノシスタチン(nocistatin)
 コンビナトリアルライブラリー
 2種類のnociceptor
 プロスタノイドとプロスタノイド受容体
 ATP受容体
 チャネルとポンプ
 神経系の可塑性と新生児
 脳機能画像法
 痛みに関する用語
 NMDA受容体とニューロパシックペイン
 術後痛モデルの作製方法
 血管説から三叉神経血管説へ
 幻肢痛
 神経因性疼痛(neuropathic pain)
 RSDとカウザルギー
 帯状疱疹後神経痛への移行因子
 抗サイトカイン療法
 神経障害性疼痛
 c-Fos
 ギャバペンチン(gabapentin)
 COX-1とCOX-2
 虚血性心疾患への適応
 LASERとは