やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 私たちの小さな惑星,地球では,何千万もの人が糖尿病と戦っています.
 カナダのトロント大学で,二十九歳のバンティングとまだ医学生だったベストが九週間の集中的な努力でインスリンを発見したのは,今からちょうど八〇年前のことです.そのころ糖尿病は絶望的であると同時に神秘的な病気でした.すでに早くから古代インド人がこの病気を認識して,その本質も把握していたのですが,その後二千年以上の長いあいだ空論の時代が続いていました.
 バンティングとベストは,一九二一年,関東大震災の二年前に,膵臓を全部取り除いた犬が糖尿病になるというミンコフスキーらの偶然の発見に基づいて,膵臓から未知のホルモンの抽出に挑みました.この本でお読みになるように,権威者たちの冷たい視線の中での無名の二人の若者によるインスリン発見は,息をのむような壮挙と挫折と幸運の物語です.インスリンは,いまも地球上の至るところで「バンティング・ベストの奇跡」を与え続けています.
 この本では,有史以来,糖尿病から人類を救おうと努力した人々のことを書きました.もっとも力を注いだのは,彼らの残した著作や論文の探訪です.彼らが語る生々しいドラマの中には,人間の愛があり,生と死と,喜びと悲しみがあります.
 できるだけ平易に書きましたが,二世紀以前に糖尿病の論考を残したアレタエオスとガレノス,史上初めて膵臓切除実験を行ったブルンネル,バンティングらに先んじてインスリン発見に挑んだパウレスク,日本の熊谷岱蔵をはじめ,ラテン語から訳した糖尿病論や,日本医学史料の調査など,これまで知られていない資料についての研究も含んでいます.
 読者はこの本の中に,自然摂理の神秘の扉を開けようとした並外れた人々の,類い稀なる壮絶な人間ドラマをご覧になります.人間の幸運と不運,偶然と直感,つかの間の喜びと究極の失意,謙虚と嫉妬,天分と創造,執着と達観.すぐれた人々の生きざまは,宇宙の中の人間とその人生,人間の背後にある大いなるもの,自然の摂理と人類の未来について,あらためて考えさせることと思います.
 糖尿病との戦いには,バンティングらの研究がノーベル賞を受賞したころの感動に満ちた大きなうねりに続いて,二〇世紀後半の科学のめざましい進歩の中で,ふたたび大きなうねりが始まっています.インスリンの発見によって,糖尿病の人々の人生は大きな恩恵を与えられましたが,今でも,腎症や網膜症をはじめ糖尿病の人々の前に立ちはだかる難問は山積しています.このような合併症はなぜ起きるのか,どうすれば避けられるのか.人類の叡知を集めて速やかな解決が待たれます.
 それでこの本の終わりに,インスリン発見後の研究の大きな進歩のいくつかについて触れることにしました.インスリンの構造と膵臓B細胞のインスリン生合成・分泌の精巧な仕組み,インスリン遺伝子,そしてインスリンができる前のプロインスリン,プレプロインスリンの発見,インスリンがブドウ糖の細胞内への輸送を促進する機構の解明など,この第二のうねりの歴史と現状については,あとがきに記したいくつかの参考文献に拠って略説しました.とりわけ丸山工作博士の『新インスリン物語』(一九九二年,東京化学同人社)からは,何人かの新しい発見者について引用させていただきました.
 新しいインスリン,糖尿病に使われる内服薬,膵臓移植などの歴史については,紙数の関係で省略しましたが,膵島細胞の移植は将来実用化されて糖尿病の治療に画期的な変化をもたらすと思われるので,最近の進歩を紹介しました.
 この本が,糖尿病と戦う多くの人々,そしてこれから糖尿病の研究に踏みこもうとする若い人々を力づけることができればと願っています.
 二宮陸雄
 はじめに
I 糖尿病と戦う
 『パピルス・エベレスの処方』
 スシュルタの蜜の尿
 気あふれて消渇となる
 患者の尿を見る
 飲む水より多い尿
 パンクレアス――すべて肉なるもの
 アレタエオスの糖尿病の原因
 ガレノスの美しい肉
 一斗も飲み一斗も尿をする
 梓州の長官が消渇を病む
 自ら愛惜せざれば死踵をめぐらさず
 麸片に似て甘い尿
 食物の精気が上蒸しない
 血中に火が潜伏する
 雀目と内障
 隔膜の消と肌肉の消
 消渇論の低迷
 疫病におののく鎌倉幕府
 小児の瘡瘍と口渇
 汪機の四症例
 貧賎の者には鮮し
 バンカラス――アラビアの膵臓
 孔からもれる水,火を鎮めるケシの実
II 糖尿病に挑む
 ガデスデンのジョン
 ヴァレンティンの三原質とアルケウス
 割れて先の鋭い塩が痛みを起こす
 塩づけにされた腎臓
 砒素と水銀で塩と明礬を殺す
 人体解剖学の夜明け
 甘美を食し,その気溢伝して消渇となる
 サントリオ・サントリオの計量代謝学
 ウィルスングが膵臓の絵を描く
 曲直瀬玄朔の『医学天正記』
 ヴァン・ヘルモントの発酵
 酸とアルカリのバランスを考えたシルヴィウス
 腎臓の過熱引水説からの脱却
 ウイルスの『理論治療学』
 蜂蜜や砂糖のように異常に甘い尿
 腎臓の異常か,血液の欠陥か
 血液の結合がゆるんで塩を離す
 心窩部の熱と尿の甘味をもたらすもの
 処方と節制と食餌と
 化学の開拓者ボイルと宇宙創造神への信仰
 ボローニャ大学のマルピギーの腎糸球体
 犬を開腹して膵液を集めたド・グラーフ
 膵臓を切除した犬の口渇多飲症状
 ライデン大学のブールハーフェ
 「カワキのヤマイ」の症状が書かれて
 膵臓を膿血と誤認する
 『解体新書』で初めて膵臓の存在を知る
 「すべて肉」を意味する「膵」の字を創った宇多川玄真
 ドイツの解剖学者クルムス
 糖尿病を代謝異常と見抜いたドブスン
 腎臓の病変は原因ではなく結果だとしたカレン
 ロロの肉食療法
 メレディス大尉の糖尿病
 胃に原因がある特殊な病気ではないか
 膵臓が注目され始める
 酸素による燃焼
 病気の座はどこにあるのか
 本間玄調が経験による症状を書く
 緒方洪庵の『扶氏経験遺訓』
 糖尿病昏睡の大呼吸
 内部環境の恒常性と内分泌
 魔法の島を発見したランゲルハンス
 ミンコフスキーらの膵臓全摘出糖尿病の発見
 原因を膵島とつきとめたアメリカのオピー
 膵臓内分泌説への賛否両論
 バンティングらのインスリン発見に向けて
III インスリンの発見
 バンティングとベストの最初の報告
 最初の奇跡
 運命の女神に魅入られて
 マクラウド教授との出会い
 発見
 マクラウドの手記
 インスリンを発見したという他の人々
 インスリンを糖尿病の人の手に
 インスリンの単位
 コントロールの原則を求めて
 理想と現実のはざまで
 まだ消えない生命への脅威
 網膜の血管が変化して出血する
 腎糸球体の変化で腎臓の働きが低下
 網膜症や腎症は防げるか
 わずか一年でもかなり進んでしまう網膜症
IV その後の研究と新しい発見
 膵島は全部集めても一グラム
 インスリンの構造
 インスリンの微量測定を可能にしたバースンとヤーロウ
 インスリン分子の立体構造
 インスリンの家族(インスリン・ファミリー)
 インスリン遺伝子
 遺伝子とインスリンの生合成
 インスリンの生合成過程
 インスリン遺伝子の役割
 インスリン生合成の異常
 インスリンの細胞からの放出
 組み換えDNAの企業化
 インスリンはどのようにして働くか
  インスリンレセプター
  ブドウ糖輸送担体――インスリンがブドウ糖の細胞内取り込みを促進する機構
 インスリンの分泌
 なぜ糖尿病になるのか
  1A型糖尿病の原因
  2型糖尿病の原因
 糖尿病の合併症はなぜ起きるのか
 血糖コントロールは合併症を防げるか
 移植によるインスリン治療の新しい試み

 あとがき
 二宮陸雄・糖尿病学史関係の著作および主要論文
 索引