やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 科学の進展は,人間の自然な生命の誕生を人為的にコントロールすることを可能にした.その流れは,生命の終末にも及んでいる.人の「生活の質」は,ときには「生命の質」にすり替わる危険性がある.少子高齢化の社会現象によって,さらに拍車がかかり,多様な倫理的問題が生じてきている.ゆえに,看護師を志す学生は「看護倫理」を学ぶのである.特に臨床場面は,人生の縮図であり,「患者から学ぶ」ことが多々ある.これに気づく感性が必要である.生命誕生の喜び,死との出会い,病苦による耐えがたい苦痛などを医療施設での「日常」と見過ごしてはならない.
 「看護は倫理そのものである」というのが,私の持論である.その根幹は,学生のときの臨床実習で遭遇した数々の体験である.学生の特権は,学び,考え,また臨床の看護師,医師,先輩などに疑問を投げかけ,友人と自由に議論できることである.「聞くは一時の恥,聞かぬは一生の恥」という格言があるが,疑問は臆せず問うことが重要である.他の人との対話から医療職としての姿勢,考え方,人間性,感性と価値観を学ぶことができる.老若男女問わず患者から学ぶことも多い.
 臨床における人間関係には,患者と看護師の関係,家族と看護師の関係,医師と看護師の関係,他の医療職と看護師の関係などがある.人と人との関係である「人的環境」の質は,患者の心身の苦痛に多大な影響を与えることを認識したい.特に,患者の日々の療養生活の良し悪しは,看護師の患者に対する姿勢,言動によって左右される.看護師としての姿勢,品性は倫理的問題の思索を通して想像力を身につけることによって獲得できる.
 日常生活に目を転じれば,今日の生活の豊かさは自然環境の破壊と連鎖している.環境汚染による人々の健康被害は,ときに次世代に伝承する.また,情報化時代にあって,国内のみならず世界の出来事も即座に映像を通して知ることができる.最新の情報を大量に早く得ることも可能である.しかし,情報を集積するだけでは,本当の知識とはいえない.本当の知識とするためには,集めた情報を正しく理解し,意味を考えることができる学力と人間性を培っておく必要がある.
 本書の特徴は,看護師の職業倫理の基盤となる人間性を培うため,「文学書を読む」ことを通して学習する看護倫理のテキストである.本を読んで考え,学友,同僚と議論することがねらいである.そこで,良書として広く読者に読まれている小説あるいはノンフィクションの11 冊から13 の話の一部を抜粋した.本書では本の一部を抜粋しているが,できるだけ全文を読破してほしいので,手軽に読める短編を選定した.読書を通じて登場人物の人生に自分を重ね,追体験,思慮することは,複雑で多様な価値観に気づく感性と想像力を培い,倫理的課題を見い出すことを可能にする.
 また,章ごとに個々の学生に「考えてほしいこと」をあげ,考えるために必要な知識を「解説」として簡単に述べた.最後に「クラス討議する例題」をあげた.その例題は,クラスで討議することが有効と考える例題をあげた.また,本の内容と異なる意思決定によって,起こりえる状況を想像し,推慮するための例題もあげている.価値観の相違からおきうる状況を推察する想像力こそ,看護倫理の礎になるからである.
 看護倫理学には主体的な学習が必要である.そこで各章末に必要に応じて「memo」を付け,学習の動機づけとした.
 本を読むことについては,『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎:本の読み方 スロー・リーディングの実践,PHP新書,2006)なども参考にされたい.
 2012 年2 月
 石井トク
1 看護倫理学概論
 1.看護倫理の経緯
 2.生命倫理と看護
 3.倫理原則と看護
  (1)尊重:患者を「人」として尊重する
  (2)善行:患者にとって,最善の医療を実践する
  (3)正義:患者は平等である.資源が限られている時の適正な配分と,利益と負担を平等にする
2 『高瀬舟』 森 鴎外
 倫理のキーワード 安楽死,尊厳死,終末期医療
 本の紹介
 解 説
  (1)安楽死とは
  (2)尊厳死とは
  (3)終末期医療
3 『海と毒薬』 遠藤周作
 倫理のキーワード 捕虜の人権,医学研究の倫理,医師の職業倫理
 本の紹介
 解 説
  (1)非常事態における「人体実験」の正当化とは
  (2)医学研究の倫理
  (3)捕虜の人権
  (4)倫理とICNの活動
4 『ジョニーは戦場へ行った』 ドルトン・トランボ著,信太英男訳
 倫理のキーワード 人間の尊厳,植物状態,観察力とコミュニケーション
 本の紹介
 解 説
  (1)生命の質に関する議論
  (2)植物状態,植物状態のような人
  (3)今,「植物状態」とは
  (4)固定観念からの脱脚
5 『個人的な体験』 大江健三郎
 倫理のキーワード 障がいを有する児の人権,児の治療に対する意思決定
 本の紹介
 解 説
  (1)出生後に判明した児の外表異常
  (2)重篤な疾患をもって誕生した児に対する対応と説明
6 『臓器農場』 帚木蓬生
 倫理のキーワード 臓器移植,無脳症児
 本の紹介
 解 説
  (1)脳がない胎児,新生児は人ではないのか
  (2)臓器移植
7 『夜と霧』 V.E. フランクル著,霜山徳爾訳
 倫理のキーワード 希望,看護師の職業倫理
 本の紹介
 解 説
  (1)ナチスドイツと生命の価値
  (2)わが国の優生思想と平等
  (3)生きる意欲を支えるもの
  (4)強制収容所と看護師の倫理
  (5)看護協会と職業倫理
8 『闘』第3 章 幸田 文
 倫理のキーワード 生きる意欲,患者と家族
 本の紹介
 解 説
  (1)患者と家族
  (2)SOL(Sanctity of life)とQOL(Quality of life)
  (3)生きがい
  (4)家族と看護
9 『闘』第10章 幸田 文
 倫理のキーワード 看護の経験知,危険予測と危険回避
 本の紹介
 解 説
  (1)結核患者の実態
 2「経験」と「経験知」
  (3)危険の予測と危険回避
10 『楢山節考』 深沢七郎
 倫理のキーワード 高齢者の人権,高齢者の虐待,掟と法
 本の紹介
 解 説
  (1)人間の成熟へのプロセスとしての老化
  (2)生命の中断
  (3)高齢者虐待防止法
  (4)死の迎え方と尊厳
11 『神の汚れた手』光と風 曽野綾子
 倫理のキーワード 患者の権利,インフォームド・コンセント,生殖補助医療
 本の紹介
 解 説
  (1)医療における真実とは
  (2)インフォームド・コンセントと患者の権利
  (3)インフォームド・コンセントにおける看護師の役割
  (4)知る権利と知らされない権利
  (5)不妊と生殖補助医療
12 『神の汚れた手』未婚の母の家 曽野綾子
 倫理のキーワード 非配偶者間人工授精(AID),児童虐待
 本の紹介
 解 説
  (1)児童虐待と児童虐待防止法
  (2)子どもの権利と親の権利
  (3)特別養子制度
  (4)生殖補助医療をめぐる争いと行政の対応
13 『水俣病』 原田正純
 倫理のキーワード 公害,環境汚染,科学者の倫理
 本の紹介
 解 説
  (1)水俣病と公害
  (2)科学者の責任と倫理
  (3)倫理指針の意義
  (4)科学者の倫理と機関内倫理審査委員会
14 『星の王子さま』 サン=テグジュペリ著,河野万里子訳
 倫理のキーワード 心で見る,ケアリング,共感
 本の紹介
 解 説
  (1)経験の共有と信頼関係
  (2)絆とケアリング
  (3)「心で見る」ということ
15 倫理的問題の分析・意思決定・評価
 事例
  (1)ジレンマの意識化および倫理的課題を見い出す
  (2)倫理的な思考過程を養う学習のプロセス
  (3)フローチャートの使い方
  (4)倫理的問題に反応する
  (5)倫理的課題抽出マトリックスの活用
  (6)フローチャートによる「事例」の展開例

 あとがき
 文献
 〈資料1〉ニュールンベルグ倫理綱領(1947 年)
 〈資料2〉終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン(抜粋)(2007 年厚生労働省)
 〈資料3〉重篤な疾患を持つ子どもの医療をめぐる話し合いのガイドライン(案)(抜粋)(2011 年日本小児科学会)
 〈資料4〉看護者の倫理綱領(抜粋)(2003 年日本看護協会)
 〈資料5〉ICN看護師の倫理綱領(抜粋)(2005 年ICN)
 〈資料6〉被拘禁者および囚人のケアにおける看護師の役割(2011 年ICN)
 〈資料7〉ヘルシンキ宣言─人間を対象とする医学研究の倫理的原則─(2008 年WMA)
 索引