やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに
 30年近く,種々の原因で生じた口腔機能(食べる機能や話す機能)の障害の治療を担当している.担当させていただいているのは,口蓋裂や口腔咽頭腫瘍術後,外傷性頭部障害,神経筋難病,脳血管障害,近年では遷延性意識障害,認知症の方々である.口腔機能の障害に関わりだした当初は,音声言語障害の原因の一つである口蓋帆咽頭閉鎖不全(いわゆる鼻咽腔閉鎖不全)の診断と治療を担当していた.摂食・嚥下障害に関わるようになったきっかけは,音声言語障害を有する方々のなかに同時に,口からうまく食べられないケースが多いことであった.残念ながら,当時はこのような多様な障害の方々に対応するための適切なテキストはわが国にはなかった.
 1990年代に口蓋帆咽頭閉鎖機能の共同研究のために頻回にDavid P.Kuehn教授(元ASHA副会長,The University of Illinois at Urbana-Champaign)の下を訪れていたので,たびたびキャンパスの書店で関連する書物を探した.すでに講義用のテキストとして出版されているものがあったが,多くは,私が担当していた方々の障害には適用できないものであった.彼の隣室には米国Dysphagia学会副会長でもあったAdrienne Perlman教授(2006年Dysphagia学会会長)がおられた.彼女が,私やKuehn教授同様に,筋電 図研究を行っていたことから親しくさせていただき,彼我でのST職の資格制度や教育,職域について話を聞かせていただくなかで,私が求めるテキストが少ない理由がわかった.当時(おそらく現在も),米国での嚥下障害の臨床は全米のCCC―SLPの85%が専従的排他的に関わる領域であり,臨床現場で他職種(たとえば医師や歯科医師)の入る余地はきわめて少なく,これはspeechの臨床とまったく同じである(正確にはspeechの研究に関わる歯科医師や医師はいる)ことに拠っていると気づくに至った.
 寡聞にして現在の状況はわからないが,米国のCCC―SLPが臨床を行うのは病院であることから,対象となる摂食・嚥下障害の方々は,通院でき,なんらかの手段で意思疎通ができる人となる.したがって,米国で出版されている嚥下障害に関わる成書(Perlman教授もDeglutition and its Disordersという名著を著している)は,それを利用するCCC―SLPの要求に従うものである.したがって,遷延性意識障害に陥っている人々,脳血管性認知症か脳血管障害を有するアルツハイマー病の方が80%を超える老人保健施設の利用者,在宅で要介護状態にある方々には,それらのテキストに記載されている検査や訓練治療法がうまく適用できないのは当然であった.
 現在,私が担当させていただく方々では,急性期での対応が漫然と継続されていたり,誤った口腔ケアであったり,なかには急性期に医師から「生涯,口では食べられません」と言われたことで未介入のまま陥った廃用性変化が原因であったりすることが多い.しかも,在宅や施設で生活することが余儀なくされている方が多いため,正しく生理学的に評価されることなく,ご家族やケアを担当する方々が,「通院でき,指示に従える人」向けの方法を試行錯誤的に用いられていることが多い.このことにより,障害像がいっそう複雑になっていることも経験する.
 米国でASHA(American Speech,Language,and Hearing Association)がその前身も含めて1925年に設立されたこととわが国でSTの国家資格が設立された年から考えると,speechに関しては70年以上もの大きな歴史の差がある.しかしながら,米国とわが国での嚥下障害の研究や臨床が始まった時期は,speechに比較して大差なく,この分野でのエビデンスは彼我ともに日々に変化していると考えられる.すなわち,関連した書物は出版と同時に陳腐化する可能性があり,個人的には,本書を著すことには研究者としての後ろめたさをもっていた.
 しかしながら,多様な原因と,多様な介入のために,多様化した嚥下障害に対して,コホートスタディやケースコントロールスタディが人道上も可能とは思えず,またメタアナリシスを待つのも無責任であるとの思いで,現在流布する診断方法や治療法に欠けることの多い臨床口腔生理の立場から,ケアの視点でヒントを提供できるかもしれないとの気持ちで恐る恐る著した.本書をお読みくださった方々からのご意見を頂戴して,内容を修正するという考え方でお許しいただこうと思っている.
 著すにあたって,「病態や責任疾患に依存しない」「在宅や施設でも」「対象者とコミュニケーションが可能かどうかにかかわらず」共通して適用が可能な「臨床の口腔生理学」に基づいた考え方を述べることに気をつけたが,多くのご批判やご指摘が殺到するものと思っている.それによって,このような方々での口から食べるための臨床や研究が進み,より多くのご家族や関わられる方のお役に立つエビデンスが生まれることを望んでいる.
 最後になったが,本書の企画段階から数々のご助言と励ましのお言葉を頂戴した紙屋克子先生(筑波大学名誉教授)ならびに吉田春陽先生(守口市歯科医師会)には満腔の謝意を表し,執筆期間中の診療に当たっては自身の学位研究に多忙を極めるなかで協力をいただいた河合利彦博士に深く感謝する.また医歯薬出版の担当の方には,企画から出版にいたるまでたくさんのご提案をいただいたことを感謝し,尋常ではない長い時間
 お待たせしたことをお詫び申し上げる.
 『実践なき理論は無力である,理論なき実践は暴力である』を心して.
 2009年6月 舘村 卓
第1章 リハビリテーション・口腔機能・嚥下のメカニズム
 I リハビリテーションと口腔機能
  1 リハビリテーション医療における口腔機能
  2 なぜ,どこで,誰が経口摂取を望んでいるのか
  3 なぜ,経口摂取は難しいのか
 II 動物の嚥下,ヒトの嚥下 なぜヒトは誤嚥するようになったのか,そして動物は誤嚥しないのか
  1 動物の口腔,鼻腔,気管,食道の位置関係
  2 ヒトの口腔,鼻腔,気管,食道の位置関係
   a 口蓋帆咽頭閉鎖機能の獲得
   b 口腔機能(音声言語機能・摂食機能)
   c 「食事」か「食餌」か
   d なぜ意識障害例を代表とする嚥下障害への対応が必要なのか
第2章 咀嚼・嚥下機能の獲得と障害の生理
 I 乳児から成熟型への摂食・嚥下機能の獲得 なぜ,乳児は寝かせたままでも誤嚥しないのか
  1 離乳開始まで
   a 生後直後〜離乳前期
   b 乳児嚥下―構造上の特徴
   c 乳児嚥下―機能上の特徴
  2 離乳開始以後
   a 離乳初期
   b 離乳中期
   c 離乳後期
 II 成人型の摂食・嚥下機能とその低下
  1 4(5)期型嚥下モデル
   a 先行期
   b 準備期
    1 準備期に必要とされる口腔機能と口腔器官の特性
    2 食物物性と咀嚼機能
   c 口腔期
    1 口腔(前)期
    2 口腔期後半(移行期)
   d 咽頭期
    1 咽頭期前半
    2 咽頭期後半
    3 咽頭通過時間を左右する因子
    4 咽頭期誤嚥の原因
   e 食道期
第3章 生理学に基づく対応
 I 対応と評価にあたって
 II 摂食・嚥下障害への介入と評価
  1 評価するうえで忘れてはいけないこと
  2 具体的な評価の流れ
  3 評価するべき項目
   a 問診,視診,触診―関連する因子の洗い出し作業
    1 環境因子の評価
    2 医学的介入の経過
    3 本人の因子
   b 嚥下試験
   c 臨床検査
   d 機器による検査
   e 関連職種からの情報収集
   f 経口摂取時の観察
 III 摂食・嚥下障害への対応の実際
  1 口腔ケアと間接訓練
   a 「口腔ケア」についての傾向と誤り
   b tailor-made oral-careの考え方
   c 口腔衛生状態の改善を目的とした口腔ケアによって得られる効果
   d 口腔機能療法としての口腔ケア
    1 効果
    2 口腔機能療法としての口腔ケアで使用するもの
  2 口腔装置治療
  3 フローチャートに基づく嚥下リハビリテーション
   a 経口的に栄養摂取している場合
    1 I型の対応
    2 I型変法
    3 II型の対応
   b 経口的に栄養摂取していない場合
    1 III型の対応
     III―1型の対応
     III―2型の対応
     III―3型の対応
    2 IV型の対応
    3 V型の対応
第4章 フローチャートに従った実際の取り組み
 事例1 歯科医師会,訪問歯科衛生士,専門医,施設スタッフの連携によって対応した脳血管性認知症による長期入院症例【I型変法】
 事例2 口蓋帆咽頭(いわゆる鼻咽腔)閉鎖不全を装置によって改善することで対応した舌咽神経腫瘍術後症例【I型】
 事例3 下肢機能の訓練を行うことで対応できた養護学校卒業後に嚥下障害を発症した症例【II型】
 事例4 咬合状態の評価と筋電図所見に基づいて廃用性変化を改善することで対応できた先天的消化管障害により長期に経口摂取していなかった小児症例【III型(III-1)】
 事例5 口唇機能賦活のための装置とIOE法によって対応できた舌口底癌手術後症例【III型(III-1)】
 事例6 口腔の廃用性変化を改善することで普通食まで誘導できた脳外科手術後7年間非経口摂取であった遷延性意識障害症例【V型】
 事例7 早期に歯科医による口腔環境の回復と居住環境の調整によって対応した脳卒中後症例【IV型】

 付 歯科医科連携の一例 食道癌手術患者への口腔ケアを通じた摂食・嚥下リハビリテーション
  1 背景
   歯科医科連携の経過
  2 StageI―術後にだけ対応したチームアプローチ―(1997年5月〜1998年5月)
  3 StageII―術前後に全症例に対応したチームアプローチ―(1998年5月〜2005年3月)
  4 まとめ
   食道癌術後における摂食・嚥下障害発症の背景と対応
   課題

 ・本文中の略語
 ・索引