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新しい糖尿病研究のミレニアムを迎えて

 東京大学大学院医学系研究科糖尿病・代謝内科 門脇 孝

 1990年代の糖尿病の分子医学は目をみはるスピードで進歩した.1990年代初頭には,ブラックボックスであった,インスリン受容体以降の細胞内情報伝達経路,膵β細胞におけるグルコース依存性インスリン分泌の分子機構はその大要が解明されたといえる.また,レプチンやPPAR γなど数年前まではその存在すら想像されていなかったエネルギー蓄積や消費の調節機構の大枠が明らかになりつつある.このような進歩のうえに急ピッチで進められている糖代謝を中心とするエネルギー代謝の恒常性調節の仕組みの解明は,ヒト糖尿病遺伝子の候補となる経路やカスケードを提供する宝庫となる.同時に,ヒト糖尿病遺伝子が解明された暁に,その機能的解析を進める基盤的情報としての役割を果たすことが期待される.
 一方,ヒト糖尿病原因遺伝子の解明は,1990年代初頭にはインスリンとインスリン受容体という2つの特殊な糖尿病原因遺伝子が明らかにされていたにすぎなかったが,1999年ついに,多因子遺伝病としての一般の糖尿病について遺伝子解明の突破口が開かれたことは特筆に値する.シカゴ大学のBellらは,メキシコ系アメリカ人の糖尿病遺伝子の全ゲノムマッピングを試み,染色体2番の上の従来NIDDM1とよばれている遺伝子が“カルパイン10”という蛋白分解酵素の一種であることをつきとめた.このカルパイン遺伝子には頻度が高いG/A多型があり,G alleleは糖尿病感受性,A alleleは糖尿病抵抗性であることが解明された.さらに,染色体15番の上のNIDDM3とよばれている遺伝子にも同様の多型があり,この両遺伝子が糖尿病感受性である場合,過食,高脂肪食,運動不足が加わると糖尿病を発症することが明らかにされた.このカルパイン10のG alleleは骨格筋のインスリン抵抗性や基礎代謝率低下をきたし,肥満になりやすいこともわかった.
 Bellらの研究の意義は大きく4つにまとめられる.
 (1) この研究の結果一般の2型糖尿病という多因子病の解析において全ゲノムマッピングという戦略が可能であることがはじめて証明された.
 (2) その遺伝子がこれまでまったく糖尿病への関与が想像されていなかった新しい経路であったという事実は,糖代謝や糖尿病に関与する未知の経路やカスケードの存在を強く示唆している.
 (3) 一般の糖尿病が2つの遺伝子多型によってその遺伝的罹患性の6〜7割が説明されるという意外な単純さであった.
 (4) 同定されていた遺伝子は30年以上も前からの倹約遺伝子という考え方に合致していた.
 候補遺伝子アプローチから肥満や糖尿病への関与が想定されているβ 3アドレナリン受容体遺伝子Trp64Arg多型やPPAR γ Pro12Ala多型も同様に倹約遺伝子であると考えられる.
 このように糖尿病をはじめとする生活習慣病は,何千年何万年にわたって飢餓の時代に人類の生存に有利であった倹約遺伝子が現代の急増する高脂肪食,運動不足などの生活習慣に曝された結果起こる“遺伝と環境の不調和・衝突”として理解することができるようになった.
 2002年には終わろうとするヒトの全ゲノム配列の解析に続いてSNP(single nucleotide polymorphism:スニップ)を中心としたヒトの遺伝的体質についての膨大な情報をもとに,2000年からはじまる新しいミレニアムの初頭の5〜10年の間に,糖尿病遺伝子の多くが同定されるであろうという予測が強い.しかし,このような糖尿病疾患感受性遺伝子の同定は“糖尿病の分子医学”のゴールではなくてまさにスタートなのである.
 糖尿病感受性遺伝子が同定された暁にはおもに3つのことが問題となる.
 第1は,それぞれの糖尿病遺伝子の機能解明や,複数の糖尿病遺伝子間あるいは糖尿病遺伝子と環境との間の相互作用を解析することを通して,多因子病としての糖尿病発症の分子メカニズムを明らかにしていく作業である.
 第2は,遺伝子による発症前診断と個々の遺伝子に応じた効果的な発症予防法の確立,また,遺伝子に立脚したオーダーメイド治療薬剤の開発である.同時に,細小血管症や大血管症に関与する遺伝子も明らかにされ,個々の患者に応じたコントロール目標やリスクファクター管理を行うことができるようになる.
 第3は,糖尿病の根本的治療法をめざしてヒト胚性幹細胞を用いた膵β細胞再生をはじめとする細胞療法や遺伝子治療の開発であろう.
 このように新しいミレニアムの初頭に,糖尿病の分子医学はこれまでの1990年代の研究の進歩のうえにまさに新たな時代を迎え,大きく花開く可能性が高い.合併症や不良な予後に苦しんでいる糖尿病患者は,現在700万人を超え,いまもなお増えつつある.糖尿病の分子医学のさらなる発展により糖尿病の根本的予防と治療法が一刻も早く確立されることを強く期待したい.
 本特集では,各分野における第一人者の先生方にご執筆いただいた.心より厚く御礼申し上げたい.
 本特集の内容に刺激され,糖尿病の解決に向けてひとりでも多くの若い研究者がこの分野に加わり,よい仕事をしてくれれば望外の幸甚である.
 (2000年1月)
新しい糖尿病研究のミレニアムを迎えて  門脇孝

インスリン分泌の分子メカニズム
 1.膵β細胞の発生・分化・再生機構  藤巻淑・小島至
 2.転写因子によるβ細胞機能の調節とその異常  山縣和也・松澤佑次
 3.ブドウ糖代謝とインスリン分泌  梶川麻里子・他
 4.インスリン分泌におけるNADHシャトルの役割  江藤一弘・門脇孝
 5.ミトコンドリア機能のインスリン分泌における役割とその異常  野田光彦・門脇孝
 6.KATPチャネルの分子制御―インスリン分泌調節と破綻  矢田俊彦
 7.カルシウムシグナルとインスリン分泌  高橋倫子
 8.ブドウ糖によるインスリン分泌刺激―triggeringとaugmentationを区別する視点からのoverview  相澤徹・他
 9.インスリン開口放出の分子機構  永松信哉
 10.インクレチンによるインスリン分泌調節  宮脇一真・他

インスリン作用の分子メカニズム
 11.組織特異的インスリン受容体欠損マウス  植木浩二郎・C.Ronald Kahn
 12.インスリン受容体およびその基質の欠損マウス  戸辺一之・門脇孝
 13.チロシンホスファターゼのインスリン作用における役割  前川聡
 14.PI3キナーゼとインスリン作用における役割  浅野知一郎
 15.aPKCとそのインスリン作用における役割  小川渉
 16.PKBとインスリン作用における役割  荒木栄一・平島義彰
 17.MAPキナーゼとインスリン作用における役割  笹岡利安
 18.糖輸送担体とその調節―特異的細胞内GLUT4小胞のインスリンによる調節  柱本満
 19.レプチンによるインスリン感受性改善の分子メカニズム  蒲原聖可・他
 20.運動によるインスリン感受性改善の分子メカニズム  江崎治・角田伸代

糖尿病の分子メカニズム
 21.1型糖尿病の疾患感受性遺伝子  池上博司・荻原俊男
 22.1型糖尿病における膵β細胞障害の分子メカニズム  花房俊昭
 23.膵β細胞障害におけるpoly(ADP-ribose)合成酵素の意義  内潟安子
 24.1型糖尿病と膵島自己抗体  川崎英二・江口勝美
 25.1型糖尿病動物モデル  佐藤譲・高橋和眞
 26.2型糖尿病疾患感受性遺伝子―糖尿病の遺伝子はどこまで明らかにされているか  岩ア直子
 27.2型糖尿病におけるインスリン分泌異常  石田均
 28.2型糖尿病におけるインスリン抵抗性  小林正
 29.2型糖尿病動物モデル  寺内康夫
 30.遺伝子異常による糖尿病―とくにmaturity-onset diabetes of the young(MODY)について  古田浩人・南條輝志男
 31.ミトコンドリアDNA異常による糖尿病  鈴木進
 32.インスリン受容体異常による糖尿病  小田原雅人
 33.アミリンと糖尿病三家登喜夫
 34.Wolfram症候群原因遺伝子(WFS1)の同定  井上寛・岡芳知
 35.脂肪萎縮性糖尿病とインスリン抵抗性  下村伊一郎
 36.ブドウ糖毒性の分子メカニズム  梶本佳孝・他
 37.膵β細胞と酸化ストレス  井原裕
 38.糖尿病成因における脂肪毒性(lipotoxicity)の役割―その分子メカニズム  島袋充生

肥満とシンドロームXの分子メカニズム
 39.レプチンの生理作用と肥満に伴う代謝異常における意義  益ア裕章・他
 40.内臓脂肪型肥満とアディポサイトカイン  高橋雅彦・船橋徹
 41.脂肪細胞分化の分子メカニズム  高橋信之・河田照雄
 42.β3アドレナリン受容体異常と肥満における意義―SNPsも含めて  吉田俊秀・坂根直樹
 43.UCPの肥満における臨床的意義  細田公則・中尾一和
 44.高血圧の分子メカニズムとインスリン  村上英之・島本和明

糖尿病合併症の分子メカニズム
 45.糖尿病合併症感受性遺伝子  山ア義光・他
 46.ポリオール経路と糖尿病合併症  八木橋操六
 47.ヘキソサミン経路と糖尿病合併症  竹本稔・齋藤康
 48.酸化ストレスと糖尿病合併症  西尾善彦・柏木厚典
 49.プロテインキナーゼCと糖尿病性合併症  堀田饒
 50.細胞増殖因子と糖尿病合併症  羽田勝計
 51.PPARと糖尿病血管合併症  斎藤勇一郎・他
 52.高脂血症と糖尿病合併症  塚本和久
 53.糖尿病網膜症の分子メカニズム  山下英俊
 54.糖尿病性腎症の分子メカニズム―メサンギウム細胞の機能異常  猪木健・吉川隆一
 55.糖尿病性神経障害の分子メカニズム  加藤宏一・中村二郎
 56.動脈硬化症の分子メカニズム板垣昭代・山田信博

■サイドメモ
アミノ酸代謝とインスリン分泌
ヘテロプラスミー
PIP2
多光子励起レーザー顕微鏡
マロニルCoA経路
Coiled-coil
組織特異的ノックアウトマウス
PTP1Bをターゲットとした新しい薬剤の開発
ジアシルグリセロール
MAPキナーゼスーパーファミリー
膜輸送のモデルと小胞輸送
AMPキナーゼ
多因子疾患
細胞性免疫と液性免疫
1型糖尿病の発症予防
インスリンと1A型糖尿病
NKT細胞と1型糖尿病
主働遺伝子と変異遺伝子,微働遺伝子
膵β細胞におけるインスリン受容体の役割
2型糖尿病成因解析に遺伝子欠損マウスを用いる意義
NEUROD1/BETA2遺伝子異常糖尿病とISL-1遺伝子異常糖尿病
ミトコンドリアDNA変異とアポトーシス
ポジショナルクローニング
猶予はいかほど?―β細胞障害の可能性
酸化ストレス
Lipotoxicity,lipoapoptosis,gluco-lipotoxicity
脂肪中心説
脂肪細胞の分化・成熟と細胞内骨格系制御
SNPs(スニップス;一塩基多型)
マロニルCoA経路
ポリオール代謝とグリケーション
オステオポンチン(osteopontin)
内皮型NO合成酵素とビオプテリン代謝
ポリオール経路/グリケーション/PKC
PPAR
HDLの抗酸化作用
網膜症初期の網膜血管病変
アルドース還元酵素阻害薬(ARI)の臨床的有用性
粥腫性動脈硬化症と線維性動脈硬化症