やさしさと健康の新世紀を開く 医歯薬出版株式会社

はじめに

 先日,歯科医にお世話になったとき,大変感心したことがあった.医療の分野では,医療行為をする前に説明と合意が必要であり,インフォームドコンセントとして重要視されている.歯科医師もそうした理念を尊重して治療にあたるわけである.
 私は,これからの治療方針について,やさしく親切な説明を受けた後,抜歯をする前の麻酔の注射を打たれたのであるが,注射針を歯肉に突き刺すときも,麻酔液を歯肉の奥深く注入するときも,全く痛みがないのにはおどろいた.いわば痛みゼロである.まるで手品のようで,これには大変感動した.その歯科医と歯科衛生士は一連の“行為場面”において,痛みや心理的・精神的苦痛がないよう,次の(1)〜(8)に示すような細心の注意を払っていた.
 (1) 治療のため,椅子を倒すときに,その旨の声かけを十分な間をとって行った  (同時に行うとびっくりし,とても乱暴な感じを受け,いやな気分になる)
 (2) 歯科医は治療のため,指で口を大きく開けるとき,声かけとともに唇を強く押 しつけないように注意を払った(治療上必要行為なので,少しぐらい痛くてもしかたがない,結果として,唇や歯肉を傷つけてもやむをえないといった感覚は不 可抗力につけこんだ虐待的行為で,人権を傷つけられたように感じる)
 (3) 麻酔注射をする前に,恐怖心を和らげるための声かけをした
 (4) 麻酔注射を行うとき,針を歯肉に刺す瞬間から終了まで,その全過程において,  痛みがゼロとなるように必要な技術を用いた
 (5) 麻酔注射の行為中も精神を安定させるための声かけを行った
 (6) 抜歯の治療行為中も進行状況の説明と不安を排除するための声かけを行った
 (7) 抜歯の治療行為も,必要以上に力が加わった感じを受けずスムーズであり,負 担がなかった
 (8) 麻酔液の量も適当で抜歯後の唇周辺の腫れもなく,麻酔がきれても痛みは少しもなかった
 (1)〜(8)に示した事項については,私を治療した歯科医や担当の歯科衛生士に限らず,多くの歯科医が患者に対して必要な配慮として認識しているはずである.しかし,理想を描いても,ここまで徹底できず現状に甘んじているのが実状ではないだろうか.私が,この歯医者にめぐり合うまで,納得が得られず,何軒もの歯科医院を変えた所以である.それまでの歯科医と比較してみれば,患者に対する“気づかい”の差は歴然としている.“気づかい”の欠如は,すなわち医療専門職としての専門性の欠如ではなかろうか.また,苦痛を最小限にとどめるための新しい知識や技術の欠落も,患者を嘆かせるであろう.こうした怠慢や,「患てやっている」といった思い上がりが,意識・無意識にかかわらず,患者の心と身体を傷つけるのである.無抵抗な立場である患者の弱みに少しでもつけ込んだり,心理的駆け引きを行使してはならない.「患てもらっているのだから,それくらい我慢をしなさい」はある種の虐待行為である.私は高齢者の福祉事業に携わる一人として,この歯科医での自らの体験を通して,弱い立場にある利用者や患者さんにサービスを提供している介護・看護の専門職はどうであろうか,介護保険におけるサービスの質が問われ,顧客満足度が求められている今日,改めて見つめ直す必要があるのではないかと思ったのである.
 他方,「指定介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)の人員・設備・運営に関する基準(基準省令)」が,老人福祉法および介護保険法で規定されており,介護における食事・入浴・排泄など利用者への提供サービスにかかわる人権擁護実践に直結した義務規定が自立支援の観点から老人福祉法では第15条,第16条,第17条に,介護保険法では第13条,第14条に示されている.これら条文が共通して意図する最低基準遵守のためのキーワードは,各条文に示される「適切」である.つまり,条文の用語をそのまま用いて要約すれば,「処遇を妥当適切に漫然かつ画一的なものにならないよう,懇切丁寧を旨とし,適切な技術をもって介護にあたり,自らその質の評価を行い,改善を図ること」となろう.これを怠慢逸脱し不適切なものとなれば,法律違反となる.また,利用者との契約違反となる.
 そこで本書では,介護・看護職をはじめとする福祉・医療専門職が日々実践しているサービス提供と人権侵害について,虐待および虐待性の排除をケースアドボケイト(利用者の権利を尊重し,よりよいサービスにする)実践としてとらえ,介護・看護職が日常業務として実践している食事・入浴・排泄の介助における介護展開手順に照らし,それぞれの介護場面における虐待防止のためのケースアドボケイト実践を,6つの虐待防止のための「評価基準」にもとづき,解説したい.1999年に人権擁護とメンタルケア,虐待防止の観点から『介護・看護職のための言葉づかいチェックリスト』(医歯薬出版)を発行し好評を得た.本書はいわば姉妹書といえる.チェックリストは,日常ニ務に追われる専門職が手軽に自己点検できるよう配慮している.医療・福祉サービスの利用者にとって,より快適なサービス利用につながるよう,本書が,少しでも介護・看護職の参考となれば幸いである.
 静岡福祉情報短期大学 教授
 社会福祉法人楽寿会 副理事長
 有馬良建

おわりに

 本書では,虐待防止のための6つの評価基準表を示した.この評価基準表は,著者がこれまで20年間,「介護の現場」での経験のなかから,あえて規定した,いわば「私案」であり,有馬式といってよい.著者にとってはまず,勇気ある第一歩を示したのであって,これをもって,最良の「規定」であるとは考えていない.著者が本書を具体化できたのは,日頃の介護に対する思いや介護・看護職に対する期待を率直に表せたからである.また,著者の恩師でもあり,高齢者虐待問題の世界的権威である,多々良紀夫先生(現・淑徳大学教授)による大学院時代からのご指導が大きな原動力となった.心よりお礼申し上げたい.
 2003年7月
 有馬良建
 はじめに 有馬良建

第一部/虐待防止のための評価基準
  「虐待防止の評価基準」の考えかた
    【表1】高齢者虐待の種類と内容(介護・医療施設を中心とした例)
 身体的虐待防止のための評価基準
  身体的虐待防止のための評価基準のとらえかた
   身体的虐待防止のための評価基準表について
    【表2】身体的行為における力加減(パワーコントロール)と虐待との関係
    【表3】痛みにおける身体的虐待防止のための評価基準表
    【グラフ1〜4】身体的虐待(痛み)におけるパワーと時間・頻度との関係
 心理・情緒的虐待防止のための評価基準
  心理・情緒的虐待防止のための評価基準のとらえかた
   (1)言葉づかいによる虐待防止のための評価基準表について
    【表4-(1)】言葉づかいによる虐待防止のための評価基準表(1)(日常生活一般)
    【表4-(2)】言葉づかいによる虐待防止のための評価基準表(2)(具体的禁句)
    「注意を要する言葉づかい」(黄)のとらえかた
    方言の位置づけについて
    評価基準と人権擁護および虐待防止の有効性について
    【表5】評価基準の3領域区分における弊害的特徴(デメリット)
    【表6】評価基準の3領域区分における有効性(メリット)
   (2)顔の表情による虐待防止のための評価基準表について
    【表7】顔の表情による心理・情緒的虐待のための評価基準表
    【グラフ5】心理・情緒的虐待における表情と時間・頻度との関係
   (3)態度による虐待防止のための評価基準について
    【表8】態度による虐待防止のための評価基準表
 ネグレクト(放任)防止のための評価基準
  ネグレクト(放任)防止のための評価基準のとらえかた
   (1)身体的ネグレクト防止のための評価基準表について
    【表9-(1)】身体的ネグレクト防止のための評価基準表(1)
    【表9-(2)】身体的ネグレクト防止のための評価基準表(2)
   (2)情緒的ネグレクト(声かけの欠如)防止のための評価基準表について
    【表10-(1)】情緒的ネグレクト(声かけの欠如)防止のための評価基準表(1)
    【表10-(2)】情緒的ネグレクト(声かけの欠如)防止のための評価基準表(2)

第二部/虐待防止のための評価基準 実践例
  介護・看護職における虐待のとらえかた
    介護・看護職のケースアドボケイト実践とは?
    ケースアドボケイト実践と虐待防止の関係について
    用語解説
  チェックリスト 記入のしかた
 介護展開手順における虐待防止のためのケースアドボケイト実践
  食事介助時
   1 ケアプラン・食事摂取記録等の確認と入室時のあいさつ場面
   2 介助開始前のあいさつ場面
   3 ベッドの角度調節場面
   4 エプロン掛けの場面
   5 手指の清拭の場面
   6 メニューの紹介場面
   7 メニューの自己決定場面
   8 食前のお茶をすすめる場面
   9 安全確保と利用者主体の介助場面
   10 自立支援の声かけ援助場面
   11 主食・副食を混ぜる行為の確認場面
   12 生活リハビリの実践(自立支援)場面
   13 食べ残しの清拭場面
   14 介助終了のあいさつ場面
  入浴介助時
   1 ケアプラン・介護日誌などの確認と入浴介助前のあいさつ場面
   2 残存機能を生かした上着の脱衣場面
   3 残存機能を生かした下着の脱衣場面
   4 プライバシーの保持と保温の場面
   5 入浴ストレッチャーに抱いて移す場面
   6 おむつを取りはずす声かけの場面
   7 おむつをはずす場面
   8 安全ベルトを装着する場面
   9 入浴用ストレッチャーの高さを調節する場面
   10 湯温を確認する場面
   11 シャンプーハットを装着する場面
   12 頭を洗う場面
   13 シャンプー後の顔と髪を拭く場面
   14 シャンプー後の耳を拭く場面
   15 仰臥位で身体を洗う場面
   16 右側臥位で身体を洗う場面
   17 左側臥位で身体を洗う場面
   18 陰部を洗う場面
   19 石鹸を洗い流す場面
   20 安全ベルトを装着する場面
   21 入浴用ストレッチャーの高さを調節する場面
   22 機械浴槽への平行移動場面
   23 浴槽に入るための高さ調節場面
   24 湯加減を確認する場面
   25 浴槽内でのマッサージ場面
   26 湯温・入浴時間の確認と浴槽から出るための高さ調節場面
   27 入浴用ストレッチャーへの平行移動場面
   28 入浴用ストレッチャーを下げるための調節場面
   29 身体を拭く場面
   30 入浴終了のあいさつ場面
  排泄介助時
   1 ケアプラン・排泄記録などの確認と入室時のあいさつ場面
   2 おむつ交換開始の承諾場面
   3@掛け布団をとる場面
   4 パジャマを下ろす場面
   5 テープをはずし,おむつを開く(はずす)場面
   6 陰部を微湯温で洗浄する場面
   7 タオルなどで拭く場面
   8 状態確認の場面
   9 体位保持のためベッド柵を装着する場面
   10 右側臥位の殿部を清拭する場面
   11 右側臥位でマッサージをし新しいおむつを敷く場面
   12 元の仰臥位に戻す場面
   13 左側臥位に少し傾けておむつを取る場面
   14 新しいおむつを装着する場面
   15 おむつの付け具合を確認する場面
   16 残存機能を生かしたパジャマの着衣場面
   17 状態確認とねぎらいの場面
   18 掛け布団をかける場面
   19 おむつ交換終了のあいさつ場面

 参考・引用文献
 おわりに