広がるHippo pathway研究
──癌から各種疾患へ

◎本特集のねらい
畑  裕(東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科病態代謝解析学分野)


■近ごろのHippo pathway研究
 Hippo pathwayが,ショウジョウバエの器官の大きさを決めるシグナル伝達系として見出され,報告されてから十年以上が過ぎた.発見以来,30年のWnt pathwayに比べれば,まだ歴史の浅いシグナル伝達系であるが,人間の子供も10歳を過ぎれば,ニキビも出はじめるし,声変わりもする.ショウジョウバエの研究に基づくHippo pathwayの原型はすっきりしたものであった.接着分子と膜裏うち蛋白からなる上流制御系の下に,2種類のセリン・スレオニンリン酸化酵素からなるキナーゼ・カセット(1つ目がHippo pathwayの名前の由来になったHippoカバで,2つ目はWtsイボとよばれる)が位置し,シグナルが活性化すると,キナーゼ・カセットが作動して下流の転写コアクチベータ(ショウジョウバエではYorkieとよばれる)をリン酸化し,細胞核から細胞質への移行と蛋白分解を引き起こして共役する転写因子(ショウジョウバエではscallopedという転写因子がこれにあたる)による遺伝子転写がオフになるという,直線的で明快な姿形をとっていた.上流制御系には差がめだち,ショジョウバエでひとつの分子が哺乳動物では2つ,あるいはそれ以上に増えるといった違いはあっても(たとえば,Hippoに対応してMST1とMST2,Wtsに対応してLATS1とLATS2がある.制御される転写コアクチベータもショウジョウバエのYorkieに対してYAP1とTAZと2つあり,転写因子scallopedには四種類のTEADが対応する),基本的な構築は哺乳動物でも維持されていた.しかも,その構成因子のいくつかはヒト癌の発症と密接に関係する分子として以前から知られていたので,Hippo pathwayの研究は腫瘍抑制シグナルとして癌研究の視点で展開した.その間に,転写コアクチベータ-YAP1とTAZがES細胞や組織幹細胞において果たす役割も興味を集めるようになり,再生医学分野からの研究者の参入もはじまった.その後,Hippo pathwayの中核を構成する分子が上流制御系→キナーゼ・カセット→転写コアクチベータという1本線の外から制御を受けたり,この1本線の外にシグナルを伝えたりと,例外がつぎつぎと明らかになって,もはや例外と片づけられなくなった.2009年4月,最初のHippo pathwayの国際ワークショップが開かれた時点で,すでにcanonical Hippo pathway(すなわち古典的1本線のHippo pathway)とnon-canonical Hippo pathwayという仕分けが研究者の口端に昇るようになっていた.Hippo pathwayとWnt pathwayやNotch pathway,JNKシグナルとのクロストークも明らかとなり,Hippo pathwayは複雑なネットワークのなかに埋め込まれ,どこまでがHippo pathwayか,何がHippo pathwayの本質か,曖昧になってきた.他誌のことで恐縮ながら2011年9月に『細胞工学』誌に“Hippo pathway:癌・細胞死・再生の新たな鍵を握る器官サイズ制御シグナル”という特集号を編んだときにはこのようなHippo pathwayの全体像をHippo曼荼羅と表現させていただいた.それから早くも3年である.Hippo pathwayのキーワードで検索される論文は2010年までの8年間で総数200,2011〜13年では400,2014年は9カ月ですでに200あまりであるから“広がるHippo pathway研究”といい表しても誇大ではないと思われる.ゲノムワイドのノックダウン・ライブラリーを使って哺乳動物のHippo pathwayを制御する分子の探索が行われ,その成果の一部が発表されているが,未解析の分子が残っているから,この後にも報告が続き,さらに複雑化するであろう.哺乳動物では標的分子である転写コアクチベータが遺伝子転写のみならずmicroRNAを制御することが明らかにされたし,クロマチンのリモデリングにもかかわっていそうだ.G蛋白共役型受容体シグナルや,アクチン細胞骨格,機械的ストレッチの制御を受けるという発見もあった.ショウジョウバエの研究からはHippo pathwayと“細胞競合”という事象の関係に注目が集まった.線虫にもHippo pathwayに類似するものがあるという議論も提示された.もっとも線虫のHippo pathwayでは“上流制御系→キナーゼ・カセット→転写コアクチベータ”からなるcanonical Hippo pathwayの一部のみが保存されているようで,ショウジョウバエと哺乳動物で上流制御系に差異がめだつことと合わせて,Hippo pathwayの本質は何か,問い直さなければならない状況にもある.2013年には著者が知るかぎりでも5報のプロテオミクスレベルの解析が報告され,それらの論文ではHippo pathwayを支える蛋白分子相互作用が描出されているのだがかのHippo-Wts-Yorkie(MST1/2-LATS1/2-YAP1/TAZ)は天空の星のような無数の分子に埋没して“ウオーリーを探せ”さながら一見しただけではどこにいるのかわからない.すなわち,研究の進展に伴い,2011年の曼荼羅状態はさらに重層化している.Hippo pathway研究の急速な進展に伴い,Hippo pathwayに関する英文レビューはたえず上梓されている.毎年,恒例のようにレビューを更新する研究者もいる.しかし,日本語の総説はこの3年間にまとめられていない.そろそろ,まとめ直す時期が来ている,というのが本特集を提案したきっかけである.

■Hippo pathway研究に多くの研究者の参入が望まれるのはなぜか
 ではだからといって,この特集で現時点でのHippo pathwayのすべてを網羅しようと意図しているかというとそうでもない.Hippo pathwayの全容はあまりに複雑化している.Hippo pathway研究の展開を網羅し尽くそうとすれば,コンピュータや電化製品の分厚い取扱い説明書を突きつけるようなもので,読み通す気持ちを萎えさせて,Hippo pathwayになじみのない先生方をHippo pathwayから遠ざける効果しかない.Hippo pathwayはまだ伸び盛りの研究領域である.なるべく,Hippo pathway研究に幅広い関心を集めて盛りあげたい.いや,本音をいえば,無闇に競争相手を増やさずに,落ち着いて静かに研究したいところだが,Hippo pathway研究がもたらす成果を考慮するとあまり悠長なこともいっていられない.Hippo pathwayの破綻,YAP1,TAZの活性化がヒト癌で高頻度に認められ,臨床的予後の悪化と相関し,実験的には,癌細胞の間葉細胞化,幹細胞化をもたらすとなると,Hippo pathwayの機能を高め,YAP1,TAZを抑制すれば,癌治療に有益と三段論法的に導かれる.Hippo pathway研究の成果は癌治療につながるだけでない.Hippo pathwayとYAP1に関する心臓の研究はYAP1の機能を高めると心臓に対して保護的に働く可能性を示唆している.皮膚の再生についても同様の期待がある.神経幹細胞の機能にもYAP1の活性は必須である.となると,YAP1の活性剤は,心筋梗塞,火傷,加齢に伴う脳の高次機能障害に対して治療的に有用と期待される.TAZは,間葉組織幹細胞の骨細胞,筋細胞分化を促進し,脂肪細胞分化を抑制するので,TAZを活性化すると骨粗鬆症,筋萎縮,肥満治療に役立つと予測される.実際,ここ数年の間に,癌治療目的ではYAP1と転写因子TEADの共役を阻害する化合物やペプチドが報告されている.TAZ活性化剤については,骨粗鬆症,肥満治療目的の特許が申請されている.著者らも最近,筋委縮治療を目的とする薬剤を特許申請した.ただ,いずれも研究室レベルの成果であり,製薬企業による大規模な取組ではない.
 国家戦略として創薬に向かって旗振りがされ,大学,製薬企業,各種研究所を巻き込む枠組みも用意されている.誰もが,癌をはじめさまざまな疾病を対象とする画期的新薬の開発が必要と認めている.ところが,その一方で,薬づくりの難しさが強調され,薬になるのは何万個に一つというような悲観的見通しがつねにささやかれ,創薬に携わる現場においては片や開発を急ぎながら一方ではどうせ使える薬まで到達せずに終わるであろうと冷めた気分を払拭しきれずにいる気配がないともいえない.従来にない標的を対象とする薬を開発すれば画期的新薬につながるかもしれないが,はたして,その“従来にない標的”を叩いて本当に効果があるのか,とんでもない副作用が起こらないか,危惧すべき点は多々あってリスクを考えるとおいそれと飛びつきたくはない.できれば,まずだれかにさきに標的の有効性を立証してもらってから手を出したい.あたかもアメリカ自動車産業の黄金期に,GMを筆頭にフォード,クライスラーとビッグ3が並び立っていたデトロイトで,GMの経営者がDon't let GM do it first,let the other guy make the early,expensive mistakes.(David Halberstam,The Reckoning)とつぶやいたのに似た状況がある.しかし,治療すべき患者は現に存在する.株主の利益を守る使命をもつ企業にハイリスク・ハイリターンの原理を押しつけてよいのか,そもそもヒトの命,健康にかかわる医薬品や医療機器の開発を,自由競争の市場原理に委ねておいてよいのかは別に問う必要がありそうだが,とにかく,現況において,Hippo pathwayを創薬の対象として押し出そうとするには多くの知見を短期間に集中豪雨的に集積して,むしろ,乗り遅れの危機感を醸成するしかない.行動単位が小さく,意志決定に時間が掛らないアカデミアの研究者こそがその担い手としてはふさわしい.Hippo pathwayを標的とする薬剤は,新しいカテゴリーの薬剤だからこそ,その効果をこれまでの尺度で測ろうとするのは間違っているかもしれない.発癌のドライバーとなるような分子を,ピンポイントで叩く薬剤を開発して劇的な癌縮小を引き起こすというのが癌治療薬の現行のスタンダードになっている.Hippo pathwayの破綻は発癌そのものよりも発癌後の癌細胞の悪性化や維持にかかわっているかもしれない.Ki-Rasの変異体でドライブされて発症する膵癌においてはKi-Rasの下流でYAP1が活性化して,やがて,Ki-Rasの変異と独立して癌が維持されるようになるという実験報告もある.Hippo pathwayを標的とする癌治療薬の効果は癌そのものの縮小では測れない可能性もある.YAP1,TAZの活性化により組織幹細胞の機能を高め,組織修復を促し,組織の若返りをはかるとなると,片や,癌化の危険を抱えることになり,薬の投与経路,投与期間を含めた工夫も求められる.どのような発想が正解になるかわからない.1つ,2つの大規模な取組みをするよりも小さくても多様な試みを無数に積み重ねるべき局面にあると思われる.まさに,アカデミア向きといえる.

■本特集の編集の実際
 本特集の編集にあたり,まず心がけたのは,この三年あまりの間,Hippo pathwayについて新しい成果を発表された研究グループからご寄稿いただくことであった.それによってHippo pathway研究が十分に若々しく,豊潤な魅力的な研究分野であると感じ取っていただきたいと考えた.つぎにはHippo pathway研究がどのような応用的展開に結びつきそうかという展望を大胆に提示してほしいと執筆者にお願いした.十分な根拠がないままに楽観的見込みを議論するのは浮ついているとみられる.口数少なく,まれに口を開けば,慎重な意見を述べる方が賢明かもしれない.橋を渡らずに叩いている間は失敗のリスクは回避される.だが,すべてが立証されてから着手したのでは遅い.圧倒的な巨体を誇ったGMであれば,露払いの終わった後に徐に土俵に上がることが許されたかもしれないが,群雄割拠ならば,機先を制する速さが求められる.本特集を読まれた研究者や製薬企業関係者のなかから何はともあれ,西に向かって船出したならば,インドへの新航路がみつかるのでないかと勝負にでる機運がもちあがってほしいと願っている.
 最後に繰り返しながら本特集はHippo pathway研究の教科書や百科全書ではない.もともとそれをめざしていない.ご執筆をお願い従お引き受けいただけなかったケースもあって掲載内容はHippo pathwayのすべてを過不足なく網羅する体裁になっていない.本特集をご一読いただき,Hippo pathwayについて興味をもたれたならば,2011年時点までの情報については前掲の『細胞工学』の特集をご一読願えれば幸いである.より専門的な知識を求められる読者は以下の英文レビューをご参照いただきたい.

 1) Enderle,L. and McNeill,H.:Hippo gains weight:added insights and complexity to pathway control.Sci.Signal,6:re7,2013.
 2) Park,H.W. and Guan,K.L.:Regulation of the Hippo pathway and implications for anticancer drug development.Trends Pharmacol.Sci.,34:581-589,2013.
 3) Johnson,R. and Halder,G.:The two faces of Hippo:targeting the Hippo pathway for regenerative medicine and cancer treatment.Nat.Rev.Drug Discov.,2013.
 4) Harvey,K.F. et al.:The Hippo pathway and human cancer.Nat.Rev.Cancer,13:246-257,2013.
 5) Barry,E.R. and Camargo,F.D.:The Hippo superhighway:signaling crossroads converging on the Hippo/Yap pathway in stem cells and development.Curr.Opin.Cell Biol.,25:247-253,2013.
 6) Kodaka,M. and Hata,Y.The mammalian Hippo pathway:regulation and function of YAP1 and TAZ.Cell Mol.Life Sci.,2014.(in press)